ヤスムント沖海戦(1864)
1863年12月下旬のこと。
プロシア陸軍がシュレスヴィヒ=ホルシュタインに対する侵攻準備を開始すると、プロシア海軍の諸艦艇も強力なデンマーク海軍に対抗するため急ぎ戦闘準備を成し係留錨泊地よりの移動を開始した。
最早外交解決はならず開戦必至となった1月下旬、ダンツィヒを母港としていた汽帆走(蒸気機関によるスクリュー及び操帆推進)フリゲートの「アルコナ」と汽帆走コルベットの「ニンフ」はスヴィネミュンデ(現・ドイツとの国境、ポーランドのシフィノウイシチェ。シュチェチンの北56キロ)へ移り、シュトラールズント(同北西137キロ)に基地を置く砲艦戦隊と協同作戦を行うこととなった。
64年2月1日。デンマーク王国軍のシュレスヴィヒ撤退拒否によりプロシア王国とオーストリア帝国は宣戦を布告し戦争が始まったが、シュトラールズント泊地にあったプロシア海軍艦艇は未だ機関の整備に時間を費やしていた。
デンマーク海軍も準備を急ぎ、2月26日にシュレスヴィヒ=ホルシュタイン地域の全港、3月8日にはバルト海側のプロシア全港に対し海上封鎖を通告する。
しかしプロシア海軍は焦っておらず、それは目前のバルト海が沿岸に沿った航路以外流氷に覆い尽くされていたからだった。
当時、プロシア海軍艦艇の殆どはバルト海におり、北海側には僅かな艦艇が存在していただけだったので、デンマーク海軍は労せずユトランド半島の北海沿岸を数隻のフリゲートやコルベットで封鎖し、艦隊主力をバルト海に置いたままにしておくことが可能となった。
デンマーク海軍でバルト海の封鎖を指揮したのはカール・エヴァルド・ファン・ドクム海軍少将、当時60歳だった。
ドクム
ドクム提督が使用可能だったバルト海のデンマーク封鎖艦隊はプロシア海軍の総力を以てしても適うはずがない規模と実力を持っており、流氷で覆われた冬季のバルト海ということもあって、封鎖は実に簡単だった。
封鎖直後の3月上旬、スヴィネミュンデとシュテッチンの封鎖は、戦列艦「スキョル」と5隻の砲艦や通報艦によって行われ、封鎖戦隊は流氷の少ない沖合の細い航路上を遊弋するだけでプロシア艦船の出航を防ぐことが出来た。同じくダンツィヒの封鎖も戦列艦から改装されたばかりの装甲艦「ダンネブロ」と5隻の砲艦やフリゲートによって行われた。
この64年3月、デンマーク海軍は汽帆走と外輪駆動の蒸気機関動力艦・大小併せて31隻・積載砲387門を持ち、その内26隻(363門)が即時運用可能だった(84%と優秀な稼働率)。デンマーク海軍は近代化の最中で旧来の非動力帆走艦艇は10隻のみに減り、他に沿岸防衛・哨戒用のガンボートが50隻あって水兵の総数は3,757名だった。
一方のプロシア海軍は動力・非動力併せ23隻、積載砲は僅か85門、水兵も1,636名で、遠洋航海に耐えられる艦艇は数隻しかない「沿岸艦隊」、装甲艦は1隻も保有していなかった。
これに対しデンマーク海軍は4隻の装甲艦、「ロルフ・クラケ」「ダンネブロ」「エスベルン・スネア」「アブソロン」を持ち、特に「ロルフ・クラケ」は前年(63年)イギリスで建造された初期の「装甲砲塔艦」で、当時世界最新鋭の軍艦だった。因みにプロシア海軍初の装甲(砲塔)艦「アルミニウス」は当時ロンドンにて建造中で就役は65年となる。
3月上旬、流氷とデンマーク海軍両方の危険を冒して出航したプロシア船籍の商船数隻がデンマーク海軍の封鎖艦隊によって拿捕され、これは予想されていたこととはいえ、無視するわけにもいかなくなったプロシア海軍首脳陣は対策を協議し、海軍司令官の親王アダルベルト・フォン・プロイセン海軍大将は実戦担当のエドゥアルド・カール・エマニュエル・フォン・ヤッハマン大佐に対し封鎖突破のための作戦準備を行うよう命じたのだった。
ヤッハマン
