345.閑話 明日の準備
――何度見てもおかしな光景だと思う。
「じゃあ借りるわね」
「ええ、ええ、どうぞどうぞ。どうぞ銅像をどうぞ、なんちゃって」
本当にコメントに困る冗談を飛ばす土産物屋の店員に、ニア・リストンは曖昧な笑みで答えた。
本当になんとも返しづらい。
そもそも銅像じゃなくて石像だし。
「じゃあミト、またね」
「はい」
ミトが頷くと、己より大きく重い石像を担いだニアは、とんでもない速さで「龍の背中」を駆け上っていった。
あんな重い石像を持っているのも、それで走る速度も、どれもが異常だ。
何一つとして納得できる部分がない。
だが、そんなおかしな光景は、天候が悪くない限りは毎日見られるニアの日常に過ぎない。
最初こそ大層驚いた「龍の背中」の足元で土産物屋をやっている中年店主は、今では武客ニア・リストン愛用の修行アイテムとして、石像がそこそこ売れているそうだ。
単価がそれなりなので、そこそこ売れれば充分なのだとか。
――さて。
いつものようにニアを見送った後は、ミトも日課の水汲みである。
土産物屋の近くにある井戸で、大振りのたらい二つに水を張り、天秤棒で吊って担ぐ。
慣れない内は大変だった道具だが、今では身体の一部なんじゃないかというくらい、馴染んできている気がする。
「――よし」
そびえる石階段を前に気合いを入れ、ミトは一段目を踏む。
土産物屋の店員の「がんばれよー」という気楽な声を背に、一段飛ばしで軽快に走り出した。
と――石像を置いてきたニアが、もはや階段すれすれを滑空するような速度で降りてきて、ミトの横を通り過ぎた。
ニアにとってはいつも通りの速度である。
ミトももう慣れたので、自分のペースを乱すことなく軽やかに駆けてゆく。
――そう、骨は一定の動きを乱さないこと。動作も「氣」もだ。
水そのものの重さと、動きに合わせてゆれる水による重心のずれ。
これに気を付けて、体幹を乱さないように運ぶのだ。
最初の内はよく水をこぼしていたが、今では慣れたものだ。
周回遅れでニアが二体目の石像を持って行くのを平常心で見送り、ミトはミトのペースで進んでいく。
ミトが一回登って屋敷に戻る間に、ニアは五往復を済ませて準備体操をし、修行を開始。
朝も早くからジンキョウがやってきて、リノキスと三人で汗を流す。
そんな三人を横目に、ミトはひたすら水汲みである。
二回の往復が済み、三回目に入ると、この辺りでミトと一緒に走り出す男や女が増えてくる。
意味深な視線は感じるが、話しかけてくることはないので、ミトは構わず走り続ける。
ただ、最近人数が増えてきたのでどうしたものかとニアに相談したが――ニアから「放っておけ」と言われたので、関わるつもりはない。
どの道、「龍の背中」の最上段までミトについて来れる者など早々いないのだから、気にしすぎる必要はきっとないのだろう。
ただ――
「おう」
「おはようございます」
ここ最近、たった一人、ミトについて来れる若い男が参加してきた。
最初は何も言わず、黙々とミトに合わせて走るだけだったが、今ではお互いに顔を認識するくらいには見知った相手である。
会話こそしないが、いつからか挨拶もするようになった。
そんな若い男も、二回ほど一緒に駆け登ると、どこかへ消えた。
年齢からして学校に行っているのかもしれない。
そう、学校に。
「……っとと」
無心が乱れて、たらいの水が大きく揺れた。
もうすぐ、ミトがずっと密かに願っていた学校へ、通うことができる。
本当に。
嘘じゃないし、冗談でもなく。
本当にだ。
病魔にうなされて見た最後の夢……なんてものでもなく、本当に、だ。
それを考えると、どうしても浮かれて「氣」の操作が荒くなってしまう。
できるだけ考えないようにしているが、しかし、どうしても頭に浮かんでしまう――様々な願望が。それこそ本当に夢にまで見た願望が。
マーベリアに居た頃、カルアとよく話していた。
――「ニアと一緒に学校に行きたいね」と。
勝手にニアの制服を着て、それが見つかってリノキスに怒られたこともある。
その時「ニアには秘密にしておく」と言ったが、リノキスが約束を守ったかどうかはわからない。
そんなことくらいでは、絶対にニアは怒らないから。
カルアが使用人の分を越えて甘えても、笑って済ませるような大きな人だから。
命の恩人で、大好きな人である。
今や自分と兄を捨てた親の顔が霞み、それより強く主張し心に住んでいる人である。
そんなニアをずっと見送るだけなんだろうな、と思っていた。
一緒に学校へ行くなんて、絶対に叶わない願いだと思っていた。
それが、もしかしたら叶うかもしれない。
あのかっこいい機馬の後ろに乗って、ニアと一緒に豪快に登校できるかもしれない。
「あっ」
ばしゃんと、石階段に少し水がこぼれた。
考えないように考えないようにと思っていたら、やはり考えてしまっていた。
「遅かったわね」
午前中で浴槽を満たす課題は確かにクリアしたのに、今日はできなかった。
「すみません、学校に行けると考えると、なんか乱れちゃって……浮かれてるんです」
少し遅れた昼食の席でリノキスに指摘され、ミトは素直にそう述べた。
何度も何度も思考に意識を引っ張られ、恐らく往復一回分くらいの水をこぼしてしまった。大失態である。
「まあ、実際通い出したら慣れると思うけど」
「そうだといいんですけど」
それから、今日の午後からの予定について話す。
と言っても、もう二ヵ月以上になるウーハイトンでの生活には慣れたもので、家事などの分担はすでにできている。
なので夕食の話が多いのだが。
「今日は鶏ガラと十文字鮮血蟹の殻を使ったスープで拉麺を作りたいんだけど」
「さすがに拉麺が多すぎませんか? ニア様はなんと?」
「特に不満はないって」
最近のリノキスは、ウーハイトンでも人気の麺料理である拉麺にドハマりしている。まあミトもおいしいとは思うが。
そんな話をしていると、「そうそう」とリノキスはミトの予想しなかったことを言った。
「お嬢様からの命令よ」
「はい」
自然と背筋が伸びる
侍女長みたいなものなのでリノキスからの命令は多いのだが、ニアからの命令はかなり珍しい。
ミトからすれば、ニアの命令なら絶対だ。裏切ることなど考えられない。
「――学校に着ていく服を何着か買え、入学祝としてお金は出すから、だって。遠慮して買わない可能性があるから私も付き合えって。だからあとで見に行くわよ」
「…………」
遠慮したいのに、これ以上甘えられないのに、断るべき本人がいない。
リノキスに言っても無駄だ。
ニアの言葉は絶対である――ミトと同じなので抗議するだけ無駄だ。
返せない恩ばかりが増えていく。
いつか、わずかでも返せる機会が来るだろうか。
ミトはそんなことを考えながら、残りの昼食を片付けるのだった。




