運命を救うのは? ~マッチ売りの少女異聞~
ある大みそかの日の夜のことでした。その日は朝からしんしんと雪が降り積もり、凍えるような空気が街を覆っていました。だれもがコートを濡らす雪に顔をしかめ、足早に過ぎていきます。
そんな凍てついた街の大通りを一人の少女が歩いていました。ひどくやせ細り、せっかくの金の髪も色あせ、くすんでいます。着ている服も冬の寒さをしのぐにはとうてい足りないような、うすっぺらいもので、足には何もはいていませんでした。雪の上に立ち尽くすその足は、真っ赤に腫れ上がっています。
「マッチはいかが?」
少女の手には小さな籠があり、その中にはたくさんのマッチ箱がありました。少女は通りを行き交う人々にマッチ箱を差し出し、マッチを買わないかと声を掛けていました。
少女は、マッチ売りでした。
少女は朝、日が昇る時間から今まで、ずっとこの大通りでマッチを売り歩いていました。しかし、せわしない年の瀬に、少女の言葉など聞いてくれる人はいません。彼女が声を掛けた人は誰も、迷惑そうに彼女の手を振り払い、話さえ聞いてはくれませんでした。結局、日が暮れる時間になっても、マッチは一箱も売れてはいませんでした。
「……どうしよう」
少女は途方に暮れたように呟き、自らの足元を見つめました。父親からは、マッチがすべて売れるまで帰ってくるなと、きつく命令されていました。銅貨の一枚も稼がずに家に帰れば、父親は彼女を殴りつけ、蹴り上げて外に放り出すに違いありません。少女は必死で涙がこぼれるのを我慢していました。泣いてしまえば、自分がみじめで情けなくて、何の価値もないのだということを、認めるような気がしたのです。通りのガス灯の光が少女を照らし、その影を濃く地面に落としていました。
どれほどの時間、俯いていたのでしょう。少女はふと、自分の前に誰かが立っていることに気が付きました。顔を上げ、少女は怯えるように息を飲みました。少女の目の前にいたのは、まるで喪服のような、真っ黒な服に身を包んだ、一人の老婆でした。老婆はじっと少女を見つめています。しかし、その瞳は温かさも優しさも宿してはいませんでした。
「……マッチを、買って、くれませんか?」
少女はおずおずと籠からマッチを取り出し、老婆に差し出しました。老婆は首を横に振り、少女に答えました。
「私はマッチを買いに来たのではないわ」
老婆の声にはいたわりも同情もありません。少女はマッチを籠に戻すと、空を仰ぎました。厚い雪雲に覆われ、星さえも見えない夜。しかしそのとき、少女の目に一つの星が流れていく様子が映りました。星の輝きは命の輝き。流れ星は誰かの命が尽きゆく証。それは少女の大好きだった祖母が、彼女に教えてくれた昔話でした。少女は「ああ」と納得したように息を吐くと、老婆の顔を見つめて言いました。
「あなたは、死神?」
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ある大みそかの日の夜のことでした。その日は朝からしんしんと雪が降り積もり、凍えるような空気が街を覆っていました。だれもがコートを濡らす雪に顔をしかめ、足早に過ぎていきます。
そんな凍てついた街の大通りを一人の少女が歩いていました。ひどくやせ細り、せっかくの金の髪も色あせ、くすんでいます。着ている服も冬の寒さをしのぐにはとうてい足りないような、うすっぺらいもので、足には何もはいてはいませんでした。雪の上に立ち尽くすその足は、真っ赤に腫れ上がっています。
「マッチはいかが?」
少女の手には小さな籠があり、その中にはたくさんのマッチ箱がありました。少女は通りを行き交う人々にマッチ箱を差し出し、マッチを買わないかと声を掛けていました。
少女は、マッチ売りでした。
