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 龍帝祭まであと五日。子供の姿になって三日目の朝。旦那様は再び天へ昇っている。

 水の神である旦那様が異界から地上へ、そして天へと昇る度に、地上には雨が降る。龍帝様に失礼がないよう準備のためとはいえ、地上に暮らす人々は長雨で大変だ。

 私は決意した。

 無断で黒漆の手箱に触れたことを、旦那様に正直に打ち明けよう、と。

 ものすごく今更だけど、龍帝様御一行が来たら、どうせ隠れているわけにはいかない。何より。旦那様が近づくたびに心臓が縮み上がるのは、もうたくさんだ。たとえお叱りを受け、どんな罰が下されようとも、それは私が蒔いた種。全部受けとめる。

 一人頷き、宴会に使う朱塗りの膳をひたすら拭く。薄暗い十二畳の部屋には高足の膳が山と積まれている。これ、龍帝祭までに終わるのかな……。

 少し不安になったとき、ふと、後ろから甘ったるい声がかかった。

「阿登、一人で大変でしょ。和来さんがどこかに行ってるようだから、手伝うわ」

 揃いの着物。頭に猫耳。二股にわかれた尻尾。女中さん達だ。五人もいる。助かる! 

 急いで頷くと、ちょうど休憩中だという皆はてきぱきと作業を開始した。

 彼女達の少々着崩した着物姿は、下品ではなく色っぽい。彼女達をお手本に、以前、試しに着崩してみたことがあるんだけど……ひと目見た旦那様に絶句された。あの、表情の乏しい旦那様が目を見開いていて……どういう意味ですか、とは問えないまま、とりあえず二度としないと心に誓った。

 気心の知れた仲間はお喋りも弾む。どこの誰が浮気しただの、あそこの魚が美味かっただの。それから。

「人って、奥方様みたいなのほほんとした方ばかりなんだろうと思っていたけど、和来さんみたいに近寄りがたい人もいるのねえ」

 一人が拭いた膳を積み上げながら笑う。

「奥方様は特殊よ。屋敷守と台所で盗み食いして旦那様に見つかるなんて、前代未聞」

「旦那様の腹を抱えて笑った姿、初めて見た」

 わ、私も始めて見ました……。弁解すると、盗食事件はこちらの屋敷に来たばかりの頃のことだ。今はそんなことしない!

