250.とても楽しい時間
どしん、と強かに特大熊と棒を持つ猿が、地面に叩きつけられる。
二頭とも即座に体制を起こすが――特大熊も棒を持つ猿も、目に見えて動きが悪くなった。
そうだろう、そうだろう。
真下からの打撃は未知のダメージだろう。これまでにない足への負担に戸惑うだろう。
こういうのは体重が重いほど、膝や腰に響くからな。
骨に異常はないだろうが、普段通りに動くのは不可能なくらいには利いているはずだ。
「――ゴガァ!!」
「――ギッ!!」
ボス熊とボス猿が、ほぼ同時に吠えた。
それに伴い、まだまだやる気だった特大熊と棒を持つ猿が、威勢も殺気も引っ込めて下がった。
ボス二頭からすれば、今ので勝負ありと見たと。
ここで引かせるのは、このまま続けると殺されると見なしたからだろう。
いい判断だ。
ただでさえ万全の状態でも対応できる私相手に、動きが落ちた状態では勝てる見込みがないと考えたのだろう。
彼らからすれば、戦いは常に真剣勝負の命懸けだ。
同種でもなければ、訓練的な意味合いで戦うという概念も、あるのかどうか。
勝てる見込みがないなら、無駄死にするだけ。
そういう判断だろう。
私としては殺す気はないが――それは初対面であり、別種の存在である彼らには、わからないことだろうから。
まあ、その辺のことはいいだろう。
大事なのは、ここにいる武猿も武熊も、誰しもが、戦うことが好きなのだ。だから戦う。それだけの話だ。
生死はその結果に過ぎない。そこは求めるところではない。
ボスは立場上止めることもあるが――しかしまあ、結局奴らも同じだろう。
私も同じだからな。
戦うことが好きで好きでしょうがないのだ。
私の前に立つものはいなくなった。
リノキスをボッコボコにした中猿も戻ってきているが、私の前に立つことはない。ボスたちに引くよう命じられたのだろう特大熊も棒を持つ猿も、出てこない。
私の正面には、ボス猿とボス熊が佇んでいる。
ボス猿が右足を上げた。
ボス熊が左腕を上げた。
同時に振り下ろす――地面に向かって。
ドォン!!
強い振動と共に地面が陥没し、花と土が吹きあがった。
「……なんと」
今のは「拾震」か!
奴ら、一度見ただけの私の「拾震」を盗んだか……!
よもやそこまで「氣」の理解が深いとは。なんという逸材だ。人じゃないことがこれほど惜しく思える相手は、前世でもいたかどうか。
「言葉は解さんか? ……そうか。そうだよな」
言葉を投げても反応はない。
やはり言葉による意思疎通は無理か。
――それもまた好し。
「では武で語ろうか」
我々には拳という言語があるものな。
武人なら、百の言葉より一つの拳でいいよな。
「――さっさと掛かってこんか!!」
私が吠えると、ボス両頭も吠えた。
楽しい時間とは、あっという間に過ぎるものだ。
「――はあ、はあ、ふふっ、はは……っ!」
息が切れる。
「氣」が乱れている。
体中が痛い。
血が滴っているが、全身が痛いせいで、どこから出血しているかわからない。
楽しい。
楽しかった。
久しぶりに、そこそこ本気で殴っても死なない生物とやり合えた。それも武人だ。人ではないが武を解する獣だ。楽しくないわけがない。
東の向こうから陽が昇り、まるで巨木が輝いているかのようだ。
そうか。
夜通しか。
夜通し遊べたか。
立っている者は、私だけだ。
最初はボス両頭だけ相手していたが、いつからか全部の猿と熊を相手に乱闘していた。
今は全員、荒らされた花畑の中に、倒れているが。
もちろん私がやった。
「――リノキス。少し休みましょう」
「――はい!」
踵を返すと、一晩夜通し師の戦いを見て覚えていた一番弟子が立っていた。――いい面構えだ。久しぶりに気合いの入ったリノキスの顔を見た気がする。
いやはや、楽しかった。
そして疲れた。老体にも響くだろうが、幼体でも変わらんな。
少し休んで、改めて巨木を見に行くことにしよう。
「グゥ……」
「ギ、キ……」
最後まで、この時間まで食い下がってきていたボス熊とボス猿が、倒れたまま、「待て」と言わんばかりに小さく唸り声を上げた。
いいな。
体力も体調も限界だろうに、まだ闘志が残っているか。私も弟子を持つなら、これくらいの気骨がある者どもがほしいものだ。
「大丈夫。まだいるから――ゆっくり寝てなさい」
言葉が伝わったかどうかはわからないが。というかたぶん伝わっていないが。
しかし私がそう言うと、両頭は目を伏せた。――それでいい。ゆっくり休むといい。