少女は朝、日が昇る時間から今まで、ずっとこの大通りでマッチを売り歩いていました。しかし、せわしない年の瀬に、少女の言葉など聞いてくれる人はいません。彼女が声を掛けた人は誰も、迷惑そうに彼女の手を振り払い、話さえ聞いてはくれませんでした。結局、日が暮れる時間になっても、マッチは一箱も売れてはいませんでした。
吹き付ける冷たい風と雪に耐えかねて、少女は通りの脇にある家と家の隙間に身を隠しました。ガス灯の光も届かない闇溜まり、風も雪からも見放され、世界から忘れられた場所で、少女は座り込み、身を縮めて、自らの手で足の指先をこすりました。足の先にはもう、何の感覚もありません。少女は足先をぎゅっと掴んで、うなだれるように頭を自らの膝に載せました。
風雪をさえぎる壁も、染み入るような冷気からは守ってくれません。この壁の向こうでは、暖炉のある素敵な部屋で、いつもより豪華な食事を囲んで、家族が幸せそうに笑っているのでしょう。少女の耳に、かすかに子供の笑い声が聞こえました。新しい年を、未来を心待ちにする声。少女はうつむいたまま、唇を強く噛み締めました。自分がみじめで、哀れで、情けなくて。足先に当てた手の指までが冷たく凍えて、しびれ、感覚を失いつつありました。
少女は傍らに置いた籠に目を遣りました。籠の中には、誰からも見向きもされないたくさんのマッチ箱が、死んだように横たわっています。少女は籠に手を伸ばし、一つのマッチ箱を取り出しました。少女にとって、この箱は呪いでした。籠にある限り家に帰ることが許されぬ呪い。どれほど懸命に売り続けても、翌日には籠一杯に戻る永遠の呪い。決して逃れることのできない、重く冷たい運命の鎖です。
これを使えば、わずかでも、冷えた体を温めることができるだろうか。
少女の脳裏に、ふと、そんな言葉が浮かびました。少女は今まで、自分でマッチを使ったことがありませんでした。働くこともなく、昼間から酒を喰らう父親は、マッチの在庫と売り上げに差があることを決して許さない男でした。マッチ箱を一つ失くしただけでも、少女は殴られ、食事を抜かれ、家から追い出されるのです。少女はずっと、マッチ箱を失くさないように、盗まれないように、売り上げをごまかされないように、ただそれだけを考えて毎日を過ごしてきました。
少女は虚ろな目をして、じっとマッチ箱を見ていました。どうして、こんなちっぽけなマッチのために毎日辛い思いをしなければならないのだろう。お腹を空かせ、みすぼらしい恰好をして、誰からも顧みられず、独りで凍えていなければならないのだろう。このちっぽけなマッチに、それだけの価値があるというのだろうか。それとも、このちっぽけなマッチ以上に、私には価値が無いのだろうか。
少女は箱からマッチを取り出し、壁にこすりつけて火を点しました。忌々しいこの呪いに火を点け、焼き尽くしてしまえば、みじめで価値のない自らをさえ焼き尽くしてくれるのではないか、そう思ったのです。
マッチの火は思いのほか大きく、赤々と燃えあがりました。じんわりとした熱がマッチを持つ指に伝わり、失いかけていた感覚が戻っていきます。少女はじっとマッチの火を見つめました。赤とオレンジに揺らめくマッチの火は、どこか現実ではないような、頭の奥がしびれていくような、不思議な感覚を少女にもたらしました。
ふと気付くと、少女は立派な暖炉のある、レンガ造りの素敵な家の中にいました。父親の待つ、穴の開いた屋根を布で取り繕った廃屋とはまるで違う、立派な家です。壁はきちんと外気をさえぎり、隙間風が吹くことも、雪が入り込むこともありません。暖炉には薪がくべられ、部屋の中は楽園のような暖かさに包まれていました。少女は暖炉に近付き、その火に手をかざしました。
「ああ、温かいなぁ」
少女がそう呟いた、次の瞬間。
少女は凍えるような冷たい闇の中にいました。手の中のマッチは燃え尽き、ボロボロと崩れて地面に落ちていきました。少女は呆然と、自分の手を見つめます。あれはマッチの火が少女に見せた幻だったのでしょうか。あれほど温かいと感じたのに?