「微笑んでるか無表情かの二択だもんね。旦那様も怒ることって、あるのかしら」

「龍の逆鱗っていうでしょ。ああいう普段おとなしい人ほど怒ると怖いのよ。まあ、奥方様なら逆鱗なんて気づかずに触れそうだけど」

「あんた失礼ね。でもまあ奥方様って面白いし、なんだかんだ、お二人は幸せでいてほしいわね」

 嬉しい。そう言ってくれる人がいるって。頬が緩む。

「奥方様、最近姿を見ないけれど元気かしら。邪魔になったらいけないから様子伺いもできないけど、折り紙に根を詰めすぎて体を壊さないといいわね」

「そういえば和来さん、奥方様の部屋に誰も近づけようとしないのよ。常に不機嫌だし、阿登はよくあの人の下で我慢できるわね」

「龍帝祭は料理や宿泊準備で皆手一杯でしょ。普段の仕事は後回しになってしまうから、正直、阿登が色々と手伝ってくれて助かるわ」

 皆が頷きながら私に色っぽい流し目をくれる。私はぺこりと頭を下げた。

 でも。私の仕事は和来に命じられたもの。本当は、初めての異界、初めての龍帝祭で、今何をすべきか、何ができるかを判断できる和来の方がすごいのだ。私に丸投げだけど。

「旦那様のお帰りは?」

「今日の昼頃って屋敷守が言ってたわ」

 ぽんぽん話題が飛びながらも、綺麗になったお膳が積み上がっていく。さすが、早い。

「和来さんが来てから、ちっとも奥方様と遊べやしない。つまんないわ」

「奥方様が必死に働いてるのに、何言ってんの。折り紙はうちの屋敷の目玉って知ってるでしょう」

「遠くの龍帝様より近くの奥方様よ。それに、奥方様の部屋のお菓子は旦那様が特別に用意したものばかりだから、美味しいの」

「それが目当てね、罰当たり」

「阿登ちゃん。和来さんに当たられて、辛かったら言ってね。和来さんにガツンと言うから。屋敷守が」

『屋敷守が!』

 真剣な口調の一人に、残りの四人が爆笑した。私も仮面の中で声を殺して笑う。

 こんなに和やかな時間は久しぶりだ。

 ふと。この三日間、己のことばかりに捕らわれていたんだな、と気付く。

 私が気づかなかっただけで、私のことを心配してくれる人がいる。

 それを知って、なんだか肩の力が抜けた気分だ。

 ありがとう、と心底思った。私も皆を大事にするから、これからもよろしくね、と思った。


 もうすぐ昼という頃に、五人は仕事があるからと部屋を出て行った。磨く膳はまだたくさんある。一日では終わらない量に、ひとまず私は旦那様の部屋を目指した。

 さっきの話では、もうじき旦那様が帰ってくる。そのときに正直に謝るのだ。

 旦那様の帰宅時には使用人一同でお出迎えをするのが習わしで、破ると屋敷守に叱られる。だけど、今回ばかりは目をつぶってもらおう。

 すれ違う使用人に頭を下げつつ先を急ぎ、部屋の戸に手をかけ、開けて驚いた。


 藤柄の着物に艶やかな黒髪。和来がいる。

 その手には、銀色の手鏡が握られていた。


「何をしているの!」

 とっさに駆け寄って、鏡を奪い返した。和来は少しの動揺もなく、ガラス玉のような目で私を見下ろす。

「ちょっと見ていただけよ」

「この部屋に入ることは、あなたには許されていない。出て行きなさい」

 私の言葉に、和来は煩わしそうに顔を顰めた。ものすごくうるさい蠅にたかられてる、みたいな顔。

 瞬間的に頭に血が上った。

 お面が邪魔だ。ここには和来しかいない。

 私は頭の後ろで結んだ紐を解いた。三日ぶりに新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込む。

 私は和来を睨みつけた。

「屋敷の主の妻として、あなたにはしばらく使用人部屋から出ないことを命じます」

「ちょっと待ってよ、狭量ね。減るものでもないし、もう少し鏡を見せてちょうだい」

 彼女は少しの躊躇もなく、私の腕から鏡を奪い取った。

 し、信じられない……! 

 頭が真っ白になって、反射的に私は和来を突き飛ばしていた。よろけた和来は即座に私を突き飛ばし返す。私は地面に尻餅をつく。

 和来の嘲るような声が降ってきた。

「あなたはいいわよ。こんなに豪華な屋敷でちやほやされて。私なんて、川に放り込まれたのよ。目覚めたらこんな平和ボケした阿呆の巣窟。うんざりするわ」

「あ、阿呆共の巣窟……」

 思わず繰り返してしまった。和来は構わずに続ける。

「生きてる間は、食うや食わずの極貧生活。挙句が、長雨のせいで濁流渦巻く暴れ川に投げ込まれる、治水祈願の人柱よ。私が一体何をしたっていうの。何の罪を犯して、こんなところにいなきゃいけないの」

 彼女の顔は能面のようだ。和来は、取られまいとするかのように鏡を胸に抱きしめた。

 地上の長雨は、旦那様が龍帝祭のために天に昇るからだ。それは龍帝祭がある数年から数十年おきに繰り返される。

 私は立ち上がり、慎重に言葉を探す。

「和来は何も悪くない。長雨が人にとって負担になることは重々承知。だから人柱となった方々は、屋敷に招いて龍帝祭後に地上に帰すって、説明したわよね」

「ええ、記憶を抜いて、遠くの村へってね。そんなの、二度と目覚めない方がマシよ」

 今まで、和来が感情を露わにしたところなんて見たことがなかった。この屋敷で初めて目覚めた朝でさえ感情が凪いでいた彼女の目は今や血走り、綺麗に整えられていた髪がはらりと額にかかっている。

