Minerva Chapter‐0
サキュバス。
植物と結合した新人類。
このアーガトラム大陸には“寄生樹”と呼ばれる木が存在する。
さる呪術では人の肉に宿らせることで呪い殺すなんてものもあるほどに生命力が強い。
だがそれ以上に人間の生きる事への執着は上だった。
サキュバスがその証である。
人の脳に含まれる水分は植物を育てるのに十分な量を有しているとされている。
芳醇な栄養を飲みくだしながら発芽した寄生樹は脳神経と複雑に絡み合い、まるで茨に絡みつかれたような痛みを人に与える。まるで罰のように。
だが人々は長生きしたいという意地だけで呪いを押さえつけ、子を産み、何世代も繰り返すことで“呪い”を“当たり前”におとしめた。
脳神経と絡みついた寄生樹の力で心臓はまるで常にフルマラソンをしているかのように興奮しているし、その影響であふれる血流は臓器の機能をも爆発的に向上させた。細胞はいつだって活発に活動している。ビーチでひと時の恋に燃える若者のように。
背中から生えている羽はこうもりの翼に似ているが、実際は巨大な双葉であって羽ばたく役割は持っていない。
知能・運動能力ともにバイタリティ溢れる生命体としてこの世に生まれおちたのだ。
だがしかし、肉体こそ強靭であるが魂がそうであるとは限らない。
そう、たとえばこんなふうに……。
ドロップスの酒場は、繁華街から少し離れた路地にあった。
日暮れと共に店を開け、日の出とともに閉店するという、酒飲みにはありがたいことこの上ない営業時間を誇っている。
そこそこに美味い酒と料理をそこそこの価格で提供してくれる、きわめて庶民的な酒場である。
エルフ、ドワーフ、ボビット。
種族は様々だが、ここに来る客のパターンは三種類にまとめられる。
仕事の疲れを酒で薄める客。
夜の仕事前に英気を養う客。
そして――失恋の痛みを忘れたい客である。
「フラれた~!」
彼女――ミナーヴァ・キスの悲鳴が店に響き渡る。
だが樫の木で組み上げられた頑丈な広場は喧噪に満ちていて、悲鳴程度――いや、下手をすれば銃声すらかき消されるような激しさに満ち溢れていた。騒音がドアの向こうまでこぼれそうな勢いである。
だからこそミナーヴァは思う存分泣き叫ぶことができたし、カウンター越しにいるバーテンダーに愚痴りまくっている真っ最中なのだ。ちなみに酒は一滴も飲んでいない。自棄を起こしていても一線は超えない主義である。
「――だってあいつクラリス見て「あの子可愛いね」とか「いつから友達?」とか聞いてきて、しまいには「やっぱり付き合うならああいう小さくて可愛い子だよね」とか抜かすんですよ!? どうせあたしはデカいですよバーカ」
ようは彼氏が親友に色目使い始めたのでケンカになり、殴り合いになり、ほんのちょっぴり――まぁ半年以上の療養を必要とする内臓破裂粉砕骨折程度の――傷を残して円満に別れたというわけだ。だからといって傷ついていないというわけではない。
ミナーヴァの見た目は決して悪くはない。いやむしろ優良物件の部類に入るだろう。
鍛え上げたボディは野生動物と同室のしなやかさと強靭な美しさを保っているし、年相応の力強い若々しさと自信に満ち溢れている。
とはいえ、今の彼女は失恋のダメージで粉々に砕かれていて、椅子に尻を縫い付けたままカウンターに突っ伏してめそめそと泣きはらしていた。彼女の心は不幸という名のカビに蝕まれている。
いいことが一つもない。
貧乏だし夢も叶えられない。
ついでに彼氏にフラれるし。
「あたしは世界一不幸なサキュバスだぁ……」
(10、9……)
なおも世界に呪詛の言葉を吐き散らかしているが、心の中では規則的なリズムを刻みながら数字を数え始めていた。時計のように。
「何だよ小さい方が正義なのかよ」
(……5)
「いやたしかにクラリスは可愛いですよ。あたしも大好きですよ? でもさ……」
(……4)
「あたしなりに尽くしましたよ。何それじゃだめなわけ?」
(……3)
「自分だって悪いところばっかじゃん。しかもクラリスに手ェ出そうとしやがって」
(……2)
「何さ何さ何さ何さ……」
(……1……0!)