少女は再び箱からマッチを取り出して火を点しました。あんなにも幸せな気持ちになれたのは、生まれて初めてでした。幻でもいい。ただ残酷なだけの現実より、幻のほうがいい。少女は再び楽園に迎えられることを願いながら、じっとマッチの火を見つめました。
マッチの火は先ほどよりもさらに大きく燃え上がり、少女のこけた頬を赤く照らしました。揺らめくマッチの火を見ていると、めまいに似た、浮き上がるような、世界があいまいになっていくような感覚が、少女に訪れました。
ふと気が付くと、少女は立派な暖炉のある、レンガ造りの素敵な家の中にいました。明るく暖かい部屋。そして驚いたことに、少女の目の前には、純白のテーブルクロスが敷かれた大きな木の机があり、銀のお皿には食べきれないほどの御馳走が乗っていました。少女はきょろきょろと周りを見回すと、緊張した面持ちで、おそるおそる、ガチョウの丸焼きに手を伸ばしました。表面があめ色に焼けた丸焼きを銀のナイフで取り分けると、肉の中に詰められたリンゴとドライピーチが顔をのぞかせました。今まで、夢に中でだってこんな御馳走を食べたことはありません。少女は銀のフォークで切り分けた肉を突き刺し、口に運びました。適度な歯ごたえでありながら柔らかいその肉を奥歯で噛むと、口の中で脂のうまみが広がります。塩加減も絶妙で、そしてほのかに果実の甘みを感じました。
「ああ、美味しいなぁ」
少女がそう呟いた、次の瞬間。
少女は凍えるような冷たい闇の中にいました。手の中のマッチは燃え尽き、ボロボロと崩れて地面に落ちていきました。少女は信じられないという顔をして、自分の手を見つめます。少女は一度もガチョウの丸焼きを食べたことがありません。初めて食べた、その鮮烈な味の記憶が、幻だというのでしょうか?
少女は急いでマッチ箱から残ったマッチを取り出すと、そのすべてに火を点しました。もう現実など必要ありません。幻の中にいれば凍えることも、空腹にあえぐこともないのなら、どうして暗く無慈悲な現実に留まらねばならないのでしょう。
マッチの束は大きく燃え上がり、まるで松明のように周囲を照らしました。揺らめく炎は少女の意識を白く染め上げ、すべての感覚を奪っていきました。
ふと気が付くと、少女は立派な暖炉のある、レンガ造りの素敵な家の中にいました。明るく暖かい部屋。きれいなテーブルクロスに食べきれないほどの御馳走。そして、少女の目の前には、一人の老婆が立っていました。
「おばあちゃん!」
驚きと、そして喜びの声を上げて、少女は大好きな祖母に抱き着こうと一歩踏み出し、そして硬直したように動きを止めました。老婆は少女を、冷たく厳しい眼差しで見つめていました。
「いつまで夢をみているつもり?」
老婆は咎めるように少女に言いました。
「幻の暖炉はあなたを暖めてはくれないわ。あなたは今も凍えたまま。
幻の御馳走は空腹を満たしてはくれないわ。あなたは今もお腹を空かせたまま。
わかっているでしょう? 幻はあなたを救ってはくれない」
「そんなことないわ!」
少女は首を振り、老婆の言葉を打ち消すように叫びました。
「だって今、私は寒くない。
今、私は空腹を感じてなんかいない。
何より今、おばあちゃんに会えた!」
少女の目にはこれ以上ないほどの喜びが満ち、今、少女を守り慈しむ者が誰もいないということを証明していました。老婆の、厳しさで隠した瞳の奥に、哀しみの色が揺れています。老婆はわずかに俯き、少女から視線を逸らしました。
「私はもう死んでいるの。わかっているはずよ。私はあなたに手を握られて最期の時を迎えたのだから」
「わからないわ! 何もわかりたくない! だってこうして話してる!
