第二十話 判断が早いことは良いことだが、勇敢であることと、無謀であることは、紙一重なのだよ
また、一区切り着くまで更新します。
カチン、と小さな音がした。
屋根裏の物置部屋には、もう誰もいない。
セオリアで動く二十四時間時計だけが、金属の塑性制限の中でどうにか形にされた小さな鐘を、決められたリズムで叩き続けている。
高くて細い、頼りなさそうな音。
しかし、確かに時を刻むその響きだけが、さっきまでここにいた“覚悟を決めた男”の残り香のように、部屋に漂っていた。
◇
俺は階段を下り、デイジーの部屋へと向かっていた。
――もちろん、いわゆる、プロポーズをしに、である。
自分でも無粋なことだとは思う。
けれど、社会人として身についた癖はなかなか抜けない。
「他部署」が関わり、「すぐにできる」タスクは「すぐ実施すべきこと」――ライフハックの基本だ。
そう心の中で言い訳しながらも、本当はわかっている。
次に寝て起きたとき、自分の中の決意が揺らぐのが、ただ怖かったのだ。
一歩、一歩。
足が自分のものではないように、感覚がない。
これが緊張なのか、恐怖なのか、自分でも判別がつかない。
ただ一つだけははっきりしていた――ここから先に進んだら、もう後戻りはできない、ということ。
全ての国を敵に回す第一歩が、「女の子を口説く」こと、とは。
物語なら笑い話だが、当事者としては笑えたものではない。
デイジーに拒否されたら、対案はない。
今さら細耳族の国に戻ることもできない。
この世界のどこにも、「何も知らなかった頃」と同じ場所など、もう残っていない。
それでも、ノックだけはした。
「コン、コン」
心臓の鼓動と同じ音がした気がした。
「はい」
か細いけれど、はっきりした返事が、扉の向こうから聞こえてきた。
◇
部屋の中は、月明かりだけが支配していた。
二つの月――白と淡い青の光が窓から差し込み、ベッドの上を柔らかく照らしている。
デイジーはその真ん中で、背筋を伸ばして座っていた。
胸のあたりまである白髪に、同じ白の寝間着。そこに、空色の瞳だけが色として浮かんでいる。
バウワー家の女性陣に遊ばれたのか、髪の一部が小さく結われていて、いつもより少しだけ華やかだ。
「すまない、夜遅くに」
そう告げると、デイジーは首を横に振った。
「大丈夫です。逆に、調子が良くなって寝れずに、この子と遊んでいたところでした」
指さした先で、色ネズミが毛布から小さく顔を出し、こちらをじっと見てから、ちょこんと前足を揃えた。
さっき見たときよりも、デイジーの頬に赤みが差している。
「そうか、それは良かった。心配していたんだ」
「ご心配おかけしました。もう大丈夫です。
あの時、本当に、もう駄目だと思っていました。……それでも、今こうしてここで、お礼を言えるのは、トウヤ様のおかげです」
「え? ……ああ、そうなるのか」
言われてようやく、頭が追いつく。
実質的に、俺は彼女を助けたことになる。
自分の中で、『黒曜のベリウス』との戦いは「攻略」というイメージが強かった。
アクションRPGで、次のエリアに進むために避けて通れないボス戦みたいなものだ。
人を助けるため、というよりは、「ここを倒さないとゲームが進まないからコンティニューする」のが近い。
死にながら戦えてしまう身体もあって、どこか『現実』ではなく、『ゲーム』をプレイしているような感覚が、どこかにこびりついていたのだと思う。
それでも――気がつけば、デイジーを助けることが、当たり前になっていた。
「それは、気にしなくていい。自分が生き残るためにやったことだ」
……そもそも何回か死んでいるので、「生き残る」という表現もだいぶ怪しいのだが、そこは黙っておく。
「そうですか……」
デイジーは少し俯いた。長い睫毛が月明かりを受けて、影を作る。
俺はまだ、デイジーの「立ち位置」を把握しきれていない。
監視役でも護衛でもない。ただの「大切なお客様のお世話係」――そんな枠が存在するのか?
