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鶯谷恭介はK成電鉄日暮里駅駅員である。
彼の毎日はまるで電車が決められたレールの上を決められたダイヤ通りに運行するがごとく、単調で規則正しいものである。
シフト通りに出勤し、きちんとタイムカードを切り、日中は駅員としての勤務に忠実に尽くす。退社はいつも決められた時間通り、帰りに必ずリブレに寄って夕食を買う。晩酌は発泡酒を一本だけ、帰宅からきっちり二時間後には必ず床に入り、明日のためにきちんと睡眠をとる......入社以来八年、この生活ルーチンを崩したことはない。
だから彼は職場の仲間から揶揄を含んで『ダイヤ通りに動く男』と呼ばれていたし、まさか自分がその生活ダイヤを乱されることがあるなんて思ったことすらなかった。
そう、あの日までは――
2068年11月03日11時45分、鶯谷は駅長室に呼び出された。そこには日暮里駅長と共に、社内報でよく見かける顔があった。
「あ、あなたは!」
そこにいたのはK成電鉄常務取締役である谷中慎一氏だ。彼は鶯谷の顔を見るなり口を開いた。
「や、ね、君が鶯谷くんか、聞いているよ、君のことは、『ダイヤ通りに動く男』だということもね」
この時点で鶯谷には嫌な予感があった。K成電鉄の全権を握る男である谷中氏が、たかが一介の日暮里駅員である鶯谷にわざわざ会いに来るなど、普通の状況ではありえない。
何か普通ではないことが起こっている--鶯谷はそう直感した。
しかし、その『普通ではないこと』は、鶯谷の予想をはるかに超えていた。
「鶯谷くん、君、ね、口は固い方?」
「はい、まあ……」
「そうね、君みたいなタイプは業務上知り得た情報に対する守秘義務をきちっと守るタイプよね」
「それは、もちろん」
「じゃあ、話しちゃおうかね、実は、日暮里が沈むんだよ」
あまりに唐突がすぎる言葉に、鶯谷は戸惑った。
「はい?」
「だからね、沈むのよ、日暮里が」
「沈むって、地盤沈下ってことですか?」
「うん、そうね、地盤沈下。日暮里直下にあるプレートが動いたせいでこの辺りの地下に巨大な空洞ができてね……まあ、詳しいことは後で資料渡すから」
谷中は鶯谷には歩み寄り、親しげにニカッと、笑った。
「でね、鶯谷くん、君には『緊急対策駅長』を引き受けてもらいたいのよ」
「なんですか、その役職」
「日暮里が沈むってことはだよ、この駅も沈んじゃうわけよ。だから日暮里駅をどうするか、これから色々と決め事や各方面との交渉が必要になるでしょ、でも駅長は通常業務があるから、そんなに出歩くわけにいかないじゃないの」
「わざわざ『駅長』の肩書きをつける意味は?」
「それはほら、あれよ、ペーペーの駅員じゃ、どこと交渉するにも不便でしょ、だから一時的に駅長と同じ権限を君にも与えようってわけ」
鶯谷は慎重な性格だ。だから即答はしなかった。顎に手を当てて、この事態を理解しようと考え込んでいた。
おそらく自分の前にも何人かがこの話を持ちかけられたはずだ。何故なら鶯谷は勤務態度も真面目だが、ベテランと呼ぶにはあと少し勤続年数が足りない。こうしてパッと考えただけでも、自分よりも先に声がかかりそうなベテラン駅員が何人も思い浮かぶ。
しかし、その誰もが『緊急対策駅長』の話を断ったに違いない。おそらくは荷が重いとか言って。
本質はそこにはない。特殊な肩書きとはいえ日暮里駅長の職に就くのだから、この日暮里駅が沈むときにも真っ先に逃げ出すわけにはいかない。まずは乗客の、そして鉄道職員たちの安全を確保してからの避難となる。
沈みゆく船の船長がそうであるように、この日暮里駅と命運を共にする覚悟が必要になるだろう。
幸いにも鶯谷は独り身であり、両親はすでに鬼籍の人である。誰一人として自分を惜しむ人はいない。
「わかりました、お引き受けいたします」
「おお、おお、やってくれるかね、鶯谷くん!」
谷中は親愛の情を示そうというのか、鶯谷の肩をバンバン、バンバンと叩いた。そしてやおらに真顔を作る。
「それでね、鶯谷くん、日暮里沈没にあたっての当鉄道の経営方針なんだけどね……」
「わかっています、K成憲章ですよね」
「いいじゃあないの、わかってるねー、やはり君を選んで正解だったよ」
--何言ってやがる、他に引き受けるやつがいなかったから俺にお鉢が回ってきただけじゃねえか。
鶯谷は心の中で毒づいたが、それを顔色に出すようなことはなかった。
最後のその瞬間までK成電鉄らしくあるためにK成憲章を守り抜くこと、これこそが彼の使命であると--それが『ダイヤ通りに動く男』としての自分の使命だと、彼はそんなふうに考えていた。