「――はい。悩むのおーしまい!」
心のスイッチを切り替えて、喉から迫り上がってくる乾いた感情をドリンクで洗い流す。ついでに心のカビも殺す。
カラ元気でも、元気には変わりない。ミナーヴァには自分に課したルールがあるのだ。――自分の面倒は自分で見る。
ドリンクを一気にあおった拍子に、懐に入れていたメモが――粗雑に千切られた羊皮紙――カウンターを滑る。
ミナーヴァの青い瞳にメモの文字が映る。
別れ際に元カレがくれたメッセージだった。書かれているのは――
「831って何だよ訳わかんねーよ」
その愚痴に応える声があった
だけどそれはバーテンダーではない。
声があまりにも幼すぎた。
「8つの文字。3つの単語。1つの言葉。いわゆるナンバースラングで答えは――I love you」
突然の声に、ミナーヴァは振り返る。
そもそもこの店に来たのは待ち合わせの約束があったからなのだ。
待ち合わせ前に彼にフラれてそれどころではなくなったが……。
振り返った先にいたのは――人間ではなかった。
喧噪の中でもはっきりと分かる、高そうな靴が床を叩く音。
腰まで届いた銀糸のような髪はまっすぐで美しく、幼いが整った顔立ち。
この酒場の全てを集めて売った金よりも高いであろうスーツ越しでもわかる、折れそうな矮躯。さながら精巧な人形のようだった。
相手が人間でないとわかったのは、手で包めそうなくらい小さな頭に生やしている――羊のように立派な角を見たからだ。金の光沢を放っていて、まるで金属のようであった。
顔の左半分を蝶を模したような仮面で――否、体の一部で覆われているが、それでも可愛らしい顔立ちは隠せていなかった。
「変わってるね」
「え?」
鈴を鳴らしたような澄んだ声でそう言われて、一瞬ミナーヴァが戸惑う。
「アルコール臭に満ちたバーで紅茶を飲む女性はそういないなって思って」
「え? あ、あー……好きなんです。バニラフレーバーティー」
相手は上唇をめくって上品に微笑み、軽く会釈した。
「初めまして。アクチェ・ヴァルカです」
可愛い子だなとミナーヴァは思った。締め付けられる思いを抱えながら。
(こういうちっちゃい子がモテるんだろうなぁ。あたしもこんな風だったら。フラれたりしなかったのかな……?)
しまい込んだはずの感情が蓋の隙間からにじみ出てくる。泣き出しそうだった。
自棄を起こしたい。でもそれはダメだと抑える自分もいた。一線を越えるべきじゃない。それは自分に科したミナーヴァのルールだった。
悶々(もんもん)としているミナーヴァに影が差す。
それは角が生えたあの相手だと気づくのに一瞬遅れてしまう。
耳元に相手の唇が近づいてくるのが分かる、吐息だって感じ取れる距離。
「別のところで飲まない?」
相手の声が脳まで直接響く。心の扉をノックしているような危険な香り。
そして今日のミナーヴァの気分は捨て鉢であった。
だから……一線を越えた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ミナーヴァ・キスは悩んでいた。
目が覚めると、自分は柔らかいシーツの海に沈んでいた。
シーツの感触が分かったのは、自分が服を着ていないせい。
見慣れない天井。窓から入ってくる柔らかい光と鳥の囀り。典型的な朝チュンの光景である。
ミナーヴァは目をぱっちりと開けたまま、片っ端から脳に沈んだ記憶を引っ張り出している最中だった。全身からは脂汗が噴き出ている。
自分は昨日彼氏にフラれて口論して勢い余って拳を相手の顔面にめり込めせて総入れ歯にしてやるつもりで何度も無我夢中で殴って簀巻きにしてその辺のドブに叩き落としてから飛び出してドロップスの酒場で泣きはらしたところまでは覚えている。
――逆を返せばそこから先の記憶がない。
なんか他にも記憶が抜けてるところがある気がするが、それはこの際どーでもいい。
今一番ビッグな問題は、隣に寝ている人は誰なのかということだ。
「……あぁ、目が覚めた?」
低い声が部屋に響く。
隣で寝ていた子が体を起こす。シーツが捲れて浮かび上がる一糸まとわぬ肢体。
長い髪。羊のような角。白くて細い体。
意外と肩はしっかりしていて胸はまっ平らだし、スプリングを軋ませている手は筋張っていて、顎の下にはうっすらと喉仏が見えている。
ようやくミナーヴァは、自分がとんでもない勘違いをしていたことに気づく。
「男だったの!?」
男の子――アクチェ・ヴァルカは軽く握った手で口元を隠しながらくすくすと笑う。お出かけ用ではない低い声。たぶんこっちが素なのだろう。
「君に言いたいことが三つある。一つ。人はものを見ているようで見ていない。背が小さくて髪が長いというだけで乙女だと勘違いしたのは、君のミスだ」
指摘されて、ミナーヴァは素直に反省した。反論できねえ。
「……あの、もう一つは?」
ミナーヴァの質問に、アクチェは黙ってほっそりとした指をさす。床に無造作に転がされていたそれを見て、ミナーヴァは思わずぎょっとした。
