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「そこにいるのは、阿登ですか」


 ふと、涼しげな声が聞こえた。私は反射的に立ち上がる。旦那様がゆったりとした足取りでこちらに近づいてくるところだった。

 陽光を受けた髪が風を受けて広がる様は、白鷺が羽を広げているかのよう。藤色の着流しは旦那様の好む装いで、凛とした佇まいにはいつだって目を奪われる。

 思い切り動揺した。昨日の玄関の比じゃないくらい。

「どうかしましたか?」

 旦那様が屈んで、何も言わない私と視線を合わせてくれた。

 でも、私は正体がばれてしまうのが怖くて。

 旦那様に失望され、見放されるのが怖くて。

 後ずさりをし、後ろのポンプに背が当たる。両手を後ろに隠したのは、無意識だった。

 首を傾げた旦那様は、私の背中を覗き込む。すぐそばにある乾いた絹の感触と、旦那様の纏う香りに、私は体が硬直し逃げ出すこともできない。

「真っ赤ですね。痛めたのですか」

 彼は穏やかにそう言って、そっと私の両手を包んだ。つり上がり気味の目が、少しだけ細められる。乾いた大きな手の触れる感触に、そういう場合じゃないのに私はどきりとしてしまった。

「どこかを悪くしたら言ってください。すぐに手当てしますから」

 そう言いながら包まれたてのひらは、温石を当てたかのように、次第にぽかぽかしてきた。そして次に旦那様が手を放すとそこにはもう、潰れたマメも、赤くなった手もなかった。思わずまじまじと紅葉のような両手を見つめる。旦那様、すごい。


「お昼ご飯は食べましたか」

 問いかけと同時に、急な浮遊感が襲う。気づくと足が宙に浮いていた。とっさに目の前の着物を掴む。右腕一本で抱き上げられたとわかり、私は反射的に身をよじった。これでは駆けて逃げることができない。でも、体に回った旦那様の腕はびくともしなかった。優男に見えてそこは神様。神通力だけじゃなく、物理的な力もあるんだった…。

「私はまだ食べていないのです。一人では寂しいので、ついてきてくれませんか」

 長いまつげが上下する。間近にある旦那様の上目遣いに、くらくらする。

 でも、一瞬やるべきことが頭を掠め、浮き立った気持ちはすぐにぺしゃんこになった。

「まだ廊下拭きが……」

 ごくごく小さく作った低い声を絞り出す。

 和来の言いつけは絶対だと思っているわけじゃない。ただ、与えられた役割をこなす重要さは身に染みているだけだ。集団で生活するとき、自分の居場所は、自分の役割をこなした時にようやく作れるってわかってるから。仕事もせずに旦那様と遊んでいる下働きの童なんて、すぐに屋敷の誰からも相手にしてもらえなくなるだろう。

「後で私も手伝います。いいでしょう?」

 旦那様の甘い囁き声。まるで、妻の燈七に話しかけてるみたい。でも、頷くわけにはいかない。旦那様に廊下拭きなんてさせられないし。

「では屋敷の当主として命令します。阿登は私と一緒に昼食をとること。さあ、行きましょう」

 あっさりと言い切ると、私の反論なんて知らんぷりしてさっさと歩きだす。

 本当に、美しい人は強引だ。でも、弾む胸はどうしようもなく、私は旦那様にしがみつく指の力を強くした。


 琥珀色の提灯。紅色の凧。初雪色の団扇に、瑠璃色の空。広大な屋敷の周りにはずらりと屋台が並び、旦那様の紋章である藤の花の房が、あちらこちらで風に吹かれている。幾重にも屋台が並んだ更に向こうにはいつも通り、水を張った地面が見渡す限りに続いていた。水平線が見える水面は、姿を隠すことなく常に正々堂々、水神の領域に足を踏み入れることを約束している。

 龍帝祭では御一行様の落とす富を目当てに、大勢の異界の者が集まる。今も通りは大賑わいだ。

 すれ違う者は、人型、動物、形を持たぬ影や靄、それから異形、といろいろいる。更に、ごちゃ混ぜになった匂いと、どこからともなく流れてくる音楽の刺激により、時折、頭の中をかき回されるような気分になる。珍しい物、見たことのない物が九割で、極彩色に目がくらむこともしばしば。

