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K成憲章とは--2030年ごろから朝礼の時に唱するようになった社員の心得としてのキャッチコピーである。
それは有名な詩の一節をもじって、こう語る。
雨にも負けず
風にも負けず
台風による塩害にも
地震による損壊にも負けぬ
強い架線を持ち
おびえはなく
決して止まらず
いつも静かに走っている……
かつてK成電鉄は関東圏民最強の足であると称えられていた。
他の私鉄国鉄が運転見合わせをするような大雨や大風の日にも、K成電鉄だけは止まらない。鈍足運行ではあっても必ず電車を走らせる。
その気概の全てを詰め込んだものが、このK成憲章である。
鉄道各社が次々と新技術を導入し、技術革新を推し進めるいまでこそ『最強』の冠は逃したが、今でもK成線は台風ごときではとまらない、可能な限り通常運行がモットーなのである。
2068年11月05日14時30分、鶯谷は西日暮里のホテルの会議室にいた。総理直属の日暮里沈没対策委員会による日暮里沈没対策会議が行われたのだ。
とはいえ、日本国民及び一般日暮里民には、いまだに日暮里沈没の事実は伏せられている。それゆえ招聘されたのは荒川区長及び隣接する台東区長、日暮里商工会の代表者及び日暮里に乗り入れている各鉄道会社の代表者のみであった。
対する対策委員会の面々は今回の日暮里沈没の兆候をいち早く見つけた地質学者の所田教授を筆頭に調査チームとして派遣された内閣府職員が五名、国土交通大臣に経済産業大臣、現日本総理である村仲トオル氏まで臨席して、物々しい雰囲気である。
まず口を開いたのは日暮里商工会代表だという、恰幅の良い男だった。
「実際、本当に日暮里が沈没なんてするんですか?」
所田教授がこれを受ける。
「する、間違いなく日暮里は沈む!」
「おかしいじゃないですか、普通に考えて日本のどっかが沈没するってんなら、まずは海際からでしょ、お台場やら築地やらをすっ飛ばして日暮里が沈む、そんなことあり得ないでしょ」
「ありえなくはない、日暮里の地下には隅田川を系譜とする地下水脈が張り巡らされておってな、それが近年の都市開発によって水脈の流れを絶たれ、枯れて日暮里の地下に巨大な空洞を形成したわけだよ、つまり日暮里はいま、地表のガワ一枚で都市を支えている状態であり、いつこれが崩落してもおかしくはない、そこへもってきて先日の地震だ、これにより日暮里直下のプレートにズレが生じ、この空洞の上にあるガワを少しずつ押し広げておるのだ、危険だ」
「そんなバカな、もっと詳しく説明してくれよ、先生」
東京交通局長が手をあげて、この無為な会話をさえぎった。「日暮里沈没の原理に対する説明はもう結構、私たちがこここに集まったのは地質学の勉強のためではなく、今後どのように立ち回るべきかを話し合うためではないのですか」
彼はさらに、力強く言い切った。
「当交通局では沈没の範囲内にある駅を早々に廃し、日暮里舎人ライナーではなく赤土小学校前舎人ライナーにすることを検討中です」
この言葉に村仲総理が立ち上がった。
「待ってください、そんなことをしたら日暮里沈没の情報が国民に知れ渡ってしまう!」
しかし東京交通局長の返事は冷たかった。
「知れたからなんだというんです、むしろこの沈没の事実をいち早く荒川区民に知らしめ、避難を促すのがあなた方国の仕事では?」
「そんな簡単な話ではないんです、日暮里は都内の交通の要であります、そんな日暮里駅が沈むとなったら、都民感情はどうなると思いますか!」
テーブルをバンと叩いて、村仲総理はさらに口角泡とばす。
「都民だけじゃない、通勤や通学のために千葉から都内に向かうものすべてが通る駅、これが使えなくなるとなったら、千葉県民性質の通勤の足は乱れ、どれほどのパニックが起きることか!」
これに対しておずおずと手をあげた初老の男性が、ジェエアール東日本CEOである。
「あの、ですね、うちは特に問題は……千葉は船橋から総武線に乗って日暮里を迂回するルートが取れるので……でも、K成さんは、ねえ……」
ちらりと投げられた同情の目線に、鶯谷は身をすくめた。
K成線は都内から成田空港への足として作られた鉄道であり、本線は上野から日暮里を通ってまっすぐ成田に向かっている。支線はいくつもあるが、これを迂回路として都内に向かうには少し遠回りが過ぎるため、実用的ではない。
唯一の望みは西馬込行きの押上線が青砥に乗り入れていることであるが、浅草方面に向かうには便利だが上野に向かうには少し不便である。日暮里を失えば京成本線の主要駅である上野への最短路が絶たれることとなり、利用者は激減するだろう。
つまり日暮里駅を失えばK成本線自体が死ぬ。
鶯谷は一縷の望みをかけて、所田博士に質問を投げた。
「日暮里沈没っていうけれど、どのくらいの範囲が沈没するんです、まさか日暮里が丸ごと沈むってわけじゃないでしょう! 日暮里駅は無事かもしれない!」
所田博士は鶯谷がK成電鉄の者だと気づいたらしく、同情のまなざしを投げた。
「残念だが、私の観測では地下空洞は日暮里駅を中心に半径およそ1キロメートルの広さで広がっている、その中心地である日暮里駅は沈むよ、確実に」
「そんな……なにか止める手立てはないんですか、そこにコンクリを流し込むとか!」
「半径1キロメートル、深さ80メートルの穴を埋めるのにどれだけのコンクリートが必要だと思うかね、それに大掛かりな、何年もかかるような大工事が必要となるだろう、とても今日明日の間にはあわんのだよ」
「今日明日にでも日暮里が沈むということですか!」
「いや、失敬、今日明日はさすがに言いすぎだ、だが私の予想では、クリスマス前には必ずや、日暮里は沈むだろう」
「クリスマス……前には……」
「今現在、正確な沈没の日を割り出すべく、私の方で鋭意調査中だ。すまんが、私にはそのくらいしかできることがない」
「日暮里を見捨てるっていうんですか、なにか、なにか手立てがあるはずでは!」
「無いよ、残念ながらね」
矢も楯もたまらず、鶯谷は大声をあげた。
「総理!」
しかし村仲総理は、すっと視線を伏せて小さくつぶやいた。
「すまない……」
それを見て鶯谷は悟った――総理はこの街を切り捨てるつもりなのだと。
所田教授の言葉がそれをさらに裏付ける。
「地表で暮らしている我々にしたら街ひとつが沈むというのはとんでもない一大事だがね、この程度の変動はよくあることなのだよ、地球規模で見れば小さなニキビがプチンとつぶれる程度の些細なことなのでな。だが残念ながら相手が大きな地球であるからこそ、人智ではこれをとめる手立てはない、私たちにできるのはいかに人々に不安を与えずかつ速やかに、人的被害を最小限にするための策を講じるか、その程度のことしかできないのだよ」
鶯谷は唇をかみしめて椅子に座りなおした。
日暮里は年内中に沈む、それも確実に――ならば今時分にできることは、その日暮里が沈む最後の瞬間まで『通常運行』に努めること――鶯谷は胸のうちでK成憲章を唱えた。
何度も何度も、ただ唱えた。