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2068年11月28日16時15分、鶯谷と千駄木は、シャッター街の中で唯一店を開けている小さな定食屋にいた。外観はすすけたモルタルにトタン屋根を載せた、おそらく昭和の遺物だろうという古い店だ。
二人が店に入ると、一番奥の席で新聞を広げていた親父がぬっと立ち上がった。
「お、いらっしゃい、お食事かい?」
鶯谷は千駄木と顔を見合わせる。すでに日暮里への物流はストップしており、ろくな食材など手に入らないはずなのだが……好奇心から、鶯谷は言った。
「何があるんです?」
「A定食だな。それしか出せないんだが」
「ああ、じゃあそれでいいです、二つ」
席に着くと、奥から出てきた奥さんが氷を二つほど入れたお冷と紙おしぼりを置いてくれた。
おしぼりの袋を開けながら、千駄木が奥さんに声をかける。
「お二人は、まだ避難しないんですか?」
奥さんははにかんだように笑いながら言った。
「私たちはね、避難はしないわ」
「どうして」
「だって、無一文になってしまったんだもの、この年になっちゃったらね、見知らぬ土地に行って身一つからやり直すなんて、そんな大変なこと、したくてもできないのよ」
「でも、住むところは政府が用意してくれるんですよ?」
「住むところだけ保障されてもねえ」
「まあ、それは、わかります」
千駄木は黙り込んだ。厨房からは炒め物をする軽快な音が聞こえた。レバニラの匂いがする――。
「私はともかくあの人はねえ、料理の仕事しかしたことのない人なのよ、いまさら新しく他の仕事を探せって言われたって、無理なのよ」
こんどは鶯谷が口を開いた。
「実は私たちはK成電鉄の者なんですけど……」
「あらあら、まあまあ、じゃあサービスしなくっちゃね」
日暮里民たちのK成電鉄に対する信頼は篤い。早々にこの街を見捨てた東京交通局やジェエアールと違って、最後の一瞬まで日暮里の街に寄り添おうというその姿勢が高く評価されているのだ。
「あんた、この人たちK成の人だってよ、レバニラ大盛りにしてあげて!」
厨房に向かって叫ぶ彼女に、鶯谷はさらに言った。
「奥さん、どうぞお構いなく、それよりも、私たちK成電鉄も政府の強制退去命令に従い、12月05日をもってこの日暮里を去ることになりました。本当に申し訳ないことです」
厨房からひょいと顔を出した親父が鶯谷に声をかける。
「なんだい、K成さんも居なくなっちまうのかい、寂しくなるなあ」
「すみません」
「謝るこたあねえよ、あんたたちは若いんだから、俺ら年寄りに付き合うことはない」
「ありがとうございます、それでですね、12月05日、その日がラストランとなります。日暮里駅を終日解放いたしますので、どうぞK成線最後の雄姿を見に来てください」
親父の目に、わずかに熱が灯った。
「ラストラン、か」
「はい、18時05分発成田空港行きスカイライナーをもちまして、K成日暮里駅の営業を終了とさせていただきます」
「そうか、それでしまいか」
今度は、鶯谷の瞳に熱が灯った。
「しまいじゃありません。K成日暮里駅はその役目を終えますが、K成電鉄は止まりません。レールある限り、どこまでだって走っていける」
そこで鶯谷は言葉を切り、ぐっと顔を上げた。
「電車は……ハートで走るんです。我々K成社員のハートがある限り、どこまででも」
親父が少し困惑した顔をした。
「ハートねえ」
「親父さんも同じでしょ、そのハート、それがある限りどこまででも走っていける」
「そんなもの、俺みたいな年寄りには、もうないよ」
「本当にそうですか? もう、走れないんですか? 一人じゃないのに?」
親父は、ハッとしたように顔を上げた。その視線の先には、少し戸惑った顔をしている奥さんがいた。
「あんた……」
「俺は……」
二人はしばし見つめ合う。しかし言葉はなかった。
鶯谷は、まるで何事もなかったかのように、明るい口調で言った。
「12月05日、最終電車は18時05分発イブニングライナーです。どうぞ乗り遅れのないように願います」
この店だけではない。鶯谷と千駄木は日暮里に残っている住人たちを訪ねて歩いている。
今や彼は『ダイヤ通りに動く男』ではなかった。日暮里の駅舎に泊まり込み、朝早くから夜遅くまで日暮里の街を歩き回っている。全てはこの街に残った者を一人でも多く救うために。
現在、日暮里に残っている住人が千余人、乗車率100%で走らせれば八両編成一本で十分に運べる人数だ。ともかく、12月05日にK成日暮里駅に来てくれさえすれば--鶯谷はそんな思いを抱いて、日暮里駅ラストランを日暮里民たちに伝えて歩いている。
それと同時に、当日の運行計画も綿密にくみあげた。朝からは通常ダイヤ通りに普通電車を走らせる。上野への上り電車は16時30分まで。それ以降の電車は上野からの下りのみとなり、K成電鉄が上野に向かうことはもう二度とない。
ラストランのためのスカイライナー--すなわちK成電鉄AE型はすでに日暮里駅に留め置かれている。上野駅を始点とするスカイライナーを利用する乗客はすでになく、K成電鉄AE型は一週間も前からこの日暮里駅に捨て置かれたようになっていた。それをラストランに向けて駅員総出で磨き上げる。
この作業を終えたのが12月01日のことであった。残すところあと四日……。
その日、12時20分、関東地域に小さな地震があった。震源地は木更津沖、日暮里の震度は2弱。
誰もがよくある小さな地震だと思っていた。
しかし、これが崩壊の始まりだったのだ。