 それでも気持ちが浮き立つのは、数年または数十年に一度の祭りだからだ。平穏な生活もいいけれど、騒がしい時も時々必要。

 旦那様に直接喋りかけてくる者はない。ただ、混みあった場所でも彼が近づけば、誰もが道を開ける。後ろを向いていても、誰かと話していても、無意識のうちに。


「いつもは」

 昼食にいい店を選びながら、ふと旦那様の声が聞こえた。

「燈七が見たもの、聞いたものをよく喋ってくれるので、会話に困らないのですが」

 旦那様が眉をハの字にして、片腕に抱いたままの私を見上げてくる。沈黙なんて、気にしなくていいのに。

「燈七は喜怒哀楽がはっきりしていて、びっくり箱のようなのです。私はあまり感情が動く方ではないので、彼女が教えてくれる様々なことに心動かされるのが、正直楽しい」

 僅かに上がった口角に、私の頬は熱くなる。だ、旦那様ったら。子供相手に、何を惚気ているのかしら。

「仲がいいですな、奥方に言いつけますぞ」

 どこからか、下卑た笑い声が聞こえた。むっとする。旦那様が浮気してるみたいな言い方だ。しかし当の旦那様は気にするな、と言うように抱いた腕で私の体をゆすった。

 ああ、元の姿なら。旦那様の妻として堂々と隣を歩けるのに。言いつけを破って手箱に触れた己の愚かさにひどく落ち込む。和来にのせられたとはいえ、冷静じゃなかった私が悪い。

 自己嫌悪の塊と化した私の肩を、誰かが叩いた。

 顔を上げると羆頭の大男。梅の実よりも小さな、棒付きの金色の金魚が目の前に差し出される。後ろにあるのは、飴細工の屋台だ。

「贈り物だそうです。受け取ってほしい、と」

 旦那様が言葉を添えてくれる。何も言わずに差し出された飴を、私はおずおずと受け取った。

「ありがとう、ございます」

 小さな声だったけれど、黒目ばかりの大男は満足そうに頷いて、屋台の中へ帰って行った。

 旦那様がふふ、と笑った。「お礼を言えて偉い」と言っているようで、私はなんだかくすぐったかった。子供じゃないのに。


 歩きつつ、旦那様は人でごった返す店に入るのを諦めて、あれこれと買い食いをすることにしたようだ。私にもいろいろと差し出してくれたけれど、緊張して少ししか食べられなかった。

 旦那様の着物から漂う藤の甘い香りにほっとする。あちこちで風に揺れる紫色の花房は幻想的で、いつも以上にここが異界だと教えていた。

「屋敷守が、阿登は頑張り屋だと褒めていました。燈七と同じですね」

 雑踏の中、元がよくわからないものを食べ続けて満足した旦那様が、楽しそうに口を開く。

「異界で人は珍しく、その孤独を推して知るのは難しい。ですが彼女は豊かな感情表現と心意気で、いつの間にかここに馴染んでいました。面白くて可愛くて、目が離せない人なんです」

 微笑した旦那様はふと立ち止まり、人でごった返す道の先を見つめた。

 どうしてこんなに褒めてくれるの? もしかして私の正体に気づいてる? いやでも、それならそうと言ってるよね。

 私はごくりと喉を鳴らした。さっき食べたイカモドキが体のどこかに引っかかったみたいに、苦しい。

 ……正直に話してしまおうか。でも……打ち明けて、失望の目を向けられたら。一瞬でも拒絶の表情が浮かんだら。想像しただけで、手が震える。涙が出る。

「阿登」

 私の名前はそれじゃない。旦那様の囁くような声に思わず首を振った。その時。

「誰かー! そいつを止めてくれー!」

 悲痛な叫び声が聞こえた。微小な地面の揺れが少しずつ大きくなって、それは屋台の角から姿を現した。

 熊が三頭は入れそうな大甕が、こちらに向かって勢いよく転がってくる。

 道行く者は右往左往し、悲鳴や屋台の物が壊れる音が響いてきた。道は決して狭くないのに、その甕の迫力は相当なものだ。

 旦那様は私を地面に下ろし、向かってくる大甕と対峙した。

 甕、対、人型の旦那様。どう考えても旦那様が潰される。私は必死に旦那様の着物の裾を引っ張った。けれど、彼の足は地面に根が生えたかのように動かない。ちょっと!

