金星人と夏時間
陰気くさい梅雨の空気が快活な夏の勢いによって遠く遠くに押しのけられていくのをわたしは四時限目、世界史の授業を聞き流しながら、見る事もなく見ている窓の向こう側からそれを感じていた。 授業が始まってからつきっぱなしの頬杖のせいで右の手首が痛い。しかし、この体勢を変える面倒さと手首の痛みとを先ほどから何度も天秤にかけているが一向に後者の方に傾く気配はなく、しだいに痛みが遠ざかり手首の感覚すらも麻痺してきた。わたしはその不可思議な感覚を愉しんでいる。手のひらの付け根から感じる首の脈に合わせて左の人差し指で開いてある教科書のルイ13世だか14世だかの肖像画を一定のリズムで叩く。歴史に名を刻んだ彼がわたしの鼓動で刻まれこつかれるとはなんとも妙な話だ。彼はそんなことを望んだはずはないだろうに。
グラウンドでは一周五00メートルもあるトラックのふちに合わせて真っ白な体操服を着た若人達がいびつなだ円を描いてへたへたと走っている。照りつける太陽に反射して浮かび上がって見える体操服達を見ながら、飛び抜けて速い坊主頭の男子や、三、四人くらいに集まって走るいくつかの女子グループ、どうしようもなく遅い肥満体の男子、それぞれに目をやる。しかし、しばらくするそれぞれの好き勝手なペースが気になり始め、急に目が回ってきた。慌てて黒板に目をやる。柔らかなモスグリーンは長年見つめ続けているせいか、時折わたしの心を落ち着かせる。カツカツカツと教室に響き渡るチョークの乾いた音が何とも心地よい。わたしは世界史は好きではないがこの教師の鳴らすチョークの音は案外好きだ。それにしても、ぐるぐるぐるぐると走り回る彼らはもう感じ始めているのだろうか、近づいてきている夏の訪れを。
―――夏、母がわたしたち兄妹を置いて家を出て行ったのは夏の手前、長雨が続く六月だった。突然と姿を消したわけでもなく徐々にフェイドアウトしていった彼女にわたしはさほどの驚きも憤りも感じることはなく、むしろあるべき形に事が進んだのだと思っていた。その証拠に彼女の身勝手な行動よりも毎日のように降り続く雨がもたらす湿気のせいで、せっかくかけたストレートパーマが効果をなさないことのほうがわたしの気分を害していた。ちなみに母が家を出て行った理由は単純に男ができたからだ。
母はひっきりなしに男を作っては捨てられていた。わたしが物心ついたときから色んな男の人が家を出入りしているのを目にしてきた。母はわたしたちのために父親が必要だと思いこんでいるようだったが、当のわたしたちは父親など必要ないと思っていた。兄はどうかわからないが、わたしはこれっぽっちも必要性を感じておらず、わたしたち家族に入り込む新参者が現れる事により、これまでのわたしたち家族の関係が崩れる事を恐れていたのだ。わたしから言わせてもらえば母はわたしたちをダシに一人の女として自分自身を満たすために父親探しという名目で男を作っていたようにしか見えなかった。母を軽蔑しがちなわたしであるが、おそらく現存する同性の人間のうちでわたしが最も愛している人間は意外にも母だと思う。血がそうされるのか、どうなのかはわからないが、とにかく彼女は「憎めない奴」でわたしは彼女を愛している。彼女の方はどうだか知らないが。
「坂井」という名前が耳に入ってきて遥か彼方にあった私の心はあっという間に体に呼び寄せられた。
「おい、坂井、二四五ページ読んでくれ。」
片手を教卓につき、もう片方の手でチョークを遊ばせながら教師がこちらを見ている。
「あ、はい。」