夜には砦に戻ることも考えていたが、ここまで大きく予定が変わってしまえば、戻るどころではない。
四輪機馬を止めた場所まで戻り、大きめの骨の影で、少し仮眠を取ることにした。
「お嬢様、怪我は……?」
「問題ないわ。一晩もあれば治るから」
身体中が痣だらけだし、幾度も引っかかれたが、特に深い傷もない。これくらいなら一晩あれば治るだろう。
まあ、仮眠程度では無理だろうが。
夜通し戦った私と、夜通し戦いを見守ったリノキスは、ボロボロになった服を着替えて仮眠を取り、昼前にまた活動を開始した。
寝たのが早朝なので、まあ、多少は休めたかな。
派手に荒らされた花畑には、まだ数頭、武猿と武熊が倒れている。ボス両頭などはもう目を覚ましているが、まだまだ疲れているようで動く気配がない。
近くまで行っても、視線しか動かない。
目で私を追うだけだ。
「行くけどいいわね?」
巨木を指差して一応断りを入れるが、彼らは見返すだけでなんの反応もない。――怒りだの拒否だのの感情も動いていないので、なんとなく許可が出ている気がする。構わず行くことにしよう。
倒れている猿や熊を避けつつ、リノキスと一緒に巨木に近づく――と、漂っていた蜂蜜の匂いがどんどん強くなっていく。
「うわ……すご……!」
思わずという感じでリノキスが声を上げる。
私もすごいと思った。
見上げると、大きく張り出している巨木の枝には、何百という蜂の巣らしき丸い影が見えた。
よっぽど外敵がいない期間が長かったのだろう。ミツバチどもは安心して住処を拡張してきたに違いない。
所々大きな根が広がっていて、花のある足元は湿っている。巨木に近づくに連れてぬかるみのようになっていく。
「……もしかして蜂蜜が地面に落ちてるんですかね?」
「かもしれないわね」
この悪い足場は、朝露や雨でにじみ落ちた蜂蜜のせいか。……地面の匂いを嗅ぐと、ただでさえ強い蜂蜜の匂いをもっと強く感じる。
「どれ」
私は足元にある花の濡れている花弁を指でなぞり、口に含んでみた。
「あ、ダメです! そんな不用意に!」
「大丈夫だっ――げほっ! ごほごほっ!」
「お嬢様! まさか毒……!?」
「ちがっ、違う違う。――濃すぎただけ」
あまりの強い甘みと、口に入れた瞬間から一瞬で身体中に広がる暴力的な花の香りに、むせ返ってしまった。
というか、これは……すごいな。
「栄養価が高すぎる」
甘みも匂いもきついが、それらが身体に馴染んできたら、今度は胃の底からカッカと熱くなってきた。強い気付けや栄養剤を飲んだ時よりもっと強烈なものだ。
「リノキス、水筒持ってきて」
「あ、はい!」
飲み水として用意してきたものだ。リノキスは機馬へ戻ると、私と自分の水筒を持って戻ってくる。
まず水を飲んで、口に残った強い甘みを緩和して飲み下す。何度か繰り返す。それほどまでに濃かったのだ。
「これは薄めないと飲めないわね」
「毒ではないんですね?」
「ええ。むしろ身体にいいものだと思うわ。ほら」
「えっ」
私の腕にあったひっかき傷が綺麗に治り、かさぶたがポロポロと取れた。「内氣」で治療中だったとは言え、さすがにここまでの即効性はない。
「――飲んでみる?」
今度は、足元の花の葉っぱを一枚ちぎって丸めて棒状にすると、一回だけ水筒に突っ込んだ。
これで、一滴二滴程度は水筒に入ったはずだ。
蓋をしてがしがし振って混ぜて、リノキスに差し出す。これくらい薄めれば大丈夫だろう。
「う、うーん……ちょっと怖いんですけど……でも……」
リノキスは恐る恐るという感じで、水筒を受け取り、警戒しながら少しだけ口に含んだ。
「――あっ濃いこれ! 蜂蜜そのままみたいな! けほっ、あ、おいしい!」
何、これだけ薄めてもまだ濃いのか。
これは直で嘗めたら絶対ダメなやつだな。栄養価が強すぎて胃がやられるんじゃなかろうか。過ぎた薬効は毒と変わらないからな。
「……あ、すごい。これすごいですよ、お嬢様」
おお。リノキスに残っていたひっかき傷や痣も、見る見るうちに消えたな。
「これはいよいよ世界樹かしら」
マーベリアの脅威だった虫は、世界樹の恩恵を受けた虫、か。
なんというか、人でも物でもなんでも、長所とは短所に、また短所とは長所と表裏一体なんだろうな。
この大陸に巣食っていた人の敵は、多くの人が求めてやまない世界樹のせいだった、と。
これだけの薬効だ。
武猿も武熊も、これを独占するためにここに縄張りを張っているのだろう。
そして、ミツバチたちは彼らがいるおかげで、なんの心配もなく巣を作ることができるわけか。
よくできた共存関係だ。