姉と弟の共同作業
ロザリオは書き物机の左隣に並べられた引き出し棚を探り、必要な薬品と道具類を取り上げる。それらを狼の傍らに置いたところで「あ」と姉の声が上がった。
水で薄めた消毒液――――人間用に作られたものは動物にとって刺激が強いのだ――――をコットンに浸み込ませつつ、上目遣いで姉を見やる。
「どうかしましたか? あ、心変わりですか。良かった。ではこいつを今から捨てに行きましょう」
「!? ち、違うわっ。ああ、まだ片付けないで……!」
本気で道具類をしまい始められたので、クロシェットは焦って止めにかかる。そうまでして必死なのかと、内心でロザリオは唇を尖らせた。
「冗談ですよ」
だから返して下さいと、姉が握り締めた消毒剤と包帯とを奪い取る。
本当に迷惑な狼だ。クロシェットの沈んだ心をさらに掻き乱すなんて。手元を狂わせて色んな薬品をぶちまけてやろうか。
ロザリオは苛立ち混じりに準備をしながら、狼の傷を一つずつ観察していった。
痛みで暴れられる恐れがあるため、姉に狼の身体を押さえてもらい、消毒液を充分に吸い込んだコットンを一番酷い傷口に当てる。殺そうとしていた動物の面倒を見るのは、なんだか変な気分だ。
気絶しているように見えた狼であるが、消毒液がかなり浸みるらしく辛そうなうめきが歯の間から洩れる。
見ているこっちも応えてしまい、クロシェットはダメ元で尋ねてみた。
「軽い切り傷くらいは魔術で治せないかしら。ロザリオほどの魔力ならできるはずよね?」
クロシェットは弟の双眸を覗き込む。
例えるなら蒼い宝石。暗闇でも明るい煌めきを浮かばせる澄み切った虹彩は、魔力を持ってして生まれた者――――魔術師の証だ。『魔術師』とは国が名付けた宮廷での役職の名だが、最近は単なる魔力持ちでもそう呼ばれるようになっている。
蒼い色の濃淡や明暗は、魔術師の実力と比例する。色彩の純度が高いほど、その人物の能力も優れているのだ。
ロザリオにはその素質があった。強い魔力にも恵まれており、早くも将来を有望視されている。家督は魔力を持たない姉に譲って、お前は魔術師としての道の行けと勧められるくらいには。
「………こいつに施す魔力なんかありません」
吐き捨てるようにロザリオは拒んだ。
失った血液や死んだ細胞、裂かれた肌などを元通りにするのは至難の業だ。強力な魔力だけでなく、魔術師の精神力も求められる。全体として見てもほんの一握りしか存在しない魔術師だが、治癒の魔術を扱える者となれば五指に余るかどうかなのだ。
それほど難しい技術だ、いくらロザリオといえども骨が折れるのだろう。…………別の意味で言われた気もするが。
クロシェットは弟の指示のまま、適当な長さに切った包帯を消毒済みの傷口に巻いていく。耳元の切り傷の手当てに取りかかったところで、あることに気づいた。
あまりまじまじと見ていなかったのだが、狼の鋭く大きな瞳も灰みがかった蒼だった。蒼の瞳は特定の人間だけが持つ色だと思っていたけれど、動物の世界でもあり得るのだろうか。
牙の並んだ口元を痛そうに震わせながらもこちらを真っ直ぐ見据えるそれはとても澄んでいて、無意識にクロシェットも眺め返していた。
「綺麗……」
意識せずに、クロシェットの指が伸ばされる。見咎めたロザリオがぴしゃりと諌めた。
「むやみに触っちゃだめですよ。傷口に当たって暴れられても面倒だし」
「あ、ごめんなさい……」
彼の言う通り、クロシェットが手を置こうとしたところには体毛に隠れた赤黒い傷口があった。慌てて手を引っ込める。
「こんな獣に薬とか包帯とかやるなんて……」
ぶつくさ文句を垂れ流しながらも、ロザリオは丁寧に処置していく。すべての傷を手当てした頃には、狼の身体は包帯だらけになっていた。
これはこれで辛そうだが、狼のためだ。嫌がるなら摘まみ出してやる。
ロザリオは狼の狂乱を密かに期待するも、獣は大人しくされるがままになっていた。自分の置かれている状況を理解しているとは、さすがワケありの獣だけある。
気に食わないものの、ロザリオは自分の部屋で一晩寝かせる準備を始めたところ、クロシェットが進み出た。
「私の部屋で寝させたいのだけれど」
立て続けに発される姉のとんでもない発言に、今度こそロザリオは目を剥いた。
「狼ですよ狼! 姉上に危害を加えるかもしれないんですよ!」
「でも見つけたのは私だし、私が何とかしないと……」
それにもう真夜中である。魔術の勉強を切り上げて寝ようとしていた弟の邪魔をしたのに、加えて勝手に拾った動物までも押しつけなど迷惑だ。最低限の治療を施してもらったら、クロシェットは狼とともに自室へ引き下がるつもりだった。いくら凶暴な性格だからと言って、傷だらけの状態で相手に襲いかかる危険性はないように思う。
「でも殺し損ねた僕にも責任の一端があるんだから、僕だって」
「大丈夫よ。もうロザリオの手を煩わせたりはしないわ」
この狼を彼に託せば色々とまずい気がしたので、クロシェットはその申し出を遮った。
狼の身体を抱き上げようとして、クロシェットはぐらりとよろめいた。狼が予想以上に重たかったことを忘れていた。ロザリオが支えてくれなかったら、尻餅をついていたことだろう。
「本当に連れていくんですか?」
ロザリオの心配そうな顔に、クロシェットは明るく笑みを返した。
「うん。包帯を巻き直すくらいなら私だってできるし、ロザリオまで巻き込んで寝不足にさせたくないもの」
「…………」
「ロザリオ?」
眉根を歪ませて狼を睨む弟を、クロシェットは訝しげに眺める。聴覚の発達した獣にしか聞き取れないほどの小ささで、ロザリオは脅した。
「…………姉上に手を出したら、承知しないからな」
狼は唯一無傷だった尻尾を振り、かすかに喉を鳴らした。