ほら、こうやって触れることもできるわ!」
少女は老婆に手を伸ばし、その手を取りました。冷たい手。でも、確かにそこにある手です。少女は縋るような目で老婆の顔を見上げました。
「私ね、頑張ったよ? おばあちゃんがいなくなってからも、毎日毎日、いっしょうけんめい、
ひとりで頑張ったんだよ? だけど、どうにもならないの。何も変わらないの。
私がいてもいなくても、世界は何も変わらないの」
ずっと抑えつけていたものを吐き出すように、少女の目から涙が溢れました。老婆は悲しげな瞳で少女を見ています。
「もういいでしょう? もう、頑張らなくたっていいでしょう? 世界が私を棄てるのだから、
私が世界を棄てたっていいでしょう?」
老婆の袖を掴み、泣きじゃくる少女に向かって、老婆は静かに、首を横に振りました。
「どうして!」
少女は大好きな祖母に理解してもらえない苛立ちを叫びました。老婆は一度目を閉じ、再び目を開けて、冷厳な瞳で少女を見下ろしました。
「生まれてしまったからよ」
老婆は感情の無い声で少女に答えます。
「私たちは望みもしないのに、気が付けばこの世界に産み落とされている。生まれてしまったらもう、
生まれなかったことにはできないの。私たちは生きなければならない」
少女は俯き、唇を噛んで目を閉じました。老婆の手が少女の頬に触れようと持ち上がり、そして何にも触れることなく下ろされました。
「世界は手を差し伸べてはくれない。あなたの声は世界には届かない。世界はただそこにあるだけ。
何を受け止めることも、何を返してくれることもない」
少女は自らの手で涙を拭い、震える声で老婆に問いました。
「認めろというの? 無意味であることを」
「そこからすべてが始まるの。あなたはすべての意味の主になるのよ」
少女は一歩後ろに下がると、顔を上げ、赤く腫れた目で老婆を見つめました。老婆は峻厳な仮面を捨て、わずかに微笑みました。
「もうすぐマッチが燃え尽きる。目覚めの時よ。現実にお帰りなさい」
老婆の身体が、ほのかに白く光を帯び始めました。
「連れて行ってはくれないのね」
確認するように、少女は老婆を見上げます。老婆ははっきりと頷き、
「もう、その必要はないでしょう?」
そう言って、少女の瞳を覗き込みました。少女は苦笑いを浮かべ、吹き出すように軽く息を吐きました。老婆の放つ光は少しずつ強くなり、その輪郭をあいまいにしていきます。
「少しだけ、甘えてもいい?」
気恥ずかしそうに、少女は小さな声で言いました。
「私はただの幻よ」
老婆が戸惑ったように眉間にシワを寄せました。少女は微笑み、
「わかってる。それでも、会えて嬉しかった」
大きく手を広げて、老婆の腰に抱き着きました。老婆の手がためらいがちに少女の髪に触れ、ぎこちなく頭を撫でました。
「……私は偽物だけれど、あなたの本物のおばあさまならきっと、こう言うでしょう。
『あなたを愛している』と」
「ありがとう」
光は徐々にその強さを増し、立派な暖炉も豪華な御馳走もレンガの家も、すべてを飲み込んでいきました。目の前にいる老婆の姿も、その手に触れる温もりさえ白く染め上げて、少女はひとり、光の中に佇んでいました。
夢見る時間は、終わったのです。
冷たく清澄な空気が、街を包んでいます。夜のうちに降り積もった雪が、朝日を浴びてきらきらと輝いていました。大みそかの翌日、世界が新しい年を迎えた最初の朝、少女は家と家の間にある狭い空間で、ゆっくりと身体を起こしました。少女の傍らには、燃え尽きたマッチの燃えカスが儚く哀れな姿を晒しています。もっとも、少女が使ったのはたった一箱のマッチだけ。籠の中には山のようにマッチ箱が積み上がっています。
少女はぼんやりと意識を覆う靄を払うように、軽く首を振りました。吐く息は白く、身体は芯まで凍えています。しかし、少女は生きていました。少女は立ち上がり、目の前の、町の大通りを見つめました。暗がりから見る街の姿は、まばゆいほどに光り輝いています。早朝の大通りに人影はなく、街はまだ眠りの中にいるようです。
少女はまるで世界に自分一人しかいないような錯覚を覚えました。いえ、錯覚ではありません。少女は今確かに、たった一人、新しい世界の中心に立っていました。
自分は不幸だと思っていました。
どうして自分ばかりが、こんなに辛いのだろうと。
それは、期待していたからです。
いつか、誰かが救ってくれる。
いつか、世界は私の価値に気付く。
しかしそれは、ただの幻でした。
世界に意味などありませんでした。