ボロボロになって脱ぎ捨てられたアクチェのスーツ。ところどころが獣に噛みつかれたかのように引き裂かれているし、ワイシャツ――きっとシルク製だ――に至っては無残なまでに引き裂かれていた。
粉々に砕けたビール瓶が転がっている。赤いシミはたぶんトマトソースではないだろう。
何があったのかいまだに思い出せないが、少なくとも何をしたのかはわかる。
その内容を口にしたのはアクチェだった。
「……人の頭にフルスイングするのはやめた方が良いと思うよ。その……ヤケ起こしてる時でも」
「ごめんなさい! ほんっとうにごめんなさい! 弁償します! 治療費も払います!」
「怪我は別に問題ないけど……あれ金貨10枚以上要るけど払える?」
怒っているというより心配しているような、もしくは呆れているような口調でアクチェは告げた。
ちなみに金貨1枚は4人家族が1カ月食べていける額です。
色んな出来事が多すぎて頭がくらくらしてくる。
汗が出すぎて脱水症状を起こしているのではと大真面目に考えて、数瞬後にそう考えるようになっている自分はもうヤバいと気づく。
「ハイ先生」
「どうぞミナーヴァさん」
息を整え、意を決してミナーヴァは口を開いて、目を輝かせた。
どうせ死ぬなら、自分の手で引導を渡すという覚悟の目。
「あの、あたし……あなたとやっちゃったの?」
「……“やっちゃった”って?」
「やっちゃったの?」
「やっちゃったか知りたい?」
「教えてほしいの。やったかやってないか」
アクチェとミナーヴァはにらみ合う。
互いの間を静寂と緊迫が占める。まるで人質交渉をするIQの高い誘拐犯と交渉人のようなピリピリとした空気が溢れていた。
その静寂を破ったのは、アクチェの笑顔だった。
「やっちゃったね」
ミナーヴァは叫んだ。
そして死んだ。
「……まぁ、突発的なストレスと2リットル以上のアルコールを混ぜたらこういう俗っぽい未来が出来上がるっていい例だよ」
亀のように丸まっているミナーヴァにアクチェが話しかける。
「最後の一つ言ってもいい?」
「嘘! これ最後の一つじゃないのぉぉぉぉぉ!! まだ絶望残ってんのヤだもう無理ぃぃぃ! もうお家帰るぅぅ!!」
「ええと、うん。まぁ……耐えて」
アクチェがほほ笑む、それだけで魅了されそうな笑顔なのだが今は悪魔のそれに見えた。
「原始人と文明人の違いが分かるかな?」
いつの間にかアクチェはメモを指につまんでいた。
831――愛してるのサイン。
「目、つぶって」
「え、あの何するの……」
「早く」
低い声で囁くように言われ、おずおずとミナーヴァはそれに従う。
目をつぶる。
朝だから真っ暗闇に包まれるという表現は合わない。むしろ赤とか白とか――そういう表現の方が合う。何せよ視界は塞がれていた。
だからこそ明確に感じ取ることができていた。
唇を塞がれる感触が。
思わぬ刺激に体が跳ねる。
だけど首と下顎を彼の手で包み込まれていて身動きが取れなかった。
ついでに彼の指先がミナーヴァの耳を塞いでいて、唇の音が頭の中で派手に転がっている。
がさがさとした感触は、唇の間に挟まれた羊皮紙の感触だ。
紙越しでもわかる熱い吐息と――柔らかい唇の感触。
ぽろりと唇からメモが零れ落ちる。砂のように。
831――愛してると書かれたメモ。ミナーヴァの涎で湿ってくしゃくしゃになっていた。
「原始人は薪に火を灯す。文明人は――」
ミナーヴァの細い首に腕を絡めてしなだれかかる。
アクチェは悪戯っぽく笑う。見た目にそぐわぬ淫蕩な色を含んでいた。
「自分に火を灯す」
これが、物語の始まり。
一糸まとわぬ男と女。
整頓された部屋の中で不釣り合いな乱れたベッドの上で契約を交わす物語。
実際には、もっと昔から始まっていた出来事なのだとミナーヴァが気づくのはしばらく後のことである。
とりあえず今はそれどころじゃなかったし。
アクチェはミナーヴァに裸で抱きついたまま囁く。
「これ、君が僕にヤったんだよね。夜に」
ミナーヴァから全身の水分を吐き出すような勢いの汗が噴き出る。アクチェの笑顔から目を離せぬまま。
そして彼女は眉根にくっきりと縦じわを作って叫んだ。
「ああもうっ!」
ここで迷ったらサキュバスの沽券に関わる。意を決してアクチェの頬を手で包み込み、彼と時間を共有した。
もっとラフな表現をするならば――彼とキスした。
3秒か、それとも1分か。
しばらくの共有を感じ合ったあとで唇を離し、それでも視線だけは離さないままミナーヴァは言った。
「ケジメつけます! あたしと付き合ってくださいっ!」
潔いというか男らしいというか。
そんな彼女の姿勢にきょとんとしていたアクチェが、不意に笑う。
意外なくらいに年相応の無邪気な笑顔で。
「これからよろしく」
彼氏にフラれた翌日――新しい彼氏ができました。
「あ、そういえば君の元カレ捕まったんだってさ。脱税のタレコミ。怖いねぇ」