映す世界は
沢山のことに囲まれて疲れちゃった人と、
それに耳を傾けた人。
全てが嫌になってそこにいた。
駅前ロータリー広場のベンチに、さも待ち人でもいるかのように腰掛けている。
時折スマホを眺め、足をぶらつかせながら、こんな時でも人目を気にする自分が情けないと思いながら止められなかった。
何もかもウンザリだ。
昨日の夜は急な代打でバイトに入って遅くなった。
朝は寝坊、一限目は遅刻して行った教室にもう席は無い。
表面上一緒にいることの多い子達は、自分抜きで教室の端を陣取っている。
そこに入り込む勇気はなかった。
ゼミの先生には後々呼び出され、面倒な役割を言い渡された。
ゼミの仲間に手伝ってもらえ、なんて誰1人研究室にはいないのによく言えたものだ。
泣く泣く1人で終わらせて、もうおやつ時。
そのまま大学で昼食を摂る気にもならず、コソコソと帰途についた。
また夕方からはバイトがある。
大学の課題、迫りくる金銭問題、信用ならない知り合い。
何もかもウンザリだ。
ただ用事もなくベンチで時間を過ごせるのは今が過ごし易い気候だからこそ。
ほんのちょっとの反抗心を自らに示すため、ここにいる。
みすみす家に帰ってなるものか。
時には私だって、予測できない行動に走るのだ、と。
時間になればバイトに行く自分の性格は分かっているのに。
逃げたいのに、逃げられない。
放り出したいのに、抱えてしまう。
訴えたいのに、勇気が出ない。
こんな私はいつだって貧乏くじばかり。
都合のいい人間というものは、いるのだ。
誰から認識されることは無くとも、正に今ここに。
なんと虚しいことか!
「誰か待ってるの?」
「へぁ?」
悲劇のヒロインに浸っていたのに、急に声をかけられてそれは途切れた。
「……私?」
「うん」
そこにいたのは、1人の女性だった。
大人しい服装と整えられた髪型からは年齢を感じるが、よくよく見れば20代だろうか。
知らない人から急に話しかけられ、心拍数が上がる。
どこまでも臆病な自分だ。
「え?ああ…まあ」
「隣、いい?」
「あ、はい」
彼女はベンチに触れ、ゆっくりと腰掛けた。
新手の宗教勧誘か、それとももっと悪いものか。
想像を巡らせるが、どれも彼女とは不釣り合いなようだ。
「何か見てたの?」
「いや、別に…」
「さっきからスマホとかもいじらず、じっと何処かを眺めていたから」
「え…」
「ごめんね、あまりにくたびれてたから、少し観察しちゃったの」
彼女はそう言ってクスリと笑った。
思わず顔が熱くなる。
疲れ切って座り込んでいたところを見られていたなんて。
ああ、本当についていない。
「何だか凄く疲れてるみたい、大丈夫?」
「ええ、はい、大丈夫です、全然!」
出た、私の口癖。
全然大丈夫じゃないくせに。
反射的に出てきてしまう。
『すみません』までついていたらパーフェクトだった。
フルコンボだドン?
馬鹿にして!
「ふーん?」
彼女はこちらを見ないで、自分の膝辺りでスカートの布をいじっている。
時折振れる首が髪を揺らして、さらさらと音を立てていた。
綺麗な人だなあ。
純粋にそう思ってしまった。
落ち着いていて、美人で、知らない人に声をかける勇気のある彼女が、何だかとても羨ましかった。
いいなあ。
入れ替わりたいなあ。
そしたらこんな気持ちにならないのかなあ。
「じゃあただボンヤリしていたの?」
「そう…ですね」
「眠くならない?」
「眠たい、ですけど」
「けど?」
口癖のように文末に『けど』をつけて、結果的に先を促された。
文法的に正しい反応だ。
私にはあまり優しくないが。
だからかはわからないが、ふとイレギュラーな言葉がこぼれた。
「眠る気にも、ならなくて」
「……」
彼女はまだ膝を眺めている。
私は更に俯いた。
知らない人に、それもこんな素敵な人に、突然吐く言葉ではない。
病んでるなあ、で終わらせられてしまう。
それが嫌だからずっと我慢していたのに。
「そうなんだ、大変だね」
彼女は当たり前のように返した。
まあ妥当な反応だ。
私自身も他人の睡眠なんて、毛ほども興味がわかない。
「今日お昼、何食べた?」
「……食べてません」
「朝は?」
「シリアル少し…」
「え?それで足りるの⁉︎」
「うーん…」
そういえばお腹が空いている気もする。
だが食欲とは別物だ。
朝は寝坊していたのだから、シリアルだけでも食べられたのは合格点だった。
昼は色々あって食べていない。
昨日の夜は?バイトが入って帰ったら深夜だったから食べなかった。
ああ私、全然ご飯食べてないなあ。
「最近の子はさ、何して遊ぶの?お腹減ってても遊べるの?」
「え…ええと…」
その言い方から、やはり向こうの方が年上らしい。
質問を受け、首を傾げながら考えた。
「何だろう…」
映画…は観たいもの特にないし。
カラオケ…は行きたいと思う人いないし。
お茶?ショッピング?
