一
「お帰りなさいませ、旦那様!」
皆が一斉に頭を垂れた。
藤柄の着物姿の使用人達は、人が『物の怪』と呼ぶ者達だ。列の最後尾に並んだ私も、それに倣う。岩造りの玄関は巨大で、使用人が百人並んでもまだ空間に余裕がある。
静寂の中、草履を脱いだ屋敷の主の足音が聞こえてくる。
「ただいま帰りました。変わったことはありませんでしたか」
よく通る優しい声。甘く低いそれは、いつだって私の心を揺さぶるのだ。
留守居を任された屋敷守の「はい、何も。旦那様もお勤めご苦労様でございます」というしわがれた声が聞こえた。私は俯いたまま、震える両手を必死に押さえた。
旦那様は、水の神である龍神様だ。
すっと伸びた背筋。雪の結晶を解いて編んだかのような銀色の長い髪。切れ長の目元に、瞳は青空よりもっと深い青。整いすぎて冷たくも見える表情は、薄い唇を少し上げただけでとても優しくなる。
「燈七の姿がありませんね」
床を擦る足袋の音がゆっくりになり、旦那様が周囲を見回したのがわかった。
心の臓が跳ね、両手にじわりと汗が滲む。
いつもなら私は旦那様の妻として、玄関正面でお迎えしているはずなのだ。
隣の空気が動いて、私付きの侍女、和来が前に進み出た。
「奥方様は昨夜、遅くまで龍帝祭のための折り紙を折っており、今はお休みになっているところです」
よし、打ち合わせ通り。龍帝祭で私が折り紙を折るのは、ここにいる誰だって知っている。
一度止まった旦那様の足音が、こちらに近づいてきた。
「そうですか。ところで、そこの狸のお面の童は?」
問いかけに、思い切り肩が揺れた。
自分でもどうかと思う動揺の仕方だったけれど、体が言うことをきかなかったのだ。私は更に深く頭を下げる。後頭部で結んだ赤い組み紐が、背中で揺れる気配がした。
私が子供の姿になった上、狸のお面をかぶることになった理由。
発端は、私の隣に立つこの和来だった。
十七歳の彼女は、十日前にこちらの異界に来たばかり。現状この屋敷で、私を含めて二人目の人間だ。一つに結んだ黒髪が艶やかに光る器量よし。私なんか、背が低くて童顔で……ま、まあ、旦那様は可愛いって言ってくれてるから、問題はない。和来の外見が羨ましい、とは思っちゃうけど。
しかしながら。
彼女は煮ても焼いても食えない性格で、今までの私の侍女の中で一番意地悪。それはもうお化け瓜級。十日の間にそれを熟知していたはず、なのに。
『いくら触れるなって言われても、あなた、奥方様でしょ。夫婦の間に秘密があるなんて信じられない。信頼されてないんじゃない?』
『そ、そんなことない、と思う』
黒漆に金の蒔絵、藤の蔓。その奥に飛翔する龍の螺鈿が施された豪奢な手箱。旦那様の部屋にあって、何人たりとも触れることを禁じられている箱だ。もちろん、私も。
この屋敷で禁止されていることを、世間話のついでに聞かれたことが始まりだった。ほら、人が二人集まれば、何やかにやと話が始まるでしょ? そういう、こと、だった、んだけど……旦那様の部屋への入室が許可されていない使用人に、聞かれたからって旦那様の大事な物の話をするなんて、迂闊と言われたらそれまでだって、分かってる。うう。
『箱の事は噂に聞いただけだけど、使用人に触るなと命じるのはともかく、あなたまで、となると……見せられない物でも入っているのかしら。誰かにあてた恋文とか』
『まさか。そんなことないわ』
『絶対って言いきれないでしょ。あなた、中身を見たこと、ないんだから』
『いいわよ、見てあげるわ。旦那様は私一筋なんだから!』
完璧に売り言葉に買い言葉。直後、にんまりと笑った和来が本当に憎らしい。
発言の撤回をしようものなら、再び舌禍が襲いくるのは目に見えていた。彼女には口では勝てないと身に染みているのだ。悲しいことに。
私は旦那様の部屋にて、黒漆の手箱に触れた。途端、全身に電流が流れたかのような衝撃を受け、意識を失った。そうして目覚めた時、私は八歳くらいの子供の姿になっていたのだ。最初はとても、信じられなかったわ。けれど、鏡を見たら現実を認めない訳にはいかなかった。
私を介抱し、子供用の赤い着物と間の抜けた狸のお面を用意してくれた和来が言うには、倒れた時には既にこの姿だったらしい。
旦那様の問いに、和来が答える。
「どこからともなく現れたんです。お面を外すのを嫌がるし、帰る場所もないようなので、しばらく私が面倒を見ようかと」
「わしは聞いておらぬぞ」
慌てたような屋敷守の声。走り寄ってくる音がする。
「この子はここに集まる直前に見つけたものですから、報告する暇がありませんでした。すみません」
いけしゃあしゃあと和来が謝る。真実を知っていながらこの堂々たる態度。何事も不器用な自分が、彼女と同じ『人』だなんてちょっと信じられない。
「あなたは、どこから来たのですか」
高い位置から聞こえていた声が、急に近くなった。視線を上げ、息を飲む。片膝をついた旦那様が、私の顔を覗き込んでいたのだ。
丸くくりぬいた視界の先に見える、端正な顔。
鑑賞に堪えうる無表情。
ああ、旦那様だ。
そう思って目が潤み……それだけは駄目だと、必死に眉間に力を込める。
顔を見たら。声を聞いたら。旦那様にはきっと、私が誰だかわかってしまう。そうしたら芋づる式に、手箱に触れたことを打ち明けなければならない。
私は。
言いつけも守れない、信頼に足らない妻よ、と裁定を下されるのが怖いのだ。
旦那様に失望されたくない。嫌われたくない。頭の中はそればっかり。
何も言えない私に目を細めると、旦那様は和来を見上げた。
「この子の名は」
「私の後ばかりついてくるから、阿登と」
え、と思わず顔を上げた。そんな変な名前、聞いてない。打ち合わせでは、綺羅星の綺羅がいいって言っておいたのに……私が反論できないと思って!
旦那様は軽く頷くと立ち上がった。屋敷守が後を引き継ぎ、私に向き直る。
「この方は龍神様であり、この屋敷の御当主様だ。今年はこちらに龍を統べる龍帝様の来訪があり、皆が忙しい。邪魔をしないように」
重々しい口調の屋敷守に、かぶせるように旦那様が口を開いた。
「和来の言うことをよく聞いて、できることを頑張ってください」
この身がどうなるかより、今度こそ旦那様の言いつけを守ろうと、私は強く頷いた。