犯罪者は眠らない1 前編
嫌な夢を見たような気がする。しかしそれ以外は何ら変わらないいつも通りの日常。この先もずっと同じ日常が過ぎゆく人生。無意識のままに椎名遊大はそう考えていた。
――いやな夢を見た気がした、もしかしたら見ていないのかもしれないけれど、冷汗でTシャツがびっしょりに濡れている。であれば見たのだろう、多分。
窓から差す月と街頭の明かりだけが部屋を照らす真っ暗な部屋。
俺は身体を起こし、ベッドに腰を掛け、寝汗でビショビショになったTシャツを脱ぎ捨てる。
手探りで枕元に置いてあるはずの携帯電話を探し当て、電源を付けると、真っ暗な目前がいきなり光り輝き思わず目を背ける。
2月13日水曜日、20時16分。起床時間は概ね予定通りだった。そして通知が3件、全て七海からでこれはいつも通りだ。
不在着信とメッセージが2件。「遊大起きてる?今日22時から出勤なの分かってるよね?いつもくらいの時間で待ち合わせね!」「ちゃんと起きてる?」
俺は一言「起きてるよ」と返信して腰を上げる。
――七海、須藤七海は家が隣で、小さい頃からよく一緒にいる。言うなれば幼馴染ってやつだ。
小さいころから引っ込み思案で、あまり社交的とは言えない性格だったため、外交的だった俺とは正反対の性格で交わるところが無かった。
だが俺の親と七海の親の仲が良かった縁から一緒に遊ぶ機会は多かった。
外で遊ぶときは七海が俺の後ろを付いてきて公園や川で遊び、家で遊ぶときは七海の部屋でゲームをしていた。
とあるきっかけ、と言うよりは不運、事件を経て七海はより一層俺のそばを離れなくなった。義理堅い性格と、人が苦手な性格が知恵の輪のようにガッチリ固まって離れなくなった。離せなくなった。
しかし最近は過去の七海を知っている人ならば必ず驚くほどに人当たりが豹変した。長かった髪をショートカットにし、正反対に社交的になった。
過去に俺が不意に理由を聞いたとき「あんまり遊大に頼りすぎるのも良くないかなって考え始めたんだ、私自身の問題でもあるし」と腕を擦って言っていたことがあった。「バイト先も同じなくせに」と俺が言うと「もう」と言って口を膨らませていた。
それでも本質は変わらない。人当たりが良く、社交的になり、友達が増え、放課後にはプリクラを撮りに行くことがあっても、人を信用しきれない彼女の笑顔は、俺から見ると酷く不器用で、儚かった。
カーテンを閉め、脱いだTシャツを拾い部屋を後にする。
階段を降りてリビングに入ると、ラップに包まれた料理と置手紙がテーブルの上にあった。料理は既に冷め切っている。
『遊大へ、今日も夜勤だったよね?悪いけど起こさないで行くから。ちゃんと起きるのよ?』
「手紙で言われても……」と一人、母の手紙にツッコミを入れる。
『それから、お夕飯作っておいたから、残さず食べなさい。ちゃんとチンしてね、ご飯は釜の中だから。じゃあ行ってくるわね、頑張って』
手紙の最後には『愛しのママより』と書いてあった。
俺は以前「手紙じゃなくて携帯で伝達したほうがよくない?」と母に提案したことがあったが「手書きだからいいんじゃない。手で書いたほうが温かく感じるでしょ?」と一蹴されたことがある。
手紙を読んだ後、料理が乗ったプレートを手に取り、炊飯器からご飯を盛って、電子レンジで適当に2分くらい加熱した後、手紙の端に置いてあったペンを持った。
「ご馳走様、美味しかった」
母の料理など、食べずとも美味しいことは明確だ。
――ご飯を食べ、シャワーを浴び、軽い身支度をすると丁度いい時間になっていた。
ホットコーヒーを飲みながら携帯でネット掲示板を流しながら見ていたら「先に下で待ってるね」と通知が飛んできた。
「すぐ行く」と返信し、ホットコーヒーを一気に飲み干してコートを羽織った。
