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 壁際にある古柿の木の棚が音を立てて揺れた。

 視界の端。

 棚の中から、ひどくゆっくりと黒い箱が宙に浮いて出てくる。


 旦那様が触れることを禁じ、触った私は童の姿になってしまった元凶の手箱だ。


 黒漆の手箱は、微かな音とともに床に着地した。同時にかたかたと蓋が持ち上がり、中から金色の光が溢れてくる。部屋を満たす光は眩しく、私は思わず両目を閉じた。閉じていても、瞼の裏が真っ白くなるほどの強い光だった。

 部屋の空気の密度が徐々に濃くなり、息をするのも苦しくなる。首を吊るためにのばした腕に、力が入らない。圧のせいで、指一本も動かせない。

 そんな中。声が、聞こえた。

「燈七、早まらないでください。私はそう簡単には死なないと言ったではないですか」

 その穏やかな声を聞いた途端。

 足の力が抜け、私は台の上から転げ落ちた。まぶたを射す光を堪えながら、必死に地面をかいて目を開ける。

 

 腰を抜かした。

 手箱から射す光を背にして、巨大な龍の影がとぐろを巻いて部屋の中を埋めていたのだ。


 眩しさはやがて収まった。

 光の衝撃に目を瞬かせるうち、いつの間にか、いつもの藤色の着流し姿の旦那様が、目の前で膝をついていた。

「だ……旦那、様?」

「ただいま、燈七」

 旦那様がにこりと笑う。いつもの、涼し気で端正な美貌。

 顎が外れそうな上に、心臓が止まりそうだ。

 私は今、ちゃんと息ができているのかしら。とっくに死んで、夢でも見ているのかしら。いや、死んだら夢を見るどころじゃない。

「少し驚かせてしまいましたね。まさか鏡を覗いているとは思わなくて」

 足に力が入らない私へ、旦那様の腕が伸びる。子供の身体が、大人の身体にすっぽりと包まれ、抱きしめられる。

 生まれたての水の匂い。滑らかな頬。肩にかかる銀色の髪。背中と頭に回された腕の力強さ。耳元で聞こえる密やかな声。

「大丈夫ですよ、燈七。私はここにいます」

 耳に直接吹き込まれるその声に。

 心の中にせき止めていた水が、勢いよく溢れだした気がした。

 私は声を出して泣いた。

 彼は今、ここにいる。死んでない。生きてる。熱を感じる。あなたがいる世界で、また共に生きられる。私は、この世に一人ぼっちじゃない。

 私は旦那様の肩に顔をうずめ、皺になるくらい着物を握りしめる。

「心の臓が、壊れたかと思いました……!」

「すみません」

「旦那様がいなくなったら、私……」

「すみません」

 声は笑みを含んでいて、少しも悪かったと思っていない風だ。文句を言いたくて、でも言葉にならなくて、ぼろぼろと涙が零れる。

「い、痛かったでしょう。あんなに雁字搦めにされて……刃物で……血が……」

 私はしゃくりあげながら旦那様の頬に手を当てる。その温かさに、誰に感謝すればいいのかわからない。滑らかな頬は、さっき見た光景が嘘みたいだ。

 仮面なしで久々に間近に見た旦那様は、変わらず気品に溢れ、綺麗だ。長いまつげがゆっくりと上下し、その奥にある青い瞳が強く輝いている。額にかかる黒髪をそっと耳にかけると、くすぐったそうに薄い唇がたわんだ。

