森の使者
部屋に戻って眠る気にもなれず、クロシェットは流れる夜風に身を任せる。その時、草花のざわめきや葉擦れの音にまぎれて物音がした。動物が植物を掻き分けるような音だ。
クロシェットは無意識に、庭の敷地内にある森を見やる。
屋敷の東には森が鬱蒼と茂っており、彼女の父や弟が従者を連れてよく狩猟していた。あくまでも自然の風景を意識して作られた庭園なので凶暴な野生動物はいないが、ウサギなどの小さな動物が生息しているのだ。
けれどこの物音は大きめで、小動物に特有のすばしっこさがない。一歩ずつ、慎重に踏み締めているようだった。ガサリガサリと音が近づく。
クロシェットは目を凝らした。
森の叢から這い出てきたのは、灰色の毛皮をまとう1匹の獣だった。犬だろうか。暗がりでも炯々と煌めく双眸が離れた場所に立つ娘を捉える。
荒々しく吐き出される息。濡れた牙が、月光を鈍く反射する。
植物を食べる穏やかな姿とはほど遠い。
肉食の顔だ。
鋭い眼光に射抜かれ、クロシェットは身をすくめた。
彼女の部屋は一階にあり、テラスを囲う手すりも低い。襲いかかられたら軽傷では済まないだろう。
よろよろと覚束ない、だが重みのある足取りで獣は徐々に歩み寄ってくる。わずかに開かれた口元から、赤黒い舌が妖しく閃いた。
ただの動物。そのはずなのに。固い意志を持つ人間に睨まれ、追いつめられている圧迫感が拭えない。獣の足に寄り添う影すら、ともすれば彼女を捕まえる巨大な手に見えてくる。
クロシェットは思わず後ずさった。するとその獣が頭を震わせ、威嚇するような唸り声を上げて彼女の動きを制す。彼女が背を向けたら一気に迫ってきそうな気迫だ。胸を打つ鼓動が早くなる。
しかし犬まがいの動物は、前足をもう一歩踏み出させるなり倒れた。獣の影が草にまぎれ、一瞬姿を見失う。
冷めやらない緊張感をなだめ、クロシェットは太い息を吐く。
膨らんだり縮んだりする灰色の身体。ぐったりと投げ出された手足から、獣の体力がもはや残されていないことを知る。ゆっくりと深い息遣いは遠目でもひどく苦しそうだ。
クロシェットは手すりに身を乗り出した。怖かったのなら逃げ出すべきだろうが、頭がそれを拒んでいた。
ふらつきながらも進むこの獣の姿が脳裏に浮かぶ。あの時点ですでに身体の限界が来ていたのだろう。
それまでずっと彼女に突きつけられていた鋭い眼差しが、毛深い瞼の裏に隠される。
このまま死んでいくのだろうか。
思った瞬間、焦りにも似た衝動がクロシェットを駆り立てた。寝間着の襟元に隠れていた鎖の首飾りを引っ張り出す。繊細な鎖に通されていたのは小さな鍵で、月光を弾いて白っぽくなった。
テラスの手すりは一部がドアのように開閉できるところがあり、いつもは錠前でしっかり施錠されている。そこへ鍵をしっかりと差し、カチッと金属質な音が鳴ったのを確認して庭に飛び出した。
寝間着の裾が足にまとわりついて走りにくい。けれどしゃらしゃらと揺れる草の声を遠くで聞きながら、決して足を止めなかった。
獣が伏せっている場所まで行き着くのにそう時間はかからなかった。元々、屋敷と森との距離は遠いわけでもなかったし、獣もほんの少しだが彼女の許に近寄っていたから。
クロシェットはその獣を見下ろす。
遠目では分からなかったそれは、普通の犬よりも一回り大きめな体つきをしていた。胸の辺りもハトのように張り出されている。全身を覆うふさふさとした灰色の毛は、月明かりのせいか青みがかっていた。
犬、とは違う動物なのだろうか。でもなぜこのような肉食動物が庭の森に?
獣を前に屈み込むと、錆びた鉄の匂いが鼻先を掠めた。
よく見れば深いものから浅いものまで、生々しく抉られた傷が灰色の身体にあちこちにある。いずれも新しいものらしく、血は完全には固まっていなかった。
人の気配を察したのか、閉ざされていた瞳に再び輝きが灯り、クロシェットの顔に焦点を合わせる。息も絶え絶えなその様子に、彼女の弱った心が痛む。
――――貴方も誰かに傷つけられて、こんなにボロボロなのね、なんて。
傷心なのにもほどがある。状況が違いすぎるのに。
蒼い夜は彼女を過去に引きずり込む。目の前の傷ついた獣は、彼女の今の心を映し出しているとでもいうのか。
脳裏を駆け巡る過ぎた日々を振り払い、クロシェットは獣に触れる。
「ねえ、助けてあげるから……死なないでよ」
痛みを負うのはもうこりごりだ。たとえ自分じゃなくても。
動物を腕の中にくるむと柔らかな毛皮が胸を温かくし、自分の身体が思いのほか冷え切っていたことを教えた。
純白の寝間着が汚れることも厭わず、クロシェットは獣を抱き上げた。ずっしりとした重さが全身にもたげて転びそうになったが、なんとか踏ん張って歩き出す。
獣を落とさないよう何度か立ち止まって抱き方を変えながらテラスへ戻った頃には、疲れがどっと押し寄せていた。慎重に獣の身体をテーブルに横たえ、自身は傍の椅子に腰かける。
不思議そうな獣のまばたきにクロシェットは笑みを返した。
両親は怒るだろうか。こんなものを拾って、と。使用人や弟だってきっと嫌がる。でも最終的には彼女の意思を尊重するに違いない。彼らは、彼女を腫れ物に触るように扱っているから。
彼らの気遣いを利用しているみたいで悪いけれど、それでも助けたかった。自分にされた仕打ちをこの子にも味わわせたくなかったのだ。
腕にもたれかかるだるさが引いてきたところで、クロシェットは立ち上がった。微動だにしない獣を横向きのまま抱える。ぐる……と獣が低く鳴いた。
部屋に入る前に、未練がましく空を仰ぐ。
闇の色すら呑み込んだ、珍しい蒼の光。
あれが彼の将来だけを祝福していたというのなら、彼女にとっては不幸の前触れだ。
まだ、傷つけ足りないのだろうか。