わたしは何百年も昔、遥か遠くの国の出来事についての記述を読み上げる。教室にわたしの声が広がる。しかし、幾何学的に並べられたクラスメイト達は誰一人わたしの声に耳を傾けてはいない。カラオケボックスでマイクを握っていない人間が歌本を捲っているあの時と同様、空間を共有しているが、実際には個人単位に行動している、あの感じ。そして、それはわたしの心を落ち着かせる。誰もわたしのことなど気に留めない、読み間違えても、つっかえても、きっと全く違うところを読んでいてもだ。そんな時、わたしは世界と共鳴できているような気分になる。ああ、わたしはその他大勢の一人に過ぎず、この教室にいる全ての人間もその他大勢のうちの一人に過ぎないのだと、画一された「個性」に埋もれる至福をかみ締めながら教科書の活字を口から放つ。
読み終わると、後ろの席のつぐみが背中をつついてきた。振り返ると彼女は切れ長の目を細め、薄くて形の良い唇の間から白い歯を覗かせ、屈託のない笑顔を差し出していた。わたしもそれに答える。別におもしろいことがなくてもわたしたちは何かにつけて笑顔を交えてやり過ごす。そういう年頃なのだ、きっと。再び窓のほうに顔を向ける。もう、教師から当てられる心配はないので安心して見慣れたアングルから代わり映えしない景色を眺める。グラウンドには先ほどの肥満体の男子が一人、体を傾けながらトラックを歩いている。いや、走っているのか。髪が汗のせいで額にぺたりとくっついて、体操服が胸の方まで湿っている。他の生徒はとっくに走り終わったようで、座り込んで話したり、彼を指差して笑ったりしている。三人組の男子が彼に声をかけている。
「インベーダー、頑張れ〜、痩せるぞ〜。」
「痩せたらジュノンボーイも目じゃないぜー。」
「ばか、痩せても痩せたブ男になるだけだって。」
彼らも人の事を言える容姿ではないのになあ、と、3人が3人同じような髪型をした彼らを見つめて思った。インベーダーというのは肥満体の彼のあだ名だろうか、それにしても変なあだ名だ。彼はとうとう立ち止まり、肩で息をしながら真っ青な空を見つめていた。しんどそうな体とは裏腹に目だけは妙に安らかだ。空というより、もっと向こう、遠く遠くを見つめている、そんな感じだ。
◆
ああ、暑い。なんでこんなことしなくちゃいけないんだろう、トラック五周なんて走って一体何になるっていうんだ。結局いつもみたいに僕だけ走れずに終わるんだろう。僕が三周も走っていないうちから野球部の矢野はもう走り終わってたしな。ぼくを抜くたびに肩を叩きやがって。このご時世、足が速いことなんて何の役にも立たないのに張り切ったりして。大体、足が速くてモテるのなんて小学生までなんだよ。そうこうしているうちにトラックには僕しかいいなくなっているじゃないか。クラス一の巨漢女子、大西ですら完走している。最後に一人で走るのが嫌なのか、必死になって走ったりして、今もトラックの外でぜえぜえ言ってるじゃないか。みっともない。僕だってその気になれば完走できないわけじゃないんだ。でも、無理はしないのが僕のポリシーなんだ。十七歳という時期に必死になる必要はないだろう。人生は長いんだ。ああ、また杉本たちがつるんで何か言っている。一人じゃ僕にノートも借りれないくせにつるむとあーだこーだ言ってきやがって。ああ、なんだか馬鹿らしくなってきたな。暑いし。もうすぐチャイムなるだろうし。そうして僕は足を止めたのだった。湿った空気が汗でぬるぬるの身体にまとわりついて気持ち悪い。天を仰ぐと相変わらず太陽は冗談みたいにまぶしくて空の青はすこんと突き抜けている。今日も、今日も声は聞こえないな。この間あの声を聞いたのはいつだったっけ。そうだ、五日前だっけな。
みんなはもう気づいているのだろうか、近づいてきている世界の終わりを。