3月12日。ヤッハマンらの尽力によりプロシア海軍艦艇の出撃準備は整う。流氷もこの日から沿岸部より遠ざかり始めた。
14日には国王ヴィルヘルム1世から「スヴィネミュンデ沖にいると思われるデンマーク艦隊を偵察し可能ならば追い払うよう」勅命が出される。これを受けアダルベルト親王は16日、ヤッハマンに対し敵封鎖艦隊の偵察を命令した。しかしアダルベルト親王は天候悪化や敵艦隊が優勢な場合は無理をせず引き上げることも命じていた。
流氷が航路筋から離れ始めたことでプロシア船舶や海軍艦艇が出航することを期待したデンマーク海軍のドクム提督は、2日前の14日から主力を率いてスヴィネミュンデに近寄り遊弋していたが、この日(16日)バルト海の天候は最悪で、吹雪により視界は極端に悪く、スヴィネミュンデからリューゲン島の南海上に出た「アルコナ」と「ニンフ」は哨戒中何も発見することはなかった。
この悪天候のため喫水が浅く転覆の恐れさえあるプロシアの砲艦は、旗艦「ローレライ」と共にスヴィネミュンデの海岸泊地に留まっていた。
ところが15時30分前後、スヴィネミュンデに引き返す途中の「アルコナ」と「ニンフ」はリューゲン島の東方沖で3隻の艦影を発見する。「アルコナ」に座乗していたヤッハマンは相手を確かめようと接近を試みたが、海は時化て既に夕刻、海上は暗くなりやむなく引き返す。
ヤッハマンは明日、今一度戻って確認しようと決心しスヴィネミュンデ泊地へ帰ったのだ。
もちろんヤッハマンにもデンマーク海軍の封鎖を解くことなど到底不可能なことは分かっていた。
戦力差は大きく練度も違い、何よりも伝統が違っていた。ヤッハマンら「生まれたての海鷲」は敵と違い自らが伝統を作り出している最中だったのだ。
そのような精神的差異を論じなくとも、そして明日、敵将ドクムが下手を打ちヤッハマンに幸運が巡りプロシア海軍が戦術的勝利を得たとしても、既にプロシア海軍は戦略的に敗北していた。地理から見てもデンマークは半永久的にカテガットやベルト海峡を抑えており、バルト海にいるヤッハマンたちが北海へ出ることは不可能に近かった。北海に出られないということは世界に出ることが出来ないということで、ヤッハマンたちは正に「池の中の鯉」状態だったのだ。独が北海に面するヴィルヘルムスハーフェンを完成し大型軍艦も通行可能なキール運河を切り開くのは遙か先の話となる。
それでもヤッハマンは敵と刺し違える覚悟で自身が率いる戦隊を囮に使い、沖合のデンマーク艦隊を沿岸まで引き寄せ、グライフスヴァルター・オイ島(スヴィネミュンデの北西43.5キロ)の南海面に潜ませる予定の砲艦戦隊まで誘導しようと考えたのだった。
※64年3月17日のデンマーク海軍「ドクム戦隊」
戦隊司令官 海軍少将カール・エヴァルト・ファン・ドクム
○汽帆走戦列艦「スキョル」
排水量2,065トン 兵装/30ポンド前装滑腔砲x50、18ポンド前装滑腔砲x6、18ポンド前装施条砲x6 最大速力8ノット(時速15キロ) 兵員・不明(500~600名)
○汽帆走フリゲート「シャルラン」
排水量1,934トン 兵装/30ポンド前装滑腔砲x30、18ポンド前装施条砲x8、12ポンド前装滑腔砲x4 最大速力10ノット(時速19キロ) 兵員・423名
○汽帆走コルベット「ヘイムダル」
排水量892トン 兵装/30ポンド前装滑腔砲x14、18ポンド前装施条砲x2 最大速力9.5ノット(時速17.6キロ) 兵員・164名
○汽帆走コルベット「トール」
排水量803トン 兵装/30ポンド前装滑腔砲x10、30ポンド前装施条砲x2 最大速力9ノット(時速17キロ) 兵員・139名
○汽帆走フリゲート「トーデンズキョル」
排水量1,453トン 兵装/60ポンド前装滑腔砲x2、30ポンド前装滑腔砲x14、16ポンド前装滑腔砲x16 最大速力8ノット(時速15キロ) 兵員・不明(400~500名)