「デイジーはお父さんから、俺のことをどこまで聞いている?」
問いかけると、デイジーはハッとして、表情を引き締めた。
「大切なお客様と聞いております」
「いや、他意はないから、お客様対応しないで」
「はい……」
肩の力が、少しだけ抜ける。
そもそも、デイジーの前提知識を、俺はよく知らない。
ここで焦ってこじらせるわけにはいかない。失敗は許されない。
「数日前、勇者が転生したとのニュースが入った」
「勇者、ですか……」
「勇者って何か知ってる?」
デイジーは、少し考えてから答えた。
「魔王を倒すために女神から使わされる『世界の守護者』です。すでに伝説の存在ですが……細耳族を奴隷から解放した英雄として、細耳族の国では扱われています。丸耳族では違うと思いますが……」
申し訳なさそうに目を伏せる。
五カ国条約には勇者の意思が色濃く反映されている。異種族の奴隷禁止も、その一つなのだろう。
丸耳族は、「奴隷を解放させられた側」だ。評価が逆でも、おかしくはない。
「いや、そこは気にしなくて良い。歴史は立場によって異なるのは当たり前だからな」
俺は丸耳族ではあるが、『丸耳族の国』の人間ではない。
この世界の教科書事情に詳しいわけでもない。
ただ、勇者の子孫が『王』なのだから、その正当性を補強するための、事実とも空想ともつかない“神話”くらいは、きっとあるのだろう。
その中で、「丸耳族に逆らった先代の勇者」がどう扱われているか……想像するのはやめておいた。
「その勇者は、細耳族の国に転生したとのことだ」
「そうなんですか……それは父が喜びそうですね。勇者との友好こそ細耳族の未来であり、真っ先に会いに行きたいと言っていましたから」
デイジーの声が、少し弾む。
ハートレット卿の顔が頭に浮かんだ。
彼は国際情勢について多くを語らず、あくまで「俺の意思に沿う形」で首都行きを提案した。
今から思えば、細耳族の国に“長く留まらせる”方向へ、さりげなく誘導していたのかもしれない。
「今は勇者を探して、国中を駆け回っているかもしれないです」
「いや、それはないな。デイジーのお父上は君を必死に探しているさ」
共にいると思われる勇者を見つけるために。
……そう、俺はその探索から逃げることになる。
デイジーにとっては、国への反逆そのものだ。
――今さら、巻き込むことに躊躇するか。
「そう……ですね。他人には厳しいですが、身内には優しい父でしたから。でも、父は《鑑定》にスキルを持っているので、駆り出されているはずです。議員として、国を背負うものとして、家族を優先できないことは、少なくはありませんでした」
立場が変われば、取れる選択肢も変わる。
それでも――と俺は思う。
「――デイジーのお父上は、勇者を見つけたらどうすると思う?」
「父ならできる限りのもてなしをするでしょう。あとは、女性の私が言うのもなんですが、史実からすれば、引き留めるために美しい女性を使ったりするかもしれません」
「……」
勇者は伝説上の存在。
自分に直接関わることになるとは、普通、考えない。
だからこそ、言葉は直接的でないといけない。
誤解を招く余裕は、もうない。
「……どうしました?」
デイジーの空色の瞳が、不安そうに揺れた。
俺は、その瞳をまっすぐ見て、口を開いた。
「デイジー……ひとつ、謝らないといけないことがある」
本当にひとつか? と内心で突っ込みつつ、今ここで言うべきことはひとつだけだと、自分に言い聞かせる。
「秘密にしていて悪かった。俺は――女神によってこの世界に放り込まれた、『勇者』だ」
「え……?」
空色の瞳が、大きく見開かれた。
瞬きすら、忘れてしまったみたいに。