インベーダー。僕についたあだ名だ。ことに始まりは二ヶ月ほど前に遡る。二年に進級するに伴ってクラス替えが行われたが、一年のときより親交があった杉本にだけ教えてあげたんだ、迫り来る地球最後の日を。杉本は他の低俗な奴らよりは話のわかる奴だったからだ。しかし、それっきり。それっきりだ。僕がクラスの鼻つまみ者になったのは。それと同時に杉本は僕と話すことはなくなり、僕はインベーダーと呼ばれだした。杉本がクラスの皆に僕が妙なことを言っていると面白おかしく言いふらしたのは明確だった。杉本はこれによりクラスに馴染み、僕のもとにクラスの何人かを引き連れては僕に例の話をさせようとし、不愉快極まりない僕は口が裂けてもそいつらの前ではあの話をしなかった。奴らも奴らでそれが気に食わなかったのか勝手にあることないことを言い出すようになり、僕は見事「変人」のレッテレルを貼られ、クラスにヒールを作り上げた杉本はさらりとクラスの中心に入り込んだのであった。次第に杉本はちゃらちゃらした格好をしだし、しまいには出遅れ高校デビューを果たし、メガネからコンタクトに移行して「ホントのわたしデビュー」と相成り、学生ズボンをずり下げ、ちゃらちゃらの代名詞になり下がってしまったのだ。所詮、杉本も低俗な輩に過ぎなかったのだ。だけど僕は違う。あの声を聞いたんだ。僕は選ばれたんだ。僕は選ばれた人間なんだ。
◆
サワサワとあちこちで教科書やノートを閉じる音が聞こえ始めるとスピーカーから終了のチャイムが流れた。挨拶が終わると教師はそそくさと教室を出て行き、皆はガヤガヤと席を立ちトイレに行くなり友人のもとに歩み寄るなりしている。わたしは次の現国の教科書とノートを机に出すと相変わらずの窓の向こうを眺めた。先ほどとは違うクラスの人間がぞろぞろとグラウンドに出てきている。日が少し傾き始めた。校舎の傾いた影が陰と陽の世界をくっきりと作り上げている。
わたしは生まれてから一度たりとも父親というものに会った事がない。母はいわゆるシングルマザーとしてわたしたち兄妹を産み育てたのである。酔った母はよく父の話をした。若い頃に東京で水商売をしていて、客として店に来た父と出会ったのだと幾度となく聞かされた。その話をはじめて聞いたとき、わたしは一〇歳になるかならないかであった。母の口から放たれるアルコールの嫌な匂いに紛れ込む父の子片をかき集め、まだ見ぬ父の姿を必死に思い描いたのを覚えている。幼いながらも自分のルーツを探ろうと必死であったのであろう。しかし、そんな私の期待とは裏腹に母のする父の話はいつも微妙に違っていた。特に容姿についてはいい加減甚だしく、ある時はジェームズ・ディーンのようだったと言い、ある時はアラン・ドロンのようだったと言い、またある時はデニス・ホッパーに似ていたとも言っていた。その度にわたしは彼らの出演している映画を観漁った。おかげでわたしは年の割に古い映画に詳しくなり、そして母の言っていることがでたらめであるという事もわかった。そもそも母が名前を挙げる俳優達は西洋人であることくらいしか共通点はなく、そんな彼らに似た人の血が混じっているならばわたしの顔も西洋よりになっているはずだが、いくら鏡を見てもわたしの顔は目鼻立ちのはっきりしない生粋のモンゴロイドだ。しかし、母のいいかげんな話は一貫されたことがあり、それはわたしと兄の父親は同じ人であるということだった。きっと母は妾だったのだろう。妾の子、それがわたしと兄。
チャイムが鳴り午後のホームルームが終わった。わたしは学校が終わると一直線に家へと向かう。友達と呼べる人間がいないわけではない。しかし、そういった人間の大半が部活動をしているので、わたしは放課後、友人達とお茶をしたり遊びに行ったりということがない。むしろ、そのことを狙って部活をしている人間を友人としているのかもしれない。しかし、休日くらいは彼女らに付き合うこともある。いや、付き合わなければならない。わたしに求められるものは当たり障りのない年相応の行動なのだ。普通の女子高生。それが今のわたしがこなさなければならない役。集団の中に息を潜め、没個性に埋もれる。これがわたしを守る術。生きる知恵。
