192.初心を思い出した
「ニアちゃん聞いたよぉ? 捕虜を解放したんだって?」
なかなかそそる速度で詰め寄ってきた密偵が、ニヤニヤしながら耳元で囁いた。なんだか距離の近い女である。
「おはよう。あなたが捕虜の情報を流したんじゃないの?」
「一部伏せる約束したっしょ。話してないよ」
そうか。まあ、そう言うなら信じようか。
「あたしほら、約束は守る方だから」
信頼度が一瞬で目減りするような念の押し方である。
密偵は忠義の下に働く者が多い。
そんな密偵の、忠義の対象以外への約束事なんて、木の葉一枚分の厚みと軽さ程度のものである。
――登校中、ささっと私の傍にやってきたのはアカシ・シノバズである。
最近よく私の近くにいるので、まあ、私の情報収集でもしているのだろう。
忠義の対象へせっせと報告するために。
別段隠すようなこともないので、あまり気にしていない。というか私もマーベリアの情報を聞く相手として、アカシのことは若干気に入っている。わりと明け透けに物を言うから。
「情報早いのね。昨日の今日なのに」
当てははずれたが、憲兵に仕掛けられてやり返すことを目的としていた監禁事件だった。アカシを捕まえたあの夜に一部情報の報告を禁じたのは、この辺りのことである。
確か、なんとかという喧嘩師とやり合った後にアカシと接触したので、屋敷に連れ込むところをばっちり見られた。
いかほどの信頼を寄せられるのかと疑問には思いつつ、一応伏せるよう約束した。実際守ったのかどうかは知らない。というかたぶん守っていないと思うが。
だが、確かめる術もないし、確かめたところで終わった話だ。これはもういい。
「今はニアちゃんに興味津々だからね。まあそうじゃなくても、あれだけの数の人間が監禁されていた事件って前代未聞だからね。そういう意味ではちょっと話題になってるみたいだねぇ」
ほう。
「でもまあ、どうせニアちゃんは気にしないんでしょ?」
「わかってるわね」
罪に問われないことは確認済みだし、問われるならそれはそれでいい。
私に対する噂なんて、すでに学校中であることないこと駆け巡っているし。クラスメイトは怯えっぱなしで会話もままならないし。最近は教師も怯えているし。今更気にすることは何もない。
「それよりニアちゃん、他にちょっと気になる情報を仕入れてきたんだけど、教えてくれない?」
ほかに気になる?
「魔法映像、っていうの? 景色を記録できるってやつ。アルトワールにはそういうものがあるって噂で聞いたんだけど」
「――あ」
「え? どうしたの?」
忘れていた。
そうだ。そうだった。
私はこのマーベリアに、魔法映像を広めるという役割があった。
最近いっぱい暴力を振るえるものだから、すっかり浮かれて忘れてしまっていた。そうだった。そうそう、だからマーベリアを制するのもじっくりやっていたのだ。根本的に国を壊してしまったら意味がないから。
決して、じっくり色々な騒動を楽しみ味わうためじゃなかった。
……確か、あと一ヵ月ほどしたら、元空賊のキャプテンが様子を見に来ることになっていたな。
それまでに、何か撮影に使えそうなものを探しておこう。
「魔法映像っていうのはね――」
というか、ちょうどいいところにちょうどいい情報源があるじゃないか。アカシに聞いてみよう。
「ほうほう。へえ。これは面白いね」
登校時に語り聞かせた魔法映像の話に興味を示したアカシを、放課後に屋敷に招いて現物を見せてみた。
アルトワールから持ってきた魔晶板は、ヒエロ王子が広報に使うもので、専用の魔石から直接映像を観るタイプの市販されていない型だ。
詳細はわからないが、魔法映像というものは、魔法塔という映像を中継して発信するものがないと、放送局から流される映像を観ることができない。
簡単に言えば、アルトワールからマーベリアまで適切な距離を保った魔法塔が一定間隔で存在すれば、マーベリアでアルトワールの映像を観ることができる。理屈では。
しかし今は、肝心の魔法塔がないので、映像が送られてくることはない。
ここに魔晶板だけあっても仕方ないのだ。
この特別製の広報用魔晶板だけ、専用の魔石に封じられている映像を観ることができるわけだ。
難しいことはわからないが、これは映像を持ち運びできるタイプのもの、ということだ。
ちなみにこの広報用魔晶板と魔石は、人伝でヒエロ王子から餞別として託されたものだ。暗に「広報しとけ」という意味があることは、伝言がなくてもわかる。
「今より小っちゃいニアちゃんも可愛いねぇ、エッヘッヘッヘッ」
なぜだかいやらしい笑い声を漏らしながら、アカシは魔晶板の映像を観ている。その後ろで不愉快そうな顔のリノキスが「ふしだらな目でお嬢様を見るな。しかし言葉の内容には同意」とばかりに頷いている。
なお、観ているのは私と犬のあれだ。
「これは、娯楽ってことでいいんだよね? 何かしら深い意味のある映像ってことじゃないんだよね?」
「ええ。どこかで軍事利用はしているかもしれないけど、これは完全に庶民向けの娯楽番組ね。ただ観て楽しめばいいってだけ」
だからこそ広報に適していると判断されているのだろう。
何せ女の子が犬と追いかけっこして、最終的に激しく吠えられて嫌われるだけの映像だから。
なんの情報性もない、観ても観なくてもいいくだらない映像だ。
でも、くだらないからいいんだろうと、今は私も思う。
気分が落ち込んでいる時や、元気が出ない時や、何かしら心配事や心労がある時に、ほんの少しだけ前向きになれるようなものであれば、それでいい。
くだらないって鼻で笑うくらいでもいい。それでいいのだ。
「どう?」
「面白いね。アルトワールにはこんなのがあるんだね。いずれ行ってみたいなぁ」
「こういう感じで撮れそうなの、マーベリアにない?」
「……」
アカシが真顔になった。珍しくニヤニヤしてない。というか笑顔じゃない顔を初めて見た。
「もしかしてニアちゃん、これを持ち込むためにマーベリアに来たの?」
「いいえ。私は表向きは留学で、本当は国外追放されたの」
「えっ!?」
アカシは素早く距離を積もると、私の両手を取った。おお、なんだなんだ。
「じゃあこのままマーベリアに定住したらいいんじゃない!? 気に入らない奴とか外国人だからってどうこう言う輩はあたしが蹴り倒してやるからさ!」
熱烈な勧誘である。そうか、私を国に招きたいか。まあ自慢じゃないが、すでに十億の拳だからな。
「そういうわけにもいかないわね。親が心配してるし、少なくとも一度は帰らないと」
――ここ最近の生活が楽しくて楽しくてすっかり忘れていたが、そう、初心を忘れてはいけない。
数年を目途に帰るつもりで生活しないと。
その後のことはまだわからないが、一度はアルトワールに帰らないとな。
「てゆーかもうあたしと結婚してよ!」
「何言ってるの?」
やめろそういう冗談は。本気にして殺気を向ける侍女だっているんだぞ。