仕事着と最低限の荷物が入ったリュックサックを背負い、玄関へ向かうと、二月の寒さがドア越しに感じられる。
「早く行かないと」
靴を履いて「行ってきます」と小さくつぶやく。
外へ出て、しっかりと鍵をかけたことを確認すると、七海も丁度家から出たところだった。
「今日は寝坊しなかったんだね?」七海が小走りでこちらへ来ながら言った。
「先に待ってるんじゃなかったの?」意地悪っぽく俺が言うと「少しお母さんに捕まっちゃって」と軽く頬を赤らめながら言った。
俺たちの家からバイト先のレンタルビデオ屋までは、歩いて20分くらいのところにある。夏は自転車を使えばすぐに行ける距離だが、冬は自転車が使えない点が北海道の厳しいところだ。今晩は雪が降っていないだけマシなほうだけど、その分冷え込んでいて、耳の先がとても冷たい。
「今日の締め作業って、私たちだけだっけ?」
歩きながら、不意に七海が俺に訪ねてくる。
「いや、10時から4時までは俺たちだけだけど、そこから店長が出勤するはず」
朝に人が少ないから裏で発注とかシフト作りながら待ってるって言ってた。と付け加えると「そうなんだ」と七海は小さくつぶやいた。
家を出てすぐ、どの時間帯でも車通りの少ない横断歩道で足を止める。遠くでかすかに車の音が聞こえ、お互いの息遣いすら聞こえる静かな夜道。
目の前で信号機が点滅を始めている。走らなくても間に合うような距離にあるが俺と七海は静止した。
この横断歩道はさほど距離もなく、車も全く通らない道だから、俺はいつも無いものとして平然と渡るが、七海はどんな横断歩道だろうと必ず守り、青になってから渡る。
「そういうところ律儀だよな」とポツリと漏らすと「ん?何?」と顔を覗き込みながら七海が聞いてくる。
「――いや、こんな信号、守ってるのお前くらいだぞ」
「まぁ、そうだろうけど……」
短い髪を手で弄りながら七海が少し考える。
「――なんかさ、かわいそうじゃない?」
「可哀想?信号が?」
七海は少しだけ口角を上げて「そう」と言った。
「信号機だけじゃないよ?自動販売機もそうだし、後は駐輪場の自転車とかかな?」
「へぇ、それの何が可哀想なんだ?」
「だってさ、この信号は、この時間だと特に車も人も滅多に止めないし、コンビニの向かいにある自動販売機も、だれも使わないでしょ?」
「まぁ、使う必要ないしな」
俺が言うと「確かに私も使わないけど」と七海は申し訳なさそうにする。
「高架下の駐輪場にある自転車も、持ち主が一向に現れないまま、ご主人の帰りを待つ忠犬みたいにじっとその場を動かないじゃん。それってなんだか、とても悲しいことのような感じがしない?」
七海は両手の平に吐息をかけ、こすり合わせる。
「確かに、そう言われてみると、可哀想な気がしないでもないな」
七海は人が普通考えないような、少し変なところに目を付けることがある。天然、と言ったらこれで済んでしまうような気もするけれど、やはりそれとは違うような独特な感性。俺はそんな不思議な感性に何度か考えさせられたこともあるし、何なら助けられたこともある。だから、七海の言うことは、あまり理解をしてなくても、とりあえずは肯定することにしている。
「えー、ホントにそう思ってる?」
「思ってるさ、だからほら、さっさと行くぞ」
信号機はいつの間にか青色に点灯している。滅多に車も通らない道でこの信号機は、俺たちの安全を保障してくれている。
信号を渡り切った後すぐに、後ろのほうで車が停車をする音が聞こえた。七海のほうを見ると、いつも通りの表情とは別に、少しだけ満足気な表情を浮かべている。
――今日からはここの信号も守ろうと、なんとなく、ぼんやりと、そう思った。
拝読いただきありがとうございます。