◆
学校が終われば、一目散に学校を出なければならない。一秒でも早くこの場を去らねば僕も杉本のように低俗な世界に飲み込まれてしまう恐れがあるのではないか、そうなるとあの声もとうとう聞こえなくなってしまうのではないか、そんな風に思えるからだ。そして僕は教室を出ると廊下を小走りで渡り下駄箱に向かうのだ。トンネルの出口から差し込む光に向かうごとく、はたまた海の底から見上げる揺らめく太陽を求めるごとく、新鮮な空気を求めて。下駄箱に着くと落書きだらけの上履きを脱いで合皮の安っぽい革靴を取り出す。そして、靴の中に画鋲などのトラップがないかを確認する。僕が「変人」のレッテルを貼られたあたりから低俗なイタズラをされることが増えたからだ。この間などピンク地に小花を散らした可愛らしい封筒に「dearさいとうクン」という丸文字が淡い色合いのペンで書かれた一見ラブレターのようなものが入っていたことがあったのだ。入学式の時、僕に一目惚れしただの、とりあえずお友達からだの、今日の午後五時に学校の近くの神社に来てくれだのと書かれていた。もちろん僕は相手にしなかった。奴らの仕業に決まっている。差出人は隣のクラスの女子であったが、きっと奴らのことだ、勝手に名前を拝借したのだろう。いつも一人で下校しているのを見る限り友達の少なそうな娘で、髪の色も質量も重いせいか少し暗い印象を与えるが、小さくて可愛らしい鼻とぱっちりした二重がその暗い印象をぬぐい去る、一応、かわいい娘に位置づけられるだろう娘だ。きっと、友人の少ない彼女の名前なら悪用しても大丈夫だと、女子の妙な連帯感を恐れている奴らの考え抜いた人選なのだろう。そして案の定、そのラブレターは偽物でもちろん彼女は来なかった。それどころか、その神社にはその日、犬の散歩をしているじいさんが通りかかったのみであとは人っこ一人現れなかったのだ。なんたって僕は望遠鏡を使用して随分離れた茂みに身を隠し三時間も監視していたのだから。大体、身長一六五センチにして体重が七八キロもあるか軽肥満体の僕が乙女からラブレターを頂戴するようなことはないし、ましてやあんな娘が僕に想いを寄せているわけがない。しかし、万が一ということもある。そんな淡い期待が指定された場所へと足を運ばせてしまったのだ。身の程をわきまえない自分の浅はかさが憎くもあったし、かわいらしくもあった。しかし、迂闊だった。迂闊すぎた。三時間粘った帰り、涙を堪えながら歩いていると運悪く杉本達に出くわしたのだ。そして、僕の手にはしっかりと望遠鏡が握られているのであった。奴らは一瞬で理解したのだろう、ニヤニヤとこちらを見ていた。まったく嫌な奴らだ。
そんな風にして僕の毎日は過ぎていく。
◆
鍵を開けてドアに入ると兄は相変わらず家にいるようだった。玄関にひっそりとしていながらも重々しく粘っこい雰囲気を醸し出す兄の靴。わたしの生成りのオールスターのハイカットや先月古着屋で買ったパンプスと違い、タイヤメーカーの洒落っ気のない兄の靴。それだけが玄関の隅で埃をかぶっている。
