蒼い月
3年後、結婚しよう。そう彼は私の手を握り締めた。
その時、君は18歳になる。僕は22で少し年を取るけれど、婚姻にはぴったりの年齢だ、と。
甘い熱に浮かされていた私は夢中で頷いた。早く大人になりたいわ、なんてはしゃいでいたのを覚えている。
けれどその日を待ち望み、私が少女の殻を破った頃。彼の隣にいたのは。
「ご婚約、誠におめでとうございます。フローラ様」
桃色の頬に笑みを浮かべた、幸せそうな花嫁。
私とは似ても似つかない、艶やかな侯爵令嬢。
*******
使い勝手のいい道具でしかなかったのだろうか、と思う。口だけの出まかせに舞い上がる単純な性格を、馬鹿だと彼は笑っていたのだろうか。
その日の終わり、クロシェットの顔色は死人のように真っ青だったらしい。とある侯爵令嬢の16年目の誕生を祝う夜会で、彼女の婚約者だという青年を目にした瞬間から。真っ白なドレスと明るい照明が、クロシェットの青ざめた肌を隠しようもないほど際立たせていたそうだ。
今、クロシェットは月明かりに照らされて青白く染まっている。薄いカーテン越しにぼんやりと浮かんだ月が綺麗に思えて、ついテラスへ出てきてしまったのだ。テラスは部屋に取りつけられており、一面ガラスに覆われた壁を左右に開けばすぐ行き着くことができる。
外の世界は、普段の夜とは違い、蒼い満月が辺りを仄明るく包んでいた。
燃えているような光をまとう月は神秘的で、ところどころに濃い斑点が見える。淡い光は夜空をも藍色に染め上げ、そこに雲が1つもないことを教えてくれる。広い庭を覆い尽くす草木も、太陽とは違う優しい輝きを浴びているせいか少し艶めいて見えた。
思い出せば、あの夜もこんな月が上がっていた。婚約者だった青年から、初めて口づけを受けた夜。他に誰もいない東屋でのひと時を、月だけが静かに見守っていた。
滅多に観測できないことから、蒼の月は幸せの前触れだという言い伝えがある。クロシェットもあの時に見たのが最初だった。思い焦がれていた人に求婚され、浮かれていた彼女は、それが2人の未来を保証しているのだと信じて疑わなかった。
――――見て、月も私たちを祝ってくれているみたい。
彼の手を握り締めて、子供みたいに喜んでいた15歳の自分。疑うのが怖くて、聞こえてくる嫌な噂には耳を塞いだ。ただひたすら、彼との約束だけを胸に抱いていた。
前向きでいられた過去の自分を振り捨て、クロシェットは頬に手をあてがう。ひんやりとして冷たい、夜風に当たりすぎてしまっただろうか。
春とはいえ、まだ本格的な暖かさはやってこない。穴の開けられた心にも。
風に揺れる睫毛を伏せ、ざわざわと庭の草花がさざめき出すのを聴く。散っていたらしい木の葉がクロシェットのこめかみに当たり、テラスのテーブルの上に落ちるとまた風に煽られて頼りなく飛んでいった。
ひらりひらりと、軽やかに木の葉が宙を舞う。その様子がいい加減に風をあしらっているみたいで、クロシェットの見えない傷痕が鈍く痛んだ。両の手を組み、きつく胸元へ押しつける。
知らなかった。
『愛してる』
耳元で囁かれた言葉が、こんなにも軽いものだったなんて。