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翌日、つまり2068年11月06日18時30分、鶯谷はロッカールームに申し訳程度に置かれた小さなベンチに座って頭を抱えていた。口をついて出てくるものはため息ばかりだ。
運転業務担当である千駄木浩二が入ってきたときも、鶯谷は身じろぎもせずため息を吐いていた。
千駄木がそんな鶯谷に声をかける。
「よお、珍しいな、もうとっくにあがりの時間だろ」
確かに『ダイヤ通りに動く男』が終業時間を30分も過ぎていまだロッカールームにいるなんて珍しい。声音こそ明るいが、千駄木はダイヤ通りではない鶯谷の行動をいぶかしんで声をかけたのだ。
「そういえばきいたぜ、なんだか特別な業務についているらしいじゃないか」
鶯谷はため息を飲み込み、暗い声で答えた。
「詳しくは話せない、そういう仕事なんだ」
日暮里沈没については、住民の避難先ときちんとした対策が性質までは口外を禁じられている。相手がたとえ同僚でも迂闊なことを言うわけにはいかない。
しかし千駄木は、気にした風もなく軽く笑った。
「オーケーオーケー、そういう仕事なのね、いいよ、無理に聞こうとは思わないからさ」
ロッカーに制服を投げ込み、代わりにバイクのメットを取り出した千駄木は、しかしひょいとそのメットをロッカーに戻して振り向いた。
「なあ、今日は『ダイヤ通り』じゃないならさ、ちょっと飲みに付き合ってくんない?」
「いや、でも、本当に話せないんだ」
「やだなあ、別になにか聞き出そうっていうんじゃないよ、ただ、一人酒ってのも寂しいから、向かいに座っててくれればいいだけよ」
鶯谷は人の機微に鈍いわけじゃない。この心優しい同僚が、自分を慰めるために誘ってくれているのだと気づいた。
そして、そうした他人の好意を断るほど意固地なわけでもない。鶯谷は素直に頷いた。
「そうだな、俺も今日は、少し飲みたい気がしてた」
「じゃあ行こうぜ、あ、好き嫌いとかある?」
「特にない」
「いいじゃん、少し歩くんだけどさ、美味い魚を喰わせる店があるんだよ、そこでいいだろ」
「ああ、どこでも構わない」
二人は並んでロッカールームを出た。駅舎を出て谷中方面に向かって歩く。
日暮里は下町であり『人が暮らすための』町だ。一昔前の流行りだったこじんまりとした住居が並び、その合間に2階に明らかな住居を抱えた小さな店が立っている。すれ違うのは買い物袋を自転車の前かごに入れたおばちゃんたちであり、街の風景はどこを切り取っても人の生活する猥雑さが混ざりこむ。それは例えば軒先に何気なく置かれた回収待ちの古新聞の束であったり、軒下に投げ出された子供用の自転車であったり。
どこからかレバニラの匂いがした。
さらに歩けば住居と店の比率が逆転する。つまりこじんまりとした店が並ぶ間に、小さなしもた屋がきゅうっとおさまった商店街に出る。ここが有名な谷中銀座である。
鶯谷は商店街のど真ん中でふと足を止めた。道の傍に『日暮里駅まで330メートル』と書かれた看板が立っていた。
「そうか、ここも……」
隣に千駄木がいることを思いだして、鶯谷は口をつぐむ。
日暮里が沈めば、この生活感あふれる温かい風景も消えてしまう――鶯谷はそのむなしさを飲み下そうとした。口を閉じて、グッと顎を引いて。しかし飲みきれなかった言葉がひとつ、ぽろりとこぼれてしまう。
「もったいないな」
千駄木が振り向いた。
「なにが?」
「いや、何でもない、ただの独り言だ」
「そう?」
千駄木を心配させないように、鶯谷は口の端をあげて笑顔を作って見せた。そうして、ふと自分が歩いてきた道を振り返った。
はんこ屋の二階の窓にぽっと電灯の光が灯った。どこからか――カレーの匂いがした。
それから一週間、特に大きなことは何も起きなかった。日暮里の沈没予想について新しい情報が入ってくることはなかったし、緘口令は相変わらず敷かれたままだった。
鶯谷はただバカ真面目に『普段通りに』運行することに注力した。
ジェエアールによる突然の裏切りがあったのは2068年11月13日のことだった。その日、鶯谷はいつも通りホームの端に立っていたのだが、突然、同僚の駅員に呼ばれた。