学校から自転車で二〇分。ローカル線が通る最寄り駅までは歩いて一〇分。片田舎といえば片田舎。いや、都会の子に言わせたら完全に田舎なのかもしれない。午後五時を回ると母校である小学校から「七つの子」が流れ、それを合図に子供達は家に向かい、汚れて帰ってくる子供達を待つ母親達は風呂を沸かし、台所で晩ご飯の支度をする。「七つの子」が辺り一面を一日の終わりへと追いやる。そんな音など届くはずもない都会のビル群。父親達は電車を三回乗り継がなければたどり着けない都会の一角で向かいのミラービルに反射する夕日を浴びながら残業を余儀なくされているのである。所謂ベッドタウンにあたるわたしの町。その中でもひと際大きな団地の一角にわたしの暮らす家はある。ここに越してきたのはわたしが小学六年生、兄が中学三年生であった。当時、母は前の男と別れたばかりで心機一転を図り引っ越しをしたようだったが、それに付き合わされるわたしたち兄妹はたまらなかった。男を作っては捨てられ、挙げ句には子供を置いて出ていくなんていう、端から見ればダメな女極まりない母ではあるが、意外にも法律事務所というお堅いところに勤めている。行政書士の資格を持つ母はほとんど職に困ることはなく、法律事務所を点々としながらわたしたちを養い、その傍ら男を作っていた。「まっとうな職業」という隠れ蓑を被り、彼女は自由奔放に恋愛に勤しんだのだ。もっとも、会社の人間には手を出さないということが彼女のルールらしく、そのおかげか、傍から見れば健気なシングルマザーであり、会社では「現代を生きる強い女」というレッテルを貼られていた。そして、彼女もちゃっかりそれを演じていたのだった。今の家に移る前、まだ、わたしが小学校三年生くらいだった頃、母が残業をするときはいつも放課後に彼女の働く法律事務所に行き、仕事が終わるのを待合室で待つことになっていた。わたしはそこで、母の同僚である、市川さんというお姉さんに相手をしてもらっていた。市川さんはきれいでまっすぐな髪をすとんと肩まで落とした、色が白くて、いい匂いのする素敵な人だった。そして、何より美しかった。美しいなんて表現はこそばゆいし、気取り過ぎだと、まだ小学生であったわたしは思っていたが、彼女のそれは美しいなんていう言葉をいやらしく感じさせない美しさがあったのだ。彼女はいつもアメやお菓子をくれたり、話相手になってくれていた。そして決まってわたしに「素敵な人ね、葉子ちゃんのお母さんは」などと言うのだった。時には母は今の彼女にっとての目標だとも言っていたことがあったが、わたしにとっては、わざわざしゃがんで目線を合わせて話してくれる彼女のほうがよっぽど魅力的だったので、彼女の台詞が不思議でたまらなかった。
そんな彼女のような人間により、「現代を生きる強い女」である母が作り上げられてしまったわけなのだが、わたしは母のことを強いなんて思ったことはない。しぶといな、とか、懲りないな、と思うことはあるが強いなんて思ったことは物心がついてからは一度もない。間違いなく母は弱い女なのだ。
◆
初めてあの「声」を聞いたのはこんな具合に風の強い、月の明るい夜だった。自転車に乗っていた僕は外灯のない暗いあぜ道をヘッドホンでレディオヘッドの名盤「OKコンピューター」を聴いていた。六曲目のカーマポリスに差し掛かった頃に、あの声が聞こえてきたんだ。でも、正確には聞こえたっていう感じじゃなく、なんていうか、「感じる」という感覚の方がしっくりくるかもしれない。それも言葉なんかじゃなく一種の信号みたいな感じなんだ。でも、不思議とそれは「声」だとわかる。そして、何を意味しているのかも明確に理解できる。不思議なことなんて何一つなかった。強いて不思議なことを言うならば僕がこのことを不思議に感じないことくらいだった。その「声」はガヤガヤした雑踏の中に響くハイヒールの足音みたいに集中したら聞き分けられるような、ふと気になって注意すると聞き分けられるようなもので、ありふれた日常の中に埋もれていて、みんなが見過ごしてしまっているような感じのもの。それがあの「声」なんだ。そして、僕は理解した。あと半年もすれば世界は終わるんだって。