 絶望と悔しさ。きっとずっと胸に押し込めて、一人で苦しんできたんだろう。今まで屋敷に来た人柱の誰よりも、彼女は頑固で、強く見せるのが上手いから。

「でも、和来がそのまま元の村に戻ったら、龍神様に治水祈願が届かなかったと、村からひどい扱いを受けてしまう」

「私の為だって恩着せがましく言うつもり? 私がいつ救けを求めたの。村でもここでも、私一人なんてどうにでもできるって軽くあしらって……」

 和来は悔し気に吐き捨てた。そう言いながら抱きしめた鏡を放さないのは、人の世に未練があるからではないだろうか。

 彼女の人生は同情する。彼女に才気があるのは共に過ごして理解してる。意地悪をされて嫌な気持ちになりつつ嫌いになれないのは、その才覚を尊敬してしまうからだ。

 でも。同情ときまりを混同してはいけない。

 深呼吸をして、私は和来を見上げた。

「和来がどうにでもできる相手なら、とっくに折り紙を一緒に折ってもらってるわ」

「残念ね。今回の龍帝祭の人柱は、役立たずのはずれを引いたって思っているんでしょ」

 和来が鼻で笑うので、私も笑い返した。

「それは別に。人柱がない年もあるし。まあ、和来って意外と腹にため込む質なんだなあ、とは思ってるけど」

 じろりと私を睨む和来。怖くなんかない。

「でもね。あなたがままならない人生に悩むことと、旦那様の部屋に無断で入って無断で鏡に触れたことは、別の問題よ」

「……」

「自分が苦しいから何をしてもいい? 私に言わせればそれは、自己憐憫を言い訳にした単なる駄々っ子の我儘よ」

 和来の手が振り下ろされた。私はそれを両手で受ける。和来の手は震えていた。

「知った風な口をきかないで。誰からも守られて、ぬくぬくと生きてるくせに」

 違う、私なんて……そう言いかけて、口を噤む。不幸自慢をしたいわけじゃない。

「私、あなたが大嫌い」

 はっきりと言われて奥歯を噛む。出会う人すべてと仲良くなれるとは思ってないけど、嫌われたいと思っているわけでもないから。

 再び手が伸びてきた。私はそれを跳ね返す。

 戦いは始まった。


 和来は私が届かないように、鏡を右手に高く掲げて自由に動けない。私は和来ほど力がない。決定打がない私達は、叩いたり蹴ったり、地味に衝撃を受け続ける。

 和来が私の顔を押しやって、私は彼女の脛を蹴って、睨みあう互いの息が上がった後、一瞬の隙をついて、私は和来に体当たりした。

 和来の手から、鏡が滑り落ちる。

 床に落としたら、割れる! 

 私はとっさに手を伸ばし、それは和来も同じだった。

 私達は鏡が床に落ちる寸前に、頭から床に突っ込み、鏡を掴んだ。腹ばいのまま、無事を確認しようと鏡を覗き込んだ私は、次の瞬間、息を飲む。

 

 鏡に映るのは、太い縄と大量の札でがんじがらめにされた、青い鱗の美しい龍。

 厚い雲と雨の降る暗い湖。

 その縁に立ち、龍を前にしたぼろをまとった人々。

 

 二十人以上いる人の中から、若い男が進み出てきた。黒い鉈を手にしている。

『長雨のせいで作物は育たず、川は決壊した』

 痩せた青年は龍の前に立ち、訴える。

『何日も祈祷し、人柱も差し出した。それなのに、未だ雨はやまない。我々の何が不満だ、水の神よ!』

 湖を打つ雨の音が激しくなった。ややして。

『神を手にかけるか』

 厳かな声。頭の中に直接流し込まれるかのような、聞くことを拒否することはできない声だ。明らかに人のものではないその音に、後ろで見ていた人々が狼狽える。

『我々を苦しめる者は神ではない。物の怪だ』

 青年はそう吐き捨てると、後ろを振り返った。人の輪の中から、武器を手にした男達が近づいてくる。しかし雷光が空を駆けると、すぐに歩みを止めた。

 青年は感情のない目でそれを見やり、再び龍に対峙する。

『ここで、すべてを終わらせる。覚悟しろ』

 古びた鉈は躊躇いなく、吸い込まれるように龍の喉元へ延びていった。

『神殺しの罪、報いを受けよ……!』

 世界を白に塗りつぶす雷光と共に、龍の咆哮が響き渡った。

(はく)(ろう)!」

 和来が叫んだ。私は瞬きもできずに、鏡の中の光景を見つめた。

 

 (やいば)の刺さった龍の首が、がくりと落ちる。

 龍神様が。旦那様が、死んだ。

 

 私は鏡から手を放し、立ち上がった。

 着物の袖をとめていた橙色の紐を解き、大きな輪っかと小さな輪っかを一つずつ作る。

 和来の「何をしているの」という問いかけにも、頭がぼんやりとして答えられない。

 ただ、体はやるべきことを覚えていて、部屋の隅にあった台を引きずって上り、小さな輪っかを梁の出っ張りにかけた。

 紐の強度を確かめる。固く、もっと固く結ばなければ、結び目が解けてしまう。

「あの、ちょっと……」

 和来の声。でも気にならない。

 旦那様のいない世界で息をしている意味なんてない。全部、旦那様と一緒がいい。

 

 その時だった。

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