誰の顔も浮かばない。
1人でいる自分しかイメージがつかない。
それなら節約する、と家に籠る自分しか。
そういえば最近楽しかったことは何だろう?
面白くて笑ったことあったかな?
「何だろう……へへ、」
情けない笑い声がこぼれた。
取り繕うためだけの、誤魔化しの笑いだ。
これもいつの間にかやめられなくなった。
「…浮かばない…かなぁ…」
急に視界が霞む。
滲んで、鼻の奥がツンと痛くなる。
何を急に、まるで子どもみたいに。
ああ、でも私には何もない。
今私は何にも持っていない。
楽しいことも面白いことも、大切な人も、時間も、何も無い。
私、本当に何も無いんだなあ。
「…どうして…かな、…あはは…」
汚い笑い顔だろうなあと思う。
顔は笑っているけれど、俯いて髪で隠している。
表面張力を強めるため、目は見開いた。
泣くな、泣くな。
思えば思うほど、喉がひくつく。
音が遠くなる。
「私…何にも無くなっちゃった…かも…ッ…」
「そっかあ」
女の人は特にリアクションを変えなかった。
こちらに視線を向けることも無かった。
興味なんてあるわけがない。
こんなショボくれた幼い私のことなんて。
「ね、今は何が見える?」
彼女は質問を変えた。
何の意図があるのかはわからない。
だがここまで惨めな姿を晒して今更何を隠そうというのか。
道行く人の好奇の視線を感じて、歯をくいしばる。
「何も、見えない。ぼやけて、モノクロで、何も」
「うん」
頷く気配がした。
彼女は続けた。
「それじゃ、だめ?」
何を言われているのかわからず、黙ったままでいた。
だめ、とはどういうことだろう。
単純に続きが聞きたくて、待った。
「ぼやけていても、白黒でも、いいじゃない。あなたの見てる世界は、あなただけの世界だもの。誰も否定できないし、間違ってなんかない」
ビクッと喉が引き連れた。
涙が詰まって息ができない。
咄嗟に袖で目を押さえた。
「あなたがそう見えたものは、それで正解なんだよ」
見ず知らずの綺麗な女の人に優しい言葉を掛けられて泣く私は、なんて滑稽だろう。
みっともない。
情けない。
恥ずかしい。
けど、それでいいじゃない。
他に正しい振る舞いができる『私』はいないんだから。
彼女の声が頭の中で勝手に喋り出す。
驚くほど優しくて澄んでいる声は、私の脳みそにするりと溶け込んだ。
そこに私のひねた反論が差し込まれる隙はなかった。
ふう、と息を吐く。
目が熱いし、鼻水も出てきた。
「そう…ですね、うん」
でも、大丈夫な、気がした。
「なんか、」
気がしただけで、いいと思えた。
「すみません…みっともないとこ」
「そう?静かだったと思うけれど……あ、」
女の人は少し身じろぎをして、上着から小さな携帯を取り出した。
今時珍しくなったガラケー。
使っている人は意外と多いのかもしれない。
彼女はその携帯に目を向けず、一度開いてボタンを押すだけでしまった。
あくまで視線は膝に向いている。
「迎えが来たから、私行くわね。お邪魔しました」
「あ…いえ…こちらこそ」
「じゃあ、色々大変だけど、お互い頑張りましょう」
「あ…はい」
最後くらいはちゃんとお礼を言いたくて、慌てて出したタオルで顔をゴシゴシと拭いた。
そこで、カツン、と音がしたのを聞く。
彼女が何か落し物をしたのかと思ったが、その音はカツン、カツンとリズムよく続いた。
思わずタオルで鼻から下を押さえながら顔を上げる。
カツン カツン
去りゆく彼女を導く白杖。
その脚元の点字ブロック。
「目が…」
呟きが漏れた。
だから彼女は最後までこちらを向かなかった。
だから彼女は携帯に顔を向けなかった。
『あなたがそう見えたものは、それで正解なんだよ』
遠ざかるしゃんと伸ばした背筋から、先程の言葉を思い出す。
あの人には見えているのだ、自分の自分だけの世界が。
顔なんか向けなくたって、耳をずっと傾けてくれていたのだ。
彼女の見た世界から、私に声をかけてくれたのだ。
さて、と腰を上げる。
彼女はもう人波に紛れて消えてしまった。
私にバイトの時間が迫っていた。
相変わらず億劫な気持ちは消えないが、それでも前に進めそうな気がした。
バイト、少しだけ手を抜いたっていいかな。
明日席をとってくれなかった彼奴らに文句を言おう。
ゼミのことなんか私だけの責任ではないのだし。
今日は帰ったらやけ食いしてやる。
そうしてゆっくり眠って、明日のことはまた明日。
さあ、今から何を見ようか。
見えた世界はきっと、私の味方だ。
ずらずらーっと
書きたいことだけ。