「おそらく、ハートレット領に転生したんだと思う。不法滞在者と思われて牢屋に入っているところを、お父上に《鑑定》スキルで勇者だと気づかれた。今から思えば、ハートレット領は丸耳族の国から遠く、丸耳族の不法滞在者がいる事自体をおかしいと思ったのかもしれない」
「……」
「そこからは、デイジーの知っての通り、もてなしを受けた。……美しい女性を用意されてね」
「……」
デイジーの耳まで、ほんのり赤くなる。
実際には「美しい」より「可愛い」の方がしっくりくるのだが、アラフォーの感覚で二十歳未満を語るといろいろ拗れそうなので、飲み込んでおく。
肉体年齢はデイジーより若い。きっと大丈夫だ、たぶん。
「デイジーにも伝えていなかったからわかると思うが、お父上は俺が勇者であることを極力隠して首都に護送しようとした……おそらく、勇者の独占を考えたんだと思う」
『細耳族同士ですら無用な争いを引き起こす』
『できる限り秘匿に』
彼の言っていたことは、的を射ていた。
「それは……条約に違反することになります」
「……でも、もしお父上が勇者の存在を全て公開していたら、俺は自由はなかった。結果論かもしれないけど、お父上は、俺の意思を最大限尊重した判断をした」
「……そう言っていただけると、嬉しいです」
デイジーの表情が、ほんの少しだけ和らぐ。
それでも彼女の中では、父としての姿と、政治家としての姿が、きっと何度もぶつかっているのだろう。
「細耳族と勇者のことだけ考えれば、その方が良かったかもしれないけどね……」
この世界は、それを許さない。
勇者転生が明らかになった今、細耳族だけでなく、他国も動いているはずだ。
歴史的経緯を考えると、素直に細耳族が勇者を引き渡すとは思えない――ヴェルヘルムと同じ懸念を、各国の上層部も抱いているだろう。
細耳族がどれだけ隠そうとしても、勇者の所在が明らかになるのは時間の問題。
そして、俺の「恩恵」まで知られたとき、状況はさらに悪化する。
「俺の子供は……魔王を倒す勇者の力を宿すことになる。そして、俺は種族を問わず子供をつくることができる」
「……! それは本当ですか!」
デイジーの瞳が、一瞬、ぱっと輝いた。
長年、細耳族が夢見てきた“もしも”が、目の前の現実として並んでしまったからだ。
「本当だ。――細耳族にとっては悲願かもしれないが……」
「いえ、それは……ううん」
嬉しさと、何か重いものが、彼女の中で衝突しているのがわかる。
光はすぐに揺らぎ、まぶたの陰に隠れた。
「……勇者の血は、国も個人も欲しがります。丸耳族からすれば……自分たちの象徴が奪われる危機感から、大規模な『奪還作戦』が計画されてもおかしくはありません」
勇者が丸耳族に転生し、その子孫が王を継いできた歴史。
それを「外に出す」というのは、彼らにとって王権の根本を揺るがす事態だ。
だが――やることは変わらない。
「均衡は保たないといけないと思っている。そうしないと多くの血が流れる。五種族すべてに“等しく”子を持って、相互監視させる」
口にしながら、自分でもその案が完璧な抑止にはならないと理解している。
それでも、今は飲み込む。ここで全てをぶちまけたら、話が前に進まない。
自分の願いが、どれだけ困難なことなのか。
自分のしようとしていることが、どれだけ無謀なのか。
――そして、それに付き合わせてしまう女性たちが、どれだけ傷つくのか。
血が流れるのは、知らない誰かだけじゃない。
「そうですね……それなら……対抗できるとは思いますが……」
デイジーの声も、少し震えていた。
「でも、それは全て“手段”なんだ」
「手段……ですか」
「本当は、勇者とか、均衡とか、そんなものは正直どうでもいい。ただ――木鈴トウヤとして、家族と一緒に笑っていたい。朝、『おはよう』って言って、夜、『おやすみ』って言える家が欲しい」
言葉にしてしまえば、驚くほどささやかな願いだ。
