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 改札口はひどく混乱していた。

 何しろ日暮里駅前の商店街には、古くからこの地で商売を営んできた家が多く、それ故に取り残されていた人たちも多かった。それがいちどきに押し寄せてきたのだから当たり前だ。

 駅員総出でそれをさばき、最後の都市型電車が日暮里駅を出たのは12時50分のことだった。

 それまでに細かい揺れが15回、地鳴りが三回、その間隔は徐々に短く、そして大きくなっている。

 テレビは叫ぶ。

『今度は谷中が崩落しました! 谷中霊園が、地面に開いた大穴にすっぽりと飲み込まれています!』

 谷中霊園は日暮里駅のホームから並び立つ墓跡が見えるくらいに近い。もう崩落はすぐそこまで迫っているということだ。これ以上ここに留まるわけにはいかない。

 鶯谷はK成の改札口からジェエアールへの乗り継ぎコンコースを眺めた。すでに押し寄せてきた10人全員を電車に乗せた後であり、人影はひとつもない。かつては無数の人が行き交う主要駅であった日暮里駅が無人であることに、鶯谷は深い悲しみを覚えた。

 遠く山手線のホームに向かう階段手前の売店、急足でコンコースを歩くサラリーマンがあの売店の手前で立ち止まり、素早く買い物を済ませてまた早足で歩き出す光景を、何度も見た。何度も、それこそいちいち覚えていないくらい何度も。

 今は電気を消してがらんどうの洞穴みたいに見えるエキュート、ここには高級菓子店の出店がいくつも並んでいた。小さなショウケースを照らす灯りがいくつも煌めいて、いつでも活気と明るさに満ちたキラキラした空間だったのに……人影の消えた今はその輝きが思い出せないほどに暗い。

 だが、人が一人もいないということは、全日暮里民が全て電車に乗り終えたということであり、これで安心してスカイライナーを発車させることができる。

 鶯谷はいまやがらんどうとなったコンコースに敬礼を捧げてから、スカイライナー専用ホームへ向かう階段を一気に駆け上がった。

 地響きと共に足元が大きく揺れ、背後でガラスの砕ける音がしたが、鶯谷は振り向かなかった。


 スカイライナー専用ホームにはK成電鉄AE型車両が停まっていた。

 いつもならば高級感がウリの座席指定超特急だが、今日は日暮里駅に逃げ込んできた日暮里民を無造作に詰め込み、乗車率120%となっている。

 これがこの駅からの最終電車である。

 しかし、鶯谷がホームに駆け上がったその時、一両目のドアの前で千駄木と若い夫婦が揉み合っていた。

「頼む、いかせてくれ! 娘がいないんだ!」

「あの子、トイレに行きたいって言ってたから、絶対に、トイレにいるはずなんです!」

 どうやらこの夫婦は子供を見失ってしまったらしい。千駄木が二人を押しとどめていた。

「もう無理です! スカイライナーはもう発車します! 他の乗客の方まで危険に晒すわけにはいかんのですよ!」

 鶯谷はほんの一瞬、躊躇した。もはや谷中霊園まで崩落が進んでいる今、これ以上いっときでもここに留まるのは得策ではない。もしも架線にダメージが出れば、乗車率120%のスカイライナーは走行不能となり、乗客およそ600人が危険に晒される。

 それでも、幼い子供が崩れゆく駅舎の片隅で震えている姿を考えれば、ここは……

「俺が行きます。俺ならば駅の隅々までを知っている、子供を探すにも手間取ることはない」

 鶯谷の力強い言葉に、母親がよよと泣き崩れた。

「お願いします、お願いします。ユカリは、きっとトイレにいると思うんです」

 千駄木の方は、鶯谷を思い止まらせようとその腕を掴む。

「今すぐ出発しなくては危険だ! お前は、乗客600人を危険に晒すのか!」

 しかし鶯谷はなんの迷いもなく言った。

「その600人も電車に乗ってくださるお客様だが、いまこの駅のトイレで泣いているたった一人も、大切なお客様だ。俺たち鉄道マンはすべてのお客様を安全かつ快適に目的地にお連れするのが仕事じゃないのか」

「じゃあ俺が行く! 俺はお前より早く走れる自信がある! 子供一人抱えて走るなら、俺の方が!」

「千駄木、お前はここに残るんだ、車掌がいなくても電車は走るが、運転手がいなくては電車は走れない」

「鶯谷……」

 その決意の強さを感じて、千駄木は手を放した。鶯谷は彼を安心させようと軽口を叩く。

「心配するなよ、俺は『ダイヤ通りに動く男』だぞ。きっちり3分で戻ってくる。発車時刻を遅らせるようなことはない」

「わかった、行ってこい!」

 その言葉を背に、鶯谷はホームから改札へ続く階段を駆け降りた。


 また一つ、不穏な地響きと共に足元が揺れる。

 明かりの全て消えたコンコースは暗い。鶯谷の頭上からは、揺すられて細かくなった天井材がパラパラと降り注いだ。

 鶯谷は下腹にぐっと力を入れてスカイライナー専用改札を飛び越える。そこを左手に。通常ホームに向かう階段の前にトイレはある。女子トイレに飛び込むと、どこからか小さな女の子のすすり泣く声が聞こえた。

「ユカリちゃんっ!」

 声を上げて覗き込めば、一番奥の個室の中で小さな女の子が膝を抱えて泣いている。

「君がユカリちゃんだね!」

 息急き切った鶯谷の大声に驚いて、女の子は身を縮めた。

 だが、ぐずぐずしている暇はない。幸いに女の子は小柄で、ひょいと片手で抱え込める程度の体格だ。

「ユカリちゃん、ここにいちゃだめだ。逃げよう」

 言葉よりも早く片手を差し伸べて、小さな体を捕らえる。

 その時、また一つ大きな地鳴りが響いて、横に揺すられた便所の仕切りがギィギィと鳴った。続け様に金具の爆ぜる硬い音。

「危ない!」

 鶯谷は咄嗟に片の手で女の子を抱き込み、もう片の手の肘を出して倒れてきた仕切り板から身を守ろうとした。それが軽い化粧板であるのが幸い、押し潰される形にはなったが、鶯谷に怪我はなかった。

 ただ、鶯谷の腕の中で、女の子がヒィッと引き攣ったような鳴き声をあげた。

「パパ! ママァ!」

「ユカリちゃん、大丈夫だ、ユカリちゃん! パパとママのところへ行こう!」

 怪我はなかったがノーダメージではない。体のあちこちに電流に似た痛みが残っている。だが、走れないほどじゃない。

 そして何より、鶯谷には使命がある。乗客を安全に目的地まで送り届けるために、いま上の階に停まっているスカイライナーを走らせるという、『義務』がある。

「電車は……ハートで走るんだ」

 ならばハートは十分、あとはスカイライナーの車掌席に飛び込み、発車の合図を送るだけだ。

「行こう、ユカリちゃん、スカイライナー最終号はあと1分半で発車予定だ!」

 鶯谷は女の子を抱え上げ、倒れているトイレの仕切り板を蹴り出し、そして、スカイライナー専用ホームに向けて走った。


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