108.ガーネット・ライムの優雅な一日と、その裏で
ガーネット・ライム。
第三階級貴人ジョレス・ライムの奥方だ。
遠縁に王族の血を引く彼女は、幼少より上流階級の礼儀作法を学び、その高い技術と教養は齢五十を越えた今でも衰えることなく健在である。
多くの貴人たちに望まれ、空いた時間を使って子供に礼儀作法を教える教師をしている。
夫ジョレスの現在は、王宮勤めの高官で、アルトワール王国を支える者の一人として影に日向に活動している。
今回は、そんな上流階級に生きる女性、ガーネット・ライム夫人の華麗なる一日に密着してみた。
――なお、本編の真の目的は、後半に明かすこととする。
ライム夫人の朝は早い。
――「気持ちは若いつもりですが、身体はそうもいきませんから」
毎日の早寝早起きを習慣づけ、規則正しい生活を旨としているそうだ。
――「この歳になると痛感します。社交界のために美容と健康と身だしなみには常に気を付けて来ましたが、仲でも健康が一番得難く大切なものだと思い知りました」
そんな彼女の一日は、十種類の果物と野菜を搾ったコップ一杯のジュースから始まる。
――「ここ五年ほど愛飲しています。おかげさまで大きく体調を崩すことはありませんでした」
王都青果店が経営する喫茶店にて提供されている野菜ジュースを気に入った夫人は、頼み込んでレシピを教えてもらうと、自宅の専属料理人に毎朝作らせている。
もし美容と健康に興味があるなら、二番街にある喫茶店「青果・青葉の季節」を訪ねてほしい。
新鮮な野菜だからこそ生まれる奥深い味わいは、一味違った野菜の魅力をあなたに教えてくれることだろう。
特に一番人気である白ニンジンステーキは、一度はぜひ味わってみてほしい。
ゆっくりと朝湯を浴びた後、朝食。
――「いつもは夫と一緒ですが」
第三階級貴人ジョレス様は、国の要人ということもあり、撮影の許可が下りなかった。
いつもは二人で食べるという朝食は、焼き立てのパンとサラダ、スープという軽めのものである。
多少の差異はあるが、基本的にいつも同じ朝食メニューだという。
――「これから仕事なので、朝から満たされるほど食べることはありません。しかし食べることは生きることだと思っています。軽めの物でも朝は食べておいた方が、一日を溌剌と過ごせる気がしますね」
朝食を済ませ、朝の支度を整えると、来客があった。
やってきたのは貴人の子である。
ライム夫人は、これから礼儀作法の教師として教鞭を振るうこととなる。
彼女が請け負うのは、まだ学院での修学が始まる前の小さな子が多く、将来のためにこの頃から厳しく教育されるという。
立場上、教育風景の撮影は許可が下りなかったが、少しだけ見学することができた。
その光景は、ただただ厳しく、子供に同情を禁じ得ないものだった。
あれを見てしまうと、優雅、生活に苦がない、贅沢三昧というイメージが強かった高級貴人の世界も、苦労がないわけではないということを思い知らされた。
次々とやってくる子供に、礼儀作法を教えるライム夫人。
昼食を挟んで、午後からも同じ時間が続く。
――「今日はたまたま重なっただけですよ」
いつもこんなに忙しいのかと問うと、ライム夫人は疲れも見せない穏やかな表情でそう答えた。
――「私にとっての教師役? 貴人という立場の責務、でしょうか。やりがいのある仕事だとは思いますが……でも、好きでやっているわけではないですからね。私もかつては子供で、子を持つ親でもあります。誰が好き好んで子供の頃に会ったら嫌いになる人を演じ、子供に嫌われたいと思いますか」
厳しいだけに、子供には嫌われたり怖がられることが多いのだとか。
――「印象に残っている子、ですか? あえて王族は抜かしますが、そうなるとやはりニア・リストンでしょうね。教師役と生徒役で撮影も行われましたし、長く教師役をしてきましたが、初めて経験することが多かった子です」
初めての経験が多かった?