 地面を伝って体が震え、周囲の屋台ががたがたと揺れた。大甕は瞬く間に目前に迫る。

 轢かれて死ぬのなら旦那様と一緒がいい。覚悟を決めて、私は旦那様の腰にしがみついた。息を止め、衝撃に備える。……でも。

 唐突に音が止み、辺りは不気味なほどの静けさに支配された。少し遅れて、

「すみません! わっ、旦那様! 申し訳ない! そいつ、音楽に浮かれちまって!」

 慌てた男のだみ声が降ってきた。

 恐る恐る顔を上げる。息を切らし、頭を上下に振って謝っているのは、どう見ても四足歩行の黒い牛。牛の声に合わせて、がたごとと甕が鳴る。蓋代わりの布で中は見えないけど、嬉しそう、なのかな?

「浮かれるのは良いですが、皆に迷惑をかけないように」

「はい。荒らしたところには謝っておきます」

「それがいいですね」

 頭上で交わされる会話で、ことが終息したのがわかる。旦那様が大甕を止めてくださったんだ……。

 牛はお辞儀をしながら甕と共に元来た道を戻っていった。辺りは賑わいを取り戻し、ひときわ音楽が大きくなった。頭の内側に響く音だ。

 しがみついたままの私を、旦那様は再びひょいと抱え上げた。

「心配しなくとも大丈夫ですよ。私はそう簡単に死にはしませんから」

 そ、そうだよね。旦那様は神様なんだし、神通力があるんだった……私の心配なんて不要よね。

「強力な呪符を幾重にも受けたら、ただでは済まないかもしれませんが」

 飄々と言われ、安心が遠くなった。

 私は藤色の着物の襟を掴む。怖いことを言わないで、と主張するために。

「ふふ、冗談ですよ。びっくりさせてしまいましたね。食後には甘いものがいい。飴、まだ食べないのですか」

 言われて、右手に握りしめていた鼈甲色の存在を思い出した。今の私は物言わぬ狸。喋れない以上、旦那様を心配する言葉も吐けない。

 私はお説教を諦め、お面の下にくぐらせて、棒付き飴を口に含んだ。小さな金魚は甘くて、ほんのり薄荷の味がした。

「妻は金魚が好きなんです。ひらひらと泳ぐ様子がまるで、つかみどころのない私のようだと言って。龍の私を金魚と言ったのは、燈七くらいです」

 せめて鯉ですよね、と登龍門になぞらえて旦那様が珍しくため息を吐く。そ、そんなこと、言ったかしら。嫌だもう、変なことばっかり覚えてるんだから。

「それでも傍にいてほしいのだから、私もたいがい我が儘な神ですね」

 旦那様の睫毛が瞬く。陽の光を受け、それは蜘蛛の糸のように繊細に輝いていた。

 一陣の風が吹き、屋台に掲げられた藤の房が一斉に同じ方向へ靡いた。からからと、音を立てて近くの屋台の風車が回る。

 お面をかぶっていて、よかった。こんな真っ赤なお猿さんみたいな顔、見られたくない。

 胸が痛い。旦那様のことが好きすぎて苦しい。私の胸を裂いて見せることが出来たら、その気持ちばかりが詰まっていて、きっと旦那様は驚くに違いない。私が生きるために必要な相手は、旦那様しかいないのだ。

 私の想い人は、ふ、と吐息で笑った。

「今度、異界と地上とを繋ぐ、紫之湖(しのこ)に連れていってあげましょう。私の湖はこの世で一番美しいのですよ」

 美しい場所よりも、旦那様の傍がいい。

 そんなことを言えるはずもなく、私は抱きかかえられたまま、甘い金魚を味わった。


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