スキョル
シャルラン
※64年3月17日のプロシア海軍「ヤッハマン戦隊」
戦隊司令官 海軍大佐(コモドーレ/戦隊指揮官)エドゥアルド・フォン・ヤッハマン
○汽帆走フリゲート「アルコナ」
艦長 エドゥアルド・フォン・ヤッハマン大佐
排水量2,391トン 兵装/68ポンド前装施条砲x6、36ポンド前装滑腔砲x20 最大速力12.4ノット(時速23キロ) 兵員・380名
○汽帆走コルベット「ニンフ」
艦長 ラインホルト・フォン・ヴェルナー少佐
排水量1,202トン 兵装/36ポンド前装滑腔砲x10、12ポンド前装滑腔砲x6 最大速力12ノット(時速22キロ) 兵員・190名
○外輪推進通報艦「ローレライ」
艦長 ハンス・クーン少佐
排水量430トン 兵装/12ポンド前装滑腔砲x2 最大速力10.5ノット(時速19.4キロ) 兵員・65名
*砲艦戦隊司令部旗艦
砲艦戦隊司令官 伯爵カール・ルートヴィヒ・アレクサンダー・フォン・モンス少佐
○1等汽帆走砲艦「コメット」
排水量415トン 兵装/24ポンド前装施条砲x1 12ポンド前装施条砲x2 最大速力9ノット(時速17キロ) 兵員・66名
○2等汽帆走砲艦「ヘイ」
○2等汽帆走砲艦「ハイエナ」
○2等汽帆走砲艦「プフェイル」
○2等汽帆走砲艦「スコーピオン」
○2等汽帆走砲艦「ヴェスペ」
排水量279トン 兵装/12ポンド前装施条砲x2 最大速力9ノット(時速17キロ) 兵員・40名
※24ポンド砲の口径はおよそ15cm、12ポンド砲は同12cm
アルコナ
明けて3月17日黎明。リューゲン島東海岸の沿岸監視所から「敵艦隊視認す」との報告がスヴィネミュンデにもたらされる。
ヤッハマンは砲艦戦隊長のモンス少佐に対し砲艦に自分たち戦隊を追ってグライスヴァルト・オイ島沖まで出撃させるよう命じると、7時30分、「アルコナ」「ニンフ」の2隻で出撃した。
ヤッハマン戦隊は最初北東方向に進むがデンマーク艦隊を発見せず、正午に進路を西へ変えてグライスヴァルト・オイ島へ向かった。
13時15分、「アルコナ」艦上マストトップの監視兵が「北西に煙が見えます」と報告する。ヤッハマンは直ちに戦隊を北西方向・即ちリューゲン島に向け、するとヤスムント半島沖で敵将ドクム率いる艦隊と遭遇した。
ヤッハマンは「アルコナ」と「ニンフ」に敵と平行になるよう回頭させ、するとリューゲン島南東のグライフスヴァルター・オイ島近海に砲艦戦隊を導いた後で本隊に急行して来た「ローレライ」も現れ後続した。
ローレライ(1871の艦影)
ほぼ同時にプロシア戦隊を発見したドクム提督は戦隊をそのまま敵と反航するように進ませ、14時30分、先頭を行く「シャルラン」が「アルコナ」からおよそ1,500mの距離になると旗艦「スキョル」に面舵(右舷側への変針)を取らせ「シャルラン」の右舷外から覗く形で「アルコナ」に向け砲撃を開始した。
元より「アルコナ」と「ニンフ」を「餌」にしようと考えていたヤッハマンは、敵の巧みな操艦を見るや砲撃を避けようと「アルコナ」にも面舵一杯を命じ、旗艦は「回れ右」で転向する(敵から遠避かる形)。しかしヤッハマンは後続する「ニンフ」と「ローレライ」に対し事前に旗旒信号なり手旗なりで「面舵転向」を知らせることを怠った(間に合わなかった、とも思われる)ため、不意を付かれた両艦は数分の間そのまま直進してしまった。
敵艦列の乱れを見たドクム提督は即座に目標を「ニンフ」に変更させ、砲撃する「シャルラン」の先に立った。右旋回に手間取った「ニンフ」は数分の間に帆布や装具に多数着弾し損傷を被った。
ヤスムント沖海戦