世界は彼女に興味がありませんでした。
少女は右手の甲で、ぐいっと、自らのすすけた頬を拭いました。さあ、ここからが始まりです。世界に意味が無いのなら、世界の意味は自分で決められるということです。決めていいということです。私にとって無意味なものは無意味であり、私にとって害悪なものはすなわち害悪なのです。そんなものに囚われ、従う必要はないのです。
少女は地面に置いた籠の中身に目を遣りました。そこには誰からも求められていないマッチ箱の山があります。少女が今、持っているのは、やせこけた自分の身体と、このマッチ箱だけでした。もう家には帰らないと、少女は決めていました。まずはこの売れないマッチ箱を売る方法を、それも、できるだけ高く売る方法を考えなければなりません。そして手に入れたお金で、もっと売れるものを仕入れて売るのです。そうやって、少しずつ利益を増やしていく。そんなことが本当に可能でしょうか? でも、それができなければ死ぬだけです。
生きてやる。必ず。
目の前に広がるのは、光り輝く街の姿。しかし冷たく硬い石造りの街です。少女は大きく息を吸い込み、深く息を吐いて、そして、闇の中から光の中へ、足を踏み出しました。
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「終わりを望んでいるの?」
老婆は平坦な声で少女に問い返します。少女は怯えたように口を閉ざし、そして、ためらいがちに頷きました。
「もう、疲れちゃった。生きていなきゃいけない理由もないし」
少女は虚ろな瞳で地面を見つめました。しかし老婆は微動だにせず、冷酷な視線を少女に向けています。
「その選択を間違いだというつもりはないわ。でも私は、あなたにもう一つの選択を示すことができる」
少女はゆっくりと顔を上げました。しかし瞳は虚ろのまま、老婆の言葉の意味も、理解してはいないようでした。
「あなたが生きても、死んでも、世界は何も変わらないでしょう。でもそれは当たり前のこと。
世界には意味も意志もないのよ。自分は世界に愛される、その幻想から脱け出した時、
あなたはすべての意味の主になる」
老婆は少女に向かって右手を差し出しました。少女はぼんやりとその手を見つめます。
「私を死神と言ったあなたは正しい。新しい未来を手に入れるには、古い自分を殺さねばならない。
自分を憐れみ、運命を嘆いているだけの今までの延長を生きるほうが、今ここで終わりを選ぶ方が、
きっとどれほど楽でしょうね。私はどちらでも構わない。あなたに私の手を取る勇気はある?」
少女は老婆の言葉の意味を理解しました。老婆は少女に、自分の幸福を阻むものを、父を、見捨てよと言っているのです。
憐れな男でした。妻に逃げられ、その事実を受け入れることができずに酒に溺れ、身体を壊して働くことさえできなくなった男でした。自分の人生はこんなはずではなかったと、世の中は不公平だと、不平を並べ立てて何もしない男でした。でも、父親でした。少女の目から、透明な涙がぽろぽろとこぼれました。父が憐れでなりませんでした。血を分けた実の娘からさえ見捨てられようとしている、父が憐れでなりませんでした。老婆は泣き続ける少女の選択を、静かに見守っていました。
やがて涙は止まり、少女は自らの手で涙を拭うと、マッチ箱の詰まった籠を投げ捨て、決然と老婆の手を取りました。その瞳にはもう、甘えも迷いも消え、ただ覚悟の光がありました。生きる、という、覚悟の光が。
「賢い選択ね」
無機質な仮面を脱ぎ、老婆が少女に微笑みました。
「あなたの選択を、私は祝福する。誰があなたを罵ろうとも、私があなたを許します」
老婆の言葉に少女は頷きました。老婆も少女に頷き、そして後ろを振り返りました。老婆の視線の先には、黒塗りの、豪華な四頭立ての馬車がありました。やはり全身を黒い服で固めた男が、馬車の扉を開き、老婆にうやうやしく頭を下げます。いつの間にか、雪は止んでいました。
「さあ、行きましょう」
老婆に促され、少女は馬車へと乗り込みました。自分の意志で、暗く冷たい大みそかの夜を越えて、新しい朝を迎えるために。
御者が手綱を取り、馬車がゆっくりと動き始めました。馬車は徐々にその速度を増し、街の門を越え、やがて街から見えなくなりました。少女は振り返ることも、名残を惜しむこともなく、馬車の中で背を伸ばし、まっすぐに前を見据えていました。
世界が新しい年を迎えた朝、一人の少女が街から姿を消しました。そしてその日から後、街の人々が少女の姿を見ることは二度とありませんでした。