二
「和来、廊下拭きもあなたの仕事だっけ?」
「そうよ」
「あそこで兎が心配そうに見てるんだけど」
屋敷で働く使用人は基本的に人型をしている。その正体は動物から不明生物までと幅広い。花器を磨きながらこちらを見ている女中さんの頭には、長く伸びる白い耳。一度、触らせてもらったことがあるけど、柔らかくて温かくて、ちゃんと生き物の耳だった。
異界に来たばかりの頃、私は異形の姿に怯えてばかりいた。それを知った旦那様が、まじないをかけて皆を人型にしてくれたのだ。ここでの生活に慣れた今でも、それは何故か続いている。
「欄間のはたき掛けも畳掃きも、十日前に来たばかりの和来の仕事? 本当に?」
和来を見上げると、鼻で嗤われた。
「つべこべ言わない。皆、龍帝祭とやらで忙しいのよ」
そうだけど。
和来は顎に手を当てて、首を傾げた。
「龍神の中で一番偉い龍帝って、どれほどのもんなのかしら」
「冗談でも滅多なこと言わないで」
「あら、怖いの。手が止まってる。さっさと終わらせなさいよ。旦那様にも言われたでしょ。私の言うことをよく聞いてって」
自分は見てるだけのくせに、腹立つー。
長い廊下を今の姿で雑巾掛けすると、見慣れた屋敷が違って見える。どこもかしこも広く高く、薄暗い。ここに来たばかりの頃の心細さを思い出して、どこか不安になる。
そして、水を張った桶がある終着点には腕組みをした和来。どっと疲れる。
「和来の口車に乗せられたせいで、こうなったのに。手箱なんて触らなければよかった」
雑巾をゆすぎながら、ついぶつぶつと愚痴を呟いてしまった。
桶に映るのは、狸のお面をつけた童。動きやすいように着物の袖を紐でくくって裾も上げて、膝小僧が見えている。息苦しいお面の下では汗が流れ、拭いたいのに拭えない。
「自分の伴侶の言いつけを守らない、あなたの自業自得でしょ。まさか本当に箱に触れるとは思わなかった。私の方が驚いたわ」
柱に背を預けた和来がせせら笑う。むっ。
「絶対に嘘。最初から、挑発して私をはめるつもりだったでしょ」
私は桶に手をつっこんだまま、首が痛くなるくらい和来を見上げた。睨みつけたつもりだけど、お面のせいで見えてないのが悔しい。
「人聞きが悪いわね。ああ、旦那様の美しさに比べて、奥方はこんなちんちくりん。旦那様は選ぶ相手を間違えたんじゃないかしら」
懐から飴の袋を取り出した和来は、一粒取り出して口に放り込む。私の分は……うん、ないわよね。
「手箱の中身は、何だったのかしら」
指を舐めながら和来が呟く。
この人にかまってたら、不満が募るだけ。
私は腹の中で罵詈雑言を吐き散らしながら、雑巾を絞って立ち上がる。
「知らないわよ。私は今、まさに痛い目を見てるから、もう関わりたくない」
触れただけで罰を与える、特別なまじないがかけられていた手箱だ。余程の物が入っているに違いない。
誰にでも秘密はある。
だから旦那様の手箱の中身を気にしたことはないし、必要があれば言ってくれるだろう、くらいにしか思ったことがなかった。それは、間違いだったのだろうか。
……いやでも、中身がこ、恋文の可能性だってある、のか。
「箱の中身。き、気になるのなら調べたら?」
「それで童姿にされちゃたまらないわ。あなたよく我慢できるわね」
「あんたのせいでしょー!」
間髪入れずに返ってきたとぼけ声に、思わず怒鳴ってしまった。
本っ当にこの人、性格悪い! それだから選ばれてここに来たんじゃないかしら!
しかし、歯ぎしりする私など眼中にない和来は、さっさと別の話題に移る。
「そういえば、旦那様の文机の上に白銀の鏡があったようだけど」
「旦那様の部屋に入ったの?」
ぎょっとした。部屋に入るのを許されているのは、私を含めて数名しかいない。文机は衝立の向こうにあり、入口からは死角になっているはずだ。
和来は呆れたように(馬鹿にしたようにとも言う)首を振って、
「頭を打って忘れたの? それとも覚えが悪いの? 倒れたあなたを介抱するときに、部屋に入って見えたのよ。旦那様ったら、自分の顔を鑑賞する趣味でもあるのかしらって」
……皮肉はともかく、なるほど。
「あれは人の世を見ることができる鏡よ。言っておくけど、売ろうとか考えないでね。龍の宝物の一つなんだから」
「あんな立派な物、すぐに足がつきそう。あなたじゃあるまいし、下手は打たないわ」
和来の言葉には常に裏がある。頭の回転と喋りの上手さでは負けるけど、直感は負けてないと思う。
「足がつかなかったら、売るってこと?」
「この異界から抜け出せるなら、そうするかもね。兎さん達ー、美味しい飴をいただいたの。おやつにしましょ」
後半、女中さん達に呼びかけながら、和来は廊下の向こうへ消えてしまった。振り返り、「さっさと終わらせないと、旦那様に正体ばらすわよ」と言うのも忘れずに。
うう、悔しい。でも。この姿になったのも自業自得。頑張るしかない。
お日様が真上を通り過ぎた頃。
ひと気のない屋敷の裏、青銅の手押しポンプに背を預け、私はずるずるとしゃがみこんだ。
元凶は、全体重をかけて押さねばならない汲上げ式のポンプ。息を切らして押した三度目に、てのひらにできたマメが潰れた。傷口と摩擦で赤くなった手に水が染み、痛みでこれ以上ポンプを押す気力がなくなった。
昨日は折り紙を折る暇もなかった。
龍帝様とその御一行様は、人の匂いがついた物を好まれる。だから人である私は、花や虫の形の折り紙を折って、彼らをもてなすのだ。和来にも頼んだら、初日に「そういうことはしない」と宣言されてしまい、今日に至る。
今日は靴箱の掃除。それが終わったら廊下拭き。その間、和来以外の使用人の頼まれごとをこなし、あっという間に昼を過ぎた。
見知った使用人達も、当然私が私だと知らない。見た目は十にもならない子供、童よ、と可愛がってはくれるけれど、以前の親しみは感じられず、寂しい。
夜もよく眠れない。元の部屋を使うわけにもいかず、使用人部屋の端っこで横になるものの、隣の人のいびきで目が覚めてしまう。
せめて旦那様に会いたくとも、この姿では近づくこともできない。
彼は私がいないことに気づいているのかな。気づいていたら探すだろうから、忙しくてそんな余裕はないのかも。龍帝祭は互いに忙しくて、すれ違いの生活になるのはいつものことだもの。
私は両足を抱え込んだ。
もう嫌。お面なんて捨ててしまいたい。今までの生活に戻りたい。和来なんてどこか遠くに行けばいいのに。異界に来て、緩やかに年を取るようになった私よりずっと年下なのに、屋敷の中をふらふらして意地悪ばかり。
……ああ駄目だ。
こんな不平不満、高潔な旦那様の妻として、正しくない。
自業自得の出来事に蓋をして、自分ばかりが可哀想だと思ってる。……でも。
でも。
じわじわと、視界がぼやけていく。
息苦しさに、小さく喘いだ。その時。
「そこにいるのは、阿登ですか」