ドクムは「ニンフ」と「ローレライ」に向け砲撃を繰り返させ、両艦を「アルコナ」から孤立させようと計ったが、「ニンフ」の乗組は冷静に損害を修復して操艦に大きな影響を与えず、速度を上げた「ニンフ」は出来る限り敵艦から離れるようにしたが、その後数十分間は一方的に被弾してしまった。
15時過ぎ、デンマーク艦隊には北方より増援として汽帆走フリゲートの「トーデンズキョル」が接近するが、同40分、グライスヴァルト・オイ島沖に待機していた普軍砲艦戦隊が最大射程(2,250mと言われる)から砲撃を開始した。デンマーク側も「ニンフ」と「ローレライ」を追いつつ普軍砲艦にも射撃を行ったが、双方ともに距離が遠過ぎて命中弾はなかったという。
その間、「ニンフ」と「ローレライ」は追跡中のドクム戦隊から激しい砲撃を受け続けた。先を行く「アルコナ」にも着弾したが、普軍の3艦も撃たれ放しではなく殆どドクム戦隊の先頭を行く「スキョル」に向けて砲撃を繰り返し、損害を与え続けていた。
プロシア戦隊を追うデンマーク戦隊
次第に夕闇迫る16時、「ローレライ」は転舵し西方に向けて離脱を計る。ドクム提督はこれを無視して損害が見て取れる「ニンフ」を追い続けた。「ローレライ」は砲艦戦隊と合流し、リューゲン島と本土の間を抜けてシュトラールズントへ入港する。
そして16時45分。両陣営共に射程外となり、ほぼ同時に砲撃は止んだ。それでも諦めないドクムは追撃を続けたが、18時、海上が夕闇に包まれると深追いを止め戦隊を東へ転向させて去って行った。ヤッハマンはそのまま「アルコナ」と「ニンフ」をスヴェネミュンデへ連れ帰ることが出来たのだった。
ヤッハマン戦隊長は敵より自分たちの方が速力に勝っている(デンマーク側9ノット前後に対し10~12ノット)ことが幸いし逃げ切ることが出来た。しかし、南側で網を張った砲艦戦隊に引き寄せ一斉砲撃を仕掛けるという作戦は、砲艦戦隊が最大射程で砲撃を開始してしまいその存在を明らかにしてしまったためか、全く遊軍化してしまい失敗してしまったのだった。
海戦中のアルコナ
海戦中のニンフ
この日、デンマーク海軍の損失はすべて「スキョル」で発生し、戦死6名、負傷16名を報告する。
プロシア側は「アルコナ」で戦死3名・負傷3名、「ニンフ」で戦死2名・負傷4名、「ローレライ」で負傷1名(翌日死亡)が記録されるが、集中して狙われた「ニンフ」の損傷は大きく、艦体に19発、甲板及びその構造物に4発、マストと帆布・索具など艤装に50発の着弾を認めた。
結局、この「ヤスムント沖海戦」は封鎖に何の影響も与えず、砲艦に不意打ちの砲撃を行わせるヤッハマンの作戦も失敗したため、一般的には「デンマーク海軍の勝利」と言われる。
しかしヤッハマンは直後、ヴィルヘルム1世から賞賛の言葉を受け、「戦力に大きな差があったにも関わらず海軍が示した敢闘精神を称える」としてヤッハマンは海軍少将に昇進した。
17日深夜、封鎖の定位置に戻ったドクム戦隊にもう1隻、汽帆走フリゲートの「ユラン(ユトランド)」が加わった。この艦は死傷者を運び修繕を行うため母港へ帰る「スキョル」の代換だったが、最大戦速12ノットを発揮出来たため、これでヤッハマン戦隊の速度の優位性は失われてしまった。更に3月30日にはダンツィヒ沖から離れた装甲艦「ダンネブロ」が参加したため、バルト海においてプロシア海軍に勝ち目は殆ど無くなってしまった。
ヤスムント海戦の報告で「デンマーク艦隊は全ての点で我らより優れていた」と潔く負けを認めていたヤッハマンは、その後会敵を想定した出撃を一切禁止してしまう。4月に2度、偵察のため最高速力13ノットと快速の通報艦「グリレ」がバルト海に出たが、デンマーク艦船に遭遇することはなかった。
ドイツ海軍の黎明期、最初の本格的海戦となったヤスムント沖海戦は、この戦争で唯一バルト海にて行われた海戦となった。
ヤスムント海戦(アレクサンダー・キルヒャー画)