198.午前中で大方済んだ
さて、気持ちを切り替えよう。
ここまでやられたからには、もう遠慮はいらないだろう。
ここからはお楽しみの時間だ。さっさと方針を決めて動こうではないか。
「リノキス、失った荷物で取り返しのつかない物はある?」
「私とお嬢様の身分証だけは、常に肌身離さない習慣を付けていたので持っていました。でもそれ以外は……」
そうか。
「あなたはとりあえず服よね」
「そうですね。完全に寝間着のままですから」
まあ、侍女服ならすぐに手に入るだろう。私も……茶色のコートの下は薄手のネグリジェである。この状態でコートの前を開けると痴女と騒がれそうだ。いや年齢的にまだ大丈夫だろうか。
「私の荷物なんて知れているから、特に未練もないわね」
日用品と私服と制服と、機兵学校の鞄と教科書と。それくらいか。レリアレッドやヒルデトーラに餞別として貰った紅茶類は少し惜しいが、これは仕方ない。
「大変じゃないですか」
「そう?」
平気だろう。また買い揃えばいいものばかりだ。
「だって全部ですよ? アルトワールから持ってきた物全部。お嬢様の使用済みのワンピースや、使用済みの下着や、使用済みの靴下に使用済みの靴まで! 全部ですよ! 私が欲しかったのに!」
リノキスも元気になってきたようなので、彼女も大丈夫そうだ。いつもの不信な侍女である。
「――あなたたちは? 大事な物は失っていない?」
ずっと気の毒そうに見ている子供たちに問うと、「大切にはしてたけど、大したものはなかった」と答えた。
その上で、全員が手を出した。
「……ありがとう。でも大丈夫だから、それは持っていなさい」
彼らが出したのは、先日、これからのことを話し合った時に渡した彼らの報酬だった。
過酷な暮らしをしていたせいで、寝ている時でも、いや寝ている時こそ、貴重品を手放さないのだろう。
そんなものを差し出させてしまったことが有難く、また心が痛い。
早いところ立て直さないとな。
具体的には今日中に。
「ねえ、夜まで子供たちを預かってくれない?」
この場の面子で頼めるのは、商業組合の受付嬢だけだ。
もう憲兵は信用できない。
リノキスに迫られて狼狽えていた態度からして、ソーベルは完全に無関係だとは思うが。それでもだ。
「あ……えっと……」
受付嬢は口ごもる。関わりたくないんだろうな。でも頼めるのは彼女しかいない。
「この請求書にサインするから。払うから」
たったの一億クラムくらい、今日で返済してやる。
「……それ、絶対に吹っ掛けてますよ」
「知ってるわ。でも払うから。あなたもこれにサインを貰わないと、帰れないでしょ?」
そしてそれは私もだ。
子供たちの安全を確保してからじゃないと、行動できない。
「――ほら。これでいいでしょ?」
親指を噛んで少し血を流すと、サインの項目にぐっと押してやった。
「頼むわ。今はあなたにしか頼めないの。夜まででいいから」
血判を押した請求書を突き出す。
決意を固めた目で見上げる私を、戸惑いながら見ていた受付嬢は……すっと目が据わった。
「……わ、わかりました! 商業組合で責任をもってお預かりします!」
よし。これで後顧の憂いは断った。
あとは行動あるのみだ。
心配そうな子供たちを説得して、受付嬢に連れて行ってもらった。
「あの、私はどうしたら……?」
「好きにしなさい」
ソーベルが所在なさげだが、もう構っていられない。
「リノキス。冒険家組合に行って、この大陸にいる賞金首の情報をかき集めておきなさい。あとで合流するから」
「わかりました。お嬢様は?」
「――挨拶してくる」
それだけでピンと来たのか、「ではお先に」とリノキスは足早に行ってしまった。
「あ……」
「向こうだと思うわよ?」
やはり見張りを命じられているのだろうソーベルは、私とリノキスが別行動を取り出したので、どちらに付いていくか目に見えて迷っていた。
だから言ってやった。
「私は知人に、当面のお金の工面をしてもらいに挨拶に行くだけだから」
一応は親切のつもりである。
だって、私のやることはきっと「なかった」ことになるのだ。そんなのに付いてきても仕方ないだろう。
「――あ、危ないことは、しちゃいかんよ?」
取ってつけたようにそう言い残し、ソーベルはリノキスを追って行った。
