りんご公園
とある篤志家が、趣味と慈善事業を両立させて、ある公園を作った。住宅街の中心の土地、数十世帯分の宅地を確保して、その中央に、どこの町にでもあるような小規模な公園をぽつり、と設置したのだ。
公園『りんご』。
それがその公園の名だ。ある日の深夜の間に僅か数時間でひっそりと作られたこの公園はすぐさま話題となった。
その篤志家が金を無駄に無駄に無駄に注ぎ込んで作った、マンアップルという、大人二人分くらいの全長の巨大化け物リンゴ。それは、とても硬々しくて、甘みはほぼなく、見掛けだけリンゴな出来損ないだった。が、その篤志家の目的通りであった。というのも、その篤志家は、そのリンゴを食用として作った訳ではないのだから。そして、その篤志家の目的は、その公園の出現によって明らかになった。
フェンスは赤色のリンゴの皮のような質感。土は殆どがリンゴのようなアイボリー、時々茶色。
滑り台は、リンゴの切り抜きでできていた。シーソは、切り分けられたリンゴの一片だった。砂場は、何だか、じめっとしていて、ほんのり甘い匂いがした。ブランコは、リンゴの皮でできていながら、人が乗っても直立していた。登り棒は、リンゴの中心を取り除いて芯と上辺と下辺を残したものだった。
と、色々凄かったが、一番凄かったのは、グローブジャングルだった。グローブジャングルというのは、ほら、あれだ、あれ。子供がその間を自由にくぐる、登ることのできる、半径数メートルの球体状金属格子。中心に通った軸が地面に刺さっており、その軸を中心にぐるぐる全体を回転させることが可能な遊具である。最近となってはあまり見られなくなった、今大人である世代の者たちにとっては結構馴染のある遊具である。
それが、まさに、リンゴの形を無駄なく完全に使い切った遊具だと、芸術家や、センス高い人たちや、意識高い系や、かっこいいものが好きな子供たちの間で話題となった。リンゴの形を曲げたり折ったりして変形させるのではなく、一つのリンゴの身を削ぐようなくりぬきによってそれはできているのだから。組み木構造、接着剤、溶接、それらの一切が見られない、まるで、木材の削り出しのような、そんな遊具。
そうして、日が登り、最初の子供が、その公園の存在に気付いた。そうして、そこはいよいよ、公の園、となった。
さて。何で全部、『た』で終わっているかと、どうしてこの私がそれで遊べていないか、だって? そんなもの決まっている。それは、一夜にして消え去ったからだ。
建造が終わって、その日訪れた子供たちに一日遊ばせてみて、そして、その日の夜。私はそれで思う存分に遊ぼうとした。兼ねてからの予定通り。夜の公園というのは、大人の時間、大人の遊び場だ。遊び心を忘れない、ちょい悪い大人の為の場所。そんなイメージ。たまに非合法。無論私はそういう悪いこととは縁なく合法であるが。
できてすぐ、所謂、オープン前にあたる、作成した者たち以外の手垢がついていない状態で遊ぶこともできただろう。だが、それはしたくなかった。
そんなもの、公園ではないではないか。公園というのは、公の園である。私一人のものであるときに遊んでも興醒めだ。公の物であるが、そこに偶々私だけしかいない。わざとでもいいから、そういう状態のときに遊んでこそ、意味がある。それに、公園は本来、子供の為の物だ。大人の為の物ではない。それを大人たちは知っているから、きっと、夜に、裏の公園として、公園は悪い、子供心の大人たちの社交場若しくは独断場になる訳なのだから。
別のその選択が間違っていたとは、今となっても微塵も思わない。近隣の子供たちや、一部の大人たちは、そこでの憩いを、笑顔で味わっていたのを私は遠望できたから。
唯、私の誤算は、近隣の子供や、一部の大人たち以上に、近隣の昆虫たちに、我が公園は大人気だったから、さ。それも、昆虫たちにとってのこの公園の価値は、凡そ一日遅れでほぼゼロから無視できないものへと上昇したのだ。
予想だにしなかった。私の作り出したリンゴ。まさか、その特性が、傷を受けた状態であること、幹から切り離された状態であること、太陽光を一日浴びること、この三つを満たすことで、あらゆる動物にとっての食用に足る特性、甘く柔らかな、蜜々しい成熟を果たす、だなんて、気付きようもなかったからだ。まぁ、これは、私の予想でしかないが、当たらずとも、遠からずというところだろう。できうる限り実験は繰り返していたからだ。このリンゴの他の活用法が無ければ、使い果たした金の回収などできはしないのだから。
それに、私の予想の一部というか、結果部分は、目の前に存在している。私が公園の近くを訪れると、公園は虫で覆われていた。黒と茶色を中心とした暗色系統のモザイク、稀に赤などの暖色混じりの蠢く絨毯……。
徹底的に人払いしていたことと、この公園の為の敷地を、公園部分の数十倍、周囲を囲うように無駄に広くとっておいたお蔭で、近隣の住宅には二次的被害が出ていないことを私は祈った。みすみす私の公園が昆虫たちの食料になることも見ているだけしかできない。
というのも、私は金使い切って破産したし、もう、再び作るなんてこともできはしない。だが、できたら一度、それらに満足いくまで浸りたかった。人を超えるサイズの巨大サイズの、蜜味リンゴに埋もれ、限界まで貪り続けてみるというのも、なかなかに楽しそうだ。
残ったのは、誰のものでもない昆虫たち。……。それすら残らないらしい。それらはそこにあった食料を貪り尽くしたことを認識したようで、一斉に何処かしらに飛び去っていく。次の獲物でも見つけたのだろうか。何れにせよ、羨ましいものだ。私には、もうそういう翼は無い。時間を掛けて、もう一度築けるかどうか、といったところか。それを使ってどうするかの準備があるということも考えると、もう間に合いそうにはない。
だが、せいぜい、足掻いてみることとしよう。今度こそは上手くやってみたいものだ。
――元・資産家であった篤志家――