あの「声」を初めて聞いた時のような夜。僕は杉本達が勉強会をしているというファミレスまで数学のノートを渡しに行っているところだ。明日、中間試験があるのは僕だって同じなのに何たる自己中心的で利己的な奴らなのだろうか。
世界は終わる。勉強したって仕様がないことは分かっている。なんたってその先には何もないのだから。定期試験も模試も、大学受験だって。だけど、平然を装っておかなければならない理由が僕にはある。ママが心配する。急に勉強をしなくなったり、学校に行かなくなったりなんてしたらママが心配するに違いない。世界は終わる。でも、僕にそれを止めることはできないし、日本政府が立ち上がっても無理だ。アメリカだって何の抵抗もできない。わかるんだ、僕にはわかる。強大な力が僕らを飲み尽くすんだ。だから僕ができること、すべきことはない。強いていうならば、ただただ平凡に一日一日を消化していくことなんだ。黙って世界の終わりを見届ける。それだけだ。
ズボンの左のポケットからムームーという振動がしたので携帯電話を取り出すと、小さい方の液晶画面に杉本の文字が。しばらく電話を握ってバイブが止まるのを待ったが、あまりにしつこいコールにしびれを切らして電話を開いて耳に当てた。
「あ、もしもし、インベーダー?こちら地球防衛軍。」
ザワザワとした話し声がかすかに聞こえる。
「・・・何?」
「え?ちょっと、ゴーゴー言って聞こえないんだけど?」
「あ、ごめん、自転車に乗ってるから。」
「何?聞き取れない、聞き取れない。インベーダー、地球語喋れー。」
何が面白いのか周りの奴らの笑う声が聞こえる。仕方ないので自転車を止めた。
「ごめん、自転車に乗ってたからさ。」
「あ、そうなの、ごくろうさん。あのさ、途中コンビニ寄ってタバコ買ってきてよ、クールマイルドね。」
タバコ?何を言い出すんだこいつは。
「え、いや、まずいよ、タバコなんて。だって僕ら未成年だし・・。」
僕の反論むなしく、杉本はもう電話を切っていた。プープーというかすかな電子音がカエルの鳴き声と一緒に辺りに響く。杉本の奴、いつからタバコなんて始めたんだ。かっこいいとでも思っているのか、不良気取りめ。不良がモテるのなんて経済成長著しい昭和の話だろ。
僕は再びペダルをこぎ始めた。そして、あることに気づいたのだった。
どうしよう、僕は今、制服だ。
この辺にタバコの自動販売機なんてものはない。いくら田舎のコンビニだからといって学生服を着た高校生にタバコを売ってくれるようなことはない。まずない。様々な言い訳をあーでもない、こーでもないと考えながら土の匂いのする湿った空気を切っていく。 汗でシャツがびしょびしょだ。これだけ太っていれば汗も出る。しかし、汗をかかないデブなんてなんか変だ。汗を含んだ生地がぺたっと肌に吸い付く感触が気持ち悪くて嫌いだ。そして、その延長上に僕の夏嫌いがある。冬は着込めばなんとかなる。だけど、夏はいくら脱いでも暑いままだ。抵抗の使用がない。そんなところが嫌いだ、夏は。
そうこうしているうちにぽつんと明かりが見えてきた。夜空に突き上げられた看板が遠くでくるくる回っているのが見て取れる。光に群がる蛾のように僕もその光に吸い寄せられる。用事があるとわかっていても、頭じゃなくて体が光の元へと僕を向かわせる。自転車のライトが唯一の頼りであるこの暗闇に比べたら、真っ白で清潔な光に包まれ、寒いくらいに冷房の効いているコンビニは天国だ。天国。なんて大げさかもしれないが、光り輝くあの場所にいると全てがフラットでシンプルに思えてくる。あの燦々と降り注ぐ蛍光灯のもとに影を落とすものなど何もない。全てを光に包んでくれる。こんな僕ですらも。そんな風に思えるのだ、あの場所は。きっと天国もこんな風に光が覆い尽くす世界なのだろうな、なんて思えるのだ。そうは思っていても、やはり気が進まない。タバコなんて買えるわけがないからだ。しかし、買わなければ。買わなければ杉本達にまた何かされてしまう。最近、奴らのすることはエスカレートするばかりだ。それは是が非にも避けたい。是が非にも。