…………
さあ、行こうか。お楽しみの始まりだ。
「――な、なんだてめぇは!?」
悪趣味なまでに派手なドアを開けると、女と寝ていたおっさんが飛び起きて声を上げた。おーおー、昨日はお楽しみでしたね。
「ニア・リストンよ。あなたが来ないから、私から挨拶に来たの」
「ニア……てめぇが外国から来たってガキか!」
裸体にバスローブを羽織り、おっさんはベッドから立ち上がる。
「てめぇら出てこい! 敵襲だ! ……なんで誰も出てこねえ!?」
「寝てるからよ」
すでに拳の届く間合いに入っている私は、騒いでいるおっさんを間近から見上げる。
「――あなたがマーベリアの裏社会のボス、ダージョル・サフィーよね? 初めまして。ずっと会いたかったわ。本当にずっと会いたかった」
「あ、あ、あ、あ、……うおああああああああ!!」
私の報告は聞いていたようだ。
彼は私の接近にたじろいで下がり、机の上に会った重そうなガラス製の灰皿を持つと、殴りかかってきた。
まあ、軽く受け止めるが。
「私にくれるの? 高そうな灰皿ね、ありがとう。ところで昨夜の件でお金がなくなってしまってね。その責任を取ってもらいたいの」
「ぎゃ、あああああああああああ! 折れる! 折れるぅ!!」
言っている傍から、ばきんと灰皿が砕ける。
ダージョルの右手ごと。ばきばきいっている。ぼたぼたと血も流れる。
悲鳴を上げながら下がってきた襟首を掴み、脂汗と涙に濡れた顔を、力ずくで目の前まで引き込む。
「――あなたの命を取った上で金を貰うか、あなたの意志で組織の有り金を全部よこしなさい。それで勘弁してあげる」
「て、てめ……頭おかしいのか!? こんなことしてただで済むと――」
「それもう聞き飽きた」
床に投げ捨てる。
「彼らもずっと同じようなこと言っていたわよ。そろそろどうしてくれるのか具体的に聞きたいわね」
そして指を差す。
人がたくさん倒れている。
血の海に沈んでいる。
ダージョルなら誰が倒れているか、一人一人わかるだろう。
全員彼の部下だから。
この部屋に来るまでに殴り倒した輩の数は、百は超えている。今日はちょっと機嫌が悪いので、ちょっと荒っぽくやってしまった。壁や床にはたくさんの血痕が飛び散っている。
結構派手にやってきたつもりだったけど、ダージョルは気付かなかったみたいだな……この部屋は防音性が高いのかな。
「もう誰もあなたの命令は聞きたくないって。かわいそうに。こっちの世界って成り上がるのも落ちるのもあっと言う間だものね」
言葉もなく、部下だった者たちを唖然として見ているダージョルに、決断を迫る。
「それで? どうするの? 命を失うか、お金を失うか。早く選んで」
――この日の午前中、マーベリアの裏側を支配していたサフィーファミリーが壊滅した。
「お嬢様」
冒険家組合に顔を出すと、しーんと静まり返った店の中で、リノキスとソーベルが一緒に寄ってきた。
組合に来たのは初めてである。
軽食も食べられる場所のようで、テーブルがいくつか並んでいる。そして十数名のマーベリアの冒険家らしき連中がいる。
いつもは賑やかなのかもしれないが、今は全員俯いていて、物音一つ立てない。
「何かしたの?」
「いいえ? ちょっと何人か撫でたくらいです」
「そう。服も調達したのね?」
「ええ。彼らがお金を出してくれました。ありがたい善意です」
なるほど、それはよかった。……ソーベルが複雑そうな顔をしている辺り、こっちも色々やったのかな。
「それよりお嬢様、その袋は?」
ああ、そうだ。
「えーと……十八億クラムくらいあるみたい。あと金塊と魔石が少し。宝石はそこにいた女性にあげちゃった」
沈んでいた冒険家の何人かが、バッとこちらを見た。
そう、私が背負っている大きな袋には、十八億クラムと貴金属が入っている。
ダージョルが命乞いしながら、金庫から出して私にくれたのだ。慰謝料と小遣いだと言って。
そして私は、事の成り行きがよくわかっていないダージョルの女に迷惑料代わりの宝石をいくつか与えて、引き上げてきた。
「気前よく出してくれたの。これで当面はなんとかなるでしょ」
「さすがです。午前中だけで立て直しましたね」
まあ、それはそれだ。
「きっと午後はもっと楽しくなるわ」
金の問題だけじゃないからな。