世界を救うとか、歴史を変えるとか、そういう大層なものじゃない。
「俺は子供に『好きに生きろ』と言える父親にはなれないが――少なくとも家の中では、子供たちが“好きに生きていられる場所”にはしたい。
たとえ、そのせいで全部の国を敵に回すことになっても」
デイジーの喉が、小さく鳴った。
空色の瞳の端に、ほんの少しだけ光が滲む。
俺はゆっくりと息を吐き、その瞳を逃さないように見つめる。
「……それはとても困難な道だけれども、共に歩む相手として――
デイジー。
俺は、君がいい」
「……え?」
掠れた声が、闇の中に落ちた。
「それは、細耳族の国や……お父上すらも、裏切る事になる。もう、元の穏やかな生活には戻れないだろう。
それでも、俺はデイジーが妻であって欲しいと思う」
「……」
デイジーは息を呑み、視線を落とした。
月明かりの下で、その頬がゆっくりと赤く染まっていくのがわかる。指先が毛布をぎゅっと握りしめ、小さく震えていた。
沈黙が、痛いくらい長く伸びる。
だからこそ、ここで逃げてはいけない。
「……あと、最低なのはわかっているが……エミリアにも同じように妻になってもらうように話すつもりだ」
自分で言いながら、胃が痛くなる。
自分の願いのために、全部を捨ててくれ。しかも重婚を許せ。
常識的に考えれば、断られて当然の要求だ。
「デイジーのお父上はデイジーと俺を必死になって探しているだろう。残された時間は多くはない。少なくとも、全てが明らかになるまでには、全ての種族の妻を決めておきたい。全てを平等にするために」
この世界の“平等”は、なんて歪んでいるのだろう。
「まだ、少し時間はある。考えてもらっても良い?」
答えを急かす権利なんて、俺にはない。
本当は土下座でもなんでもしたい気分だが、それをすると余計な負担をかける気もして、どうにも身動きが取れない。
デイジーは、そっと顔を上げた。
迷いと、恐れと、どこか嬉しさのようなものが混ざった複雑な表情のまま、静かに頷いた。
その瞬間になって、ようやく気づく。
いつのまにか、色ネズミがベッドの上でぴょんぴょん跳ね回っていることに。
どれだけ緊張していたんだろうな、と自分でも苦笑したくなった、そのとき――。
「話は聞かせてもらったにゃ!」
扉が勢いよく開いた。
「エミリア?!」
茶の耳が、バッと立っている。
エミリアはそこから一歩踏み込み、そのまま助走ゼロで俺に突っ込んできた。
その目には、はっきりと涙が浮かんでいた。
「くぉ!」
背中がベッドの端にぶつかり、肺から空気が押し出される。
それでもエミリアは、俺を気遣うそぶりも見せず、壊れ物でも抱えるみたいに、けれど力はまったく加減せずに、ぎゅうっと抱きしめてきた。
「痛い痛い、いっいつから聞いていたの?!」
「『すまない、夜遅くに』からにゃ」
残念ながら、エミリアの体はびくともしない。
さすが獣人族の身体強化、伊達じゃない。
「全部じゃないか!」
「プロポーズのところは三回くらい脳内リピートしたにゃ」
「盗み聞きのくせに編集権まで持つな!」
抗議も虚しく、エミリアは俺の襟をがしっと掴むと、そのまま引きずりながら扉の方へ歩き出した。
「ちょ……苦しい苦しい」
手をほどこうとしても、まったく動かない。
力の差が、悲しいくらいはっきりしている。
「デイジー、少しトウヤを借りてくにゃ……またにゃ、デイジー」
エミリアは振り返り、デイジーに向かってウインクを飛ばすと、器用に足で扉を閉めた。
部屋には、呆然としたデイジーだけが残された。
胸の中で渦巻いていた覚悟も、不安も、さっきまでの言葉たちも、
エミリアという嵐みたいな乱入で、一瞬どこかへ吹き飛ばされてしまったようだった。
それでも、月明かりの下で握りしめたその指先だけは、まだ、かすかに震えていた。