――「ええ。まず撮影が初めてで、家庭教師姿を第三者に見せるのも初めてでした。それにあんなに長時間耐えられた子も、ニア・リストンが初めてでしたね。終始落ち着いていて、まるで私が知っている子供ではないようでした。思わず本人そう言ったら、死線を潜ったからだと応えました。子供の返答じゃないでしょう? ……本当に病気が治ってよかったですね」
ニア・リストン嬢とライム夫人の撮影は、リストン領チャンネルの番組「ニア・リストンの職業訪問」第一回放送だった。
今では再放送もほとんどない、貴重な映像となっている。
そして、夕食が始まる。
我々の真の目的は、ここにあった。
年甲斐もなくやや緊張していたな、と振り返って思う。
ガーネット・ライムは、ようやく撮影の終わりが近いと知り、ほっとしている。
腹芸は上流階級の基本。
気を張っている間は、内心を表に出すことは許されない。これぞ子供の頃に躾けられ、持たされる武器であり防具である。
今や教える側の立場となったガーネット・ライムからすれば、もはや切り離せない己の一部である。
傍目には落ち着いて見えていたはずだが、しかし、実はずっと緊張していた。
――まあ、仕方ないだろう。一挙手一投足が映像として永遠に残るのだ。失敗も、成功も、分け隔てることなく。それこそ失敗できないではないか。
それに度胸や上辺の取り繕いと、カメラの前に立つこととは、必要な物は似通っていても別物である。
撮影はこれで二回目。
魔法映像慣れしていないガーネット・ライムには、今日は気が抜ける時間などまるでなかった。
食堂へ行き、いつもの席に着くと、夕食が運ばれてくる。
これが終われば撮影終了――そう考えるだけで気が抜けそうになるが、むしろ今こそ最大限の注意を払う。
何事も、終わり際が肝心なのだ。
(……?)
――しかし、気付く。
生まれてこの方、ありとあらゆる上流階級を味わって来たガーネット・ライム、一目で違和感に気付いてしまう。
ワインはいい。
情熱的な赤い色と、蠱惑的な香りと、若さを感じさせない渋みと。いつもの上質なワインだ。
だが目の前に運ばれてきた、この前菜。
野菜の荒い切り口、不揃いにしてまとまりのない盛り付け。
一流の料理人はドレッシングの掛け方にさえこだわる。
それさえも彩の一部、それさえも料理の一部だからだ。
(……どうする?)
もう何年、何十年もの付き合いとなる専属料理人の腕と味が、わからないわけがない。
これは間違いなく別人が作った一品。
それも素人同然の者が作った一品。
体裁だけは整っていることから、監督した者はいるはず――それこそ、この屋敷の台所で作ったのなら専属料理人が見ていたことだろう。
そして周囲にいる使用人たちの無反応ぶりからして、これは全て仕組まれたものだと察することができる。
毒を盛ろうなどという賊の仕業ではない。
腕が未熟な料理人に、専属料理人が台所を任せるわけがない。
となると――
(あれかしら)
魔法映像。
あれ絡みの騙し討ちのような撮影だとすると、この展開にも可能性は生じる。
――たとえば、そう、ニア・リストンのやっている番組とか。
時折観ているが、いろんな職業を体験する様を撮影している。近頃は犬と走るのが上流階級でも少し話題になっている。
正直あまり褒められたものではない。
彼女のやっていることのほとんどが貴人の娘がやることではないと思う。まあ、もうそういう小言を言うのは古いという時代なのだろうが――
時代の憂いはともかく。
彼女が作ったものだと考えれば、可能性はある。
番組の兼ね合いでニアが料理を作ることになり、なんらかの関係でガーネット・ライムが振る舞う相手に選ばれた。
正直番組のことはよくわからないが、なくはないと思う。問題の前菜が目の前に出てきていることからも。
もしそうなのであれば、普通に文句を言ってこきおろせばいい。
自分が悪者になることで、相対的にニアの価値があがる。今更優しい老婆になるつもりもないので、それでいい。
(ならば――いや待て)
方針を打ち出そうした矢先、これまでずっと、足の引っ張り合いが日常の上流階級で綱渡りをしてきた自身の勘が、磨かれてきた本能が、まだ判断するのは早いと警鐘を鳴らす。
「もう一杯」
使用人にお代わりを要求し、じっくり時間を掛けてワインをテイスティングしている体で、頭をフル回転させる。
――そう、ニア・リストン以外の可能性もあるのではないか?