◆
夕飯はいつも決まって店屋物か弁当屋の弁当。それにも飽きたらコンビニに行って、結局、弁当。わたしは料理を一切しない。というか、できない。わたしくらいの年の娘ならそこそこ料理を作れてもおかしくはないだろう。しかし、そういう娘はお母さんの手伝いをしているうちに覚えていくのであったり、彼氏とのデートに持っていくお弁当を拵えるためにお母さんに教えを受けたりといった具合のプロセスがあるのだろうが、わたしにはそういったことがまったく当てはまらない。なぜなら、わたしの母は料理をしない人だったからだ。今はどうかは知らないが、わたし達と暮らしている時は全くもって料理をしなかった。つまり、わたしは誰しもが通るだろう料理との接触を根源から断ち切られたのである。そんな母なので朝ご飯はシリアルだし、晩ご飯は外食か店屋物かお弁当。外食をすること意外、今のわたしの食生活と変わらない。わたしもできることならば外食をしたいが、女子高生が一人で外食をするのは変であろうし、何よりも、わたし自信がどうしようもないくらいに虚しくなるのが耐えられない。それに、そんなところを学校の人間に見られることも避けたいというところもある。
そして、今日は二週間に一回あるかないかのコンビニディナーの日となり、自転車で十五分のこのコンビニに風呂上がりで来たわけだ。しかし、風呂上がりに行くのは失敗であった。せっかく汗を流したのに、また汗をかいてしまった。残念ながら自転車で十五分のこのコンビニがわたしの家の最寄りのコンビニなのである。歩いて五分で行けなければコンビニとは呼べない、とクラスの誰かが言っていた。わたしもまわりに合わせてそうだそうだと同感したふりをしていたのが随分と恥ずかしい。
店内は驚くほどに涼しい。ボーダーのTシャツを着たわたしの上半身が外の暗闇のせいで鏡のようになった大きな窓ガラスに映りこんでいる。目についたからというだけで履いたベージュの短パンとのコーディネイトは最低だが、幸いなことにそれは写らずにいた。窓ガラスに写る顔のすぐ下には立ち読み中の今月号のノンノがある。表紙いっぱいに写り込んだモデルの娘が上目遣いで笑いかけている。口角を無理矢理上げたあひる口が何だか憎たらしい。焦点を奥に移すと高速道路の外灯が等間隔に並んでいるのが見える。その点と点に沿って救急車だかパトカーだかのサイレンがひょっこり外壁から顔を出してチカチカ光りながら右から左へ流れていくのをぼうっと目で追う。すると、急に目の前に影が現れ、さっと手前に焦点を戻す。学生服を着た男の子ががちゃりと自転車のスタンドを立てているところだった。開いた襟元から覗く短く太い首がコンビニの照明を浴びてテラテラと光っている。彼が額の汗を腕で拭いながらドアへ向かうのを先ほどのサイレンのように目で追った。
ぐあーっという自動ドアの音とともに夏の空気が入り込む。るるるるる、と、微かに虫の音が聞こえた。虫の音はドアが閉まると同時にシャットアウトされ、その代わりに店員が声をあげる。侵入者の存在を仲間に知らせるように、そして、自分自身に言い聞かすように茶髪でピアスの男の店員が「いらっしゃいませ、こんばんは」。それに続いて長髪の男の店員も口を開く。イラッシャイマセ、コンバンハ。イラッシャイマセ、コンバンハ。信号のような言葉が静まり返った店内に響きわたり、微かな夏の香りを消し去る。染みひとつない真っ白な蛍光灯。