「おい、鶯谷、すぐに駅長室に来いってさ」
もしかして何か新しい情報が入ったのかと鶯谷は身をこわばらせたが、勤めて平静に見えるよう、表情だけは変えないように気を使った。
「ありがとう、ここを任せても?」
「そのために来たんだからな」
彼に業務を引き継ぐと、鶯谷は小走りに駅長室に向かった。
「駅長!」
飛び込めば、駅長は渋い顔でテレビを見ている最中だった。
「やられたよ、鶯谷くん」
テレビの画面には、先日の日暮里沈没対策会議で見かけたジェエアールCEOが映っていた。
『……ということで、日暮里から西日暮里、鶯谷までを早急に廃線とし、来年7月までをめどに総武線の増設工事をいたします、この期間中は多くの皆様にご不便かけます事をお詫びいたしますとともに……』
ついっと、記者団の中から手が上がる。
『その廃線についてですが、当方では日暮里が沈没するという情報を得ています、そちらとの関連性は……』
ジェエアールCEOは肯定などしなかった、だが、否定もしなかった。
『私の口からはまだ申し上げることはできません』
テレビを見ていた駅長が、柄悪く舌打ちをした。
「なにが『申し上げることは出来ませ~ん』だ、どうせあれ、仕込みだぞ、いまから各メディアがこぞって日暮里沈没の記事を書きたてるだろうよ」
「そんな、だって、緘口令が!」
「そんなものより、自分のトコロの利益を守ったんだろうよ、これだから大手は!」
「駅長、ウチは!」
「終わりだよ、終わり、いつ沈むかわからない日暮里を走る電車なんて、誰が乗りたいと思うんだよ!」
その時、駅長室の外から喧騒が聞こえた。それは駅行く人真美が立てるさざ波のような喧噪ではなく、明らかに怒気を含んだ無数の怒鳴り声だった。
「やられた、もうネットニュースに流されたんだ、完全に仕込みじゃないか!」
駅長はただ憤るばかりだったが、鶯谷は素早く駅長室から飛び出した。そこにはコンコースを埋め尽くさんばかりに人があふれていた。誰もがスマホを掲げ、大声で叫んでいた。
「おい、どういうことだよ、日暮里が沈没するって!」
「駅は、この駅は大丈夫なの!」
「今すぐ俺たちを避難させろ、すぐに!」
駅員室から、改札から、ホームから駆け付けた駅員たちが暴徒と化した人並の間をちょろちょろと走り回って事態を修めようとしているが、もちろん、そんなものはなんの役にも立たない。
鶯谷は両手でメガホン型を作り、肺腑からすべての呼吸を吐き出す勢いで叫んだ。
「落ち着いてください、すぐに崩落が始まるわけではありません、地質学者の所田先生が、崩落は今日明日に起きるものではないと言っておりました!」
ほんとは所田教授が『今日明日ではない』と言ってからすでに一週間が過ぎているのだが、このさい関係ない、目の前にある暴動を一刻も早くおさめるのが先だ。
「よく考えてください、いくら関東圏最強のK成線でも、今すぐに崩落する危険があれば通常運行などしません!」
関東圏最強の言葉に、暴徒たちが一瞬押し黙った。その隙を鶯谷は逃さなかった。
「いずれ所田教授から、日暮里沈没の正確な日時が発表されます、その日まで! 我がK成電鉄はお客様の安全と安心を載せて通常運行で参ります!」
さらにひときわ声高らかに叫ぶ。
「K成憲章!」
いつの間にか、暴徒に対峙する駅員の中に千駄木がいた。引継ぎを終わらせてホームから降りてきたところらしく、きちんと制服の襟をしめていた。彼はすぐに鶯谷に続いて声をあげた。
「雨にも負けず!」
駅員たちが続けて、口々に叫ぶ。
「風にも負けず!」
「台風による塩害にも!」
「地震による損壊にも負けぬ!」
「強い架線を持ち!」
妙に熱のこもった大声であった。コンクリ作りのコンコースにワンワンと響くその声は歪んで、読経のようにも聞こえた。その異様な響きに暴徒たちはひるんだ。
K成憲章は響く、日暮里駅舎を揺るがすかのごとく。
「おびえはなく、決して止まらず、いつも静かに走っている!」
それは、もしかしたら祈りの声だったのかもしれない。己の職業に対するプライドと、そして長年親しんできた日暮里の街に捧げる祈り……。
この日、日暮里駅員たちは自分の職場が危険地帯にあることを知った。だが、誰ひとりとして逃げ出そうとはしなかった。