ニアだったら正直な感想を言うだけでいい。
だが、別人だった時がまずい。
たとえば、ヒルデトーラならどうだ?
彼女もよく魔法映像に出ている。可能性はあるはずだ。
そもそもこの撮影自体がおかしい。
夫であるジョレスが持ってきたものだが、最初かららしくないと思っていた。
こういう私生活を見せるような浮ついた番組は、ジョレスの好むところではない。
その辺に関してはガーネット・ライムよりもシビアに物事を判断する。
結果的に悪くなかったが、あのニア・リストンの撮影でも、ジョレスは反対したのだ。しかしガーネット・ライムが強引に押し切った形で承諾した。
だからこそ、ヒルデトーラが――ジョレスが政治的に受け入れざるを得なかった相手から、この撮影の話を持ち掛けられたのだとしたら?
だとすると、ニアが料理をしたと思うより、こっちの方が筋が通ってしまう。
さすがに不特定多数が観る魔法映像で、おおっぴらに王族をこき下ろすことはできない。
それは突き詰めれば階級社会の否定に繋がってしまう。
もしくは、レリアレッド・シルヴァーはどうだ?
いや、ガーネット・ライムと直接の面識がない彼女が動いているとは考えづらい。
そもそもシルヴァー家は例の紙芝居関係でかなり忙しくなっていると聞いている。
今このタイミングで、第三階級貴人の嫁に手料理を振る舞う、なんてよくわからない撮影をするとは思えない。
――となると。
「料理人が変わったのかしら? いつもと違うのね」
作ったのが別人だと気づいてますよアピールをしつつ、それ以上の言及を避け、ニアでもヒルデトーラでも対応できる形で進行する。
優雅に、あえてゆっくりと夕食を楽しむガーネット・ライムの判断は、果たして当たっていたのかどうか――
「――ヒルデトーラです! 新企画、『料理のお姫様』です!」
遡ることしばし。
ガーネット・ライムが子供の教育をしている頃、その台所ではピンクのエプロンとお揃いのコック帽が可愛らしいヒルデトーラが、裏の撮影をしていた。
「昨今の女の子たるもの、たとえ王族でも料理の一つくらいは憶えておきたいものです。
この番組では、腕の良いプロのシェフに料理を教えてもらい、実際に作ってみたいと思います。
目指せ、貴人を唸らせるプロの味!」
気合いを込めた握り拳が非常に可愛らしい。
「それでは、今回の料理人を紹介――の前に。
わたくしと同じくらい小さな子は、絶対に大人と一緒に料理してくださいね! わたくしもそうしますからね!
それでは、今回の料理人は、この方です!」
そう、ガーネット・ライムは読み勝ったのだ。
そして、なぜこの企画が回ってきたのかと言えば、夫ジョレスが読み負けたからに他ならない。
魔法映像のカメラが回っているという証拠が残り言い逃れができない状態で、料理を作った王族たるヒルデトーラをぼろくそにこき下ろした。
まずいだなんだと、それはもうぼろくろに言った。言ってしまった。
その映像を放送しないことを条件に、この企画を通したのと、自分の代わりになる生贄の紹介……いや、負けのツケを嫁に払わせた、というのが真相だ。
――そんな裏事情はさておき。
プロの料理人がそこそこのレシピを公開するこの番組は、各飲料店から家庭料理にまで影響を及ぼし。
アルトワール王国の全体的な調理技術の向上に繋がることになる。
そしてなかなかの長寿番組として君臨し、素人参加型の大会なども開催されるほどの名企画へと育っていく。
貴人の騙し討ち。
この文化が生まれたのは、きっとこの時だったのだ。
これを悪しき風習と言うか、それとも魔法映像普及活動の一助と考えるか。
後の文化人たちは結論を出せないのだが、ただ一つ言えることは。
――これがニア・リストンの運命を大きく変えた。
それだけは、誰もが認める事実である。