 目を細めた旦那様が、こつんと額をくっつけてくれる。その日常のふれあいに安堵し、強張っていた頬の筋肉が少し緩んだ。


「伯朗は、どうなるのですか」

 固い声が聞こえた。見ると、和来が白くなるほど両手を握りしめ、仁王立ちしてこちらを睨んでいた。

 旦那様は私から体を離し、立ち上がると、和来に向き直った。

「私の血を浴びた者は、徐々に体が石となり、意識あるまま自然の欠片となるでしょう」

 重い、重い言葉だ。和来の顔面が蒼白になる。しかし、

「でも、それはあなたが雨を降らせたからでしょう。伯朗に責任はないはず……!」

 食ってかかるその様は、怖いくらいに真剣だった。相手が神様であることに躊躇していない。

 旦那様もまた、まっすぐに和来を見返した。

「何故、我々が龍帝様を丁重にお迎えするのか、理由は聞きましたか」

 唐突な問いに和来は眉をひそめ、首を振る。旦那様は小さく息をこぼした。

「龍を統べる龍帝様は、我々龍の裁定者でもあります」

「……それが?」

「龍帝様は、龍の土地に永遠の旱魃をもたらす力のあるお方。龍帝様に逆らう者は、我々神であっても許されないのです」

 旦那様の口調は静かだった。相手をねじ伏せるわけでもなく、説得しようとするでもなく、淡々と事実のみを説明する。

「龍帝祭はその龍帝様に我々が服従を示す祭り。準備のために私が天地を行き来することで発生する長雨は、龍帝様の怒りを買わぬために必要なことなのです。それが、地上の繁栄をもたらすことの第一条件ですから。永劫の旱魃が、人だけでなく生きとし生けるものすべてに影響をもたらすこと、賢いあなたなら理解できるでしょう」

「じゃあ、長雨を我慢しろっていうの? 今年も去年も、長雨で稲も野菜も育たないのに?」

「私は紫之湖を守る神として、その水がいきわたるすべての土地の、千年の繁栄を望みます」

「長い目で見れば、一年や二年の苦しみは、たいしたことではないと?」

 和来のあえぐような声に、旦那様は是とも否とも答えなかった。


 祭囃子が聞こえる。調子はずれの練習曲。外に吹く風は藤の色をしているだろうか。

 

 和来がいきなり地面に膝をついた。そして両手を前に置き、額を床にこすりつける。

「伯朗は私の恋人でした」

 その告白に、私は思わず旦那様の着物の裾をつかむ。

「あの人はきっと、人柱になった私の為に怒ってくれた……。どうか、彼の罪を軽くしてください。私の命を差し上げます。私はどうなってもいい。でも、あの人が石になってずっと苦しむなんて、そんなの耐えられません……!」

 肩が震え、まっすぐに揃えていた細い指は、行き場のない思いを押しとどめるかのように、じわじわときつく結ばれていく。

 私とは違い、和来は声に出しては泣けない人だ。きっと今、彼女の体の中には吐きだし口のない激流が、暴れ回っている。それは愛しい者を思うが故、なお苦しく。

 和来は意地悪な人。

 大嫌いとまで言われた。

 この姿になったきっかけも彼女だ。でも。

 私は和来の隣に跪き、両手を床につけ龍神様を仰ぎ見た。

「和来には、折り紙を折る仕事があります。この人にはすごく腹が立つけれど、頭がいいから、きっとたくさん折れると思います。その働きに報いる術はないでしょうか」

 出過ぎた真似は承知。旦那様の決定に口を出すなんて身の程知らずもいいところだ。

 ただ私は、彼女が己の身を嘆く理由も、愛しい相手を想う覚悟も、わかる。わかるから、頭を下げて希う。聞き入れてもらえるかどうかは別として。

 勢いよく私を見た和来は、何度も口を開いたり閉じたりした。けれど結局、意味ある言葉は出てこなかった。その目の縁は赤く、頬は震えていて、表情は悔しそうにも、泣き出しそうにも見えた。

 旦那様は無表情のまま私を見た。そしてふっと視線を窓の外へ向ける。

 しばらくして、

「……龍帝様に満足していただくもてなしができたら、あなたの記憶はこのままに、伯朗の元へ返してあげましょう。記憶があり、尚且つ伯朗の側にいられることが、余計に苦しむことにつながるかもしれませんが」

 和来が息をのむ。ただし、と間髪入れずに旦那様は続けた。

「あなたが今後、私の屋敷に踏み入れることは許しません。龍の呪いもそのままです。共に生きる術を、見つけて生きていきなさい」

 淡々とした声に感情はない。それでも。

「寛大なお計らい、ありがとうございます!」

 床に額を押し付けた和来の声は湿っていて。

 揃えた両手が震えていたのが印象的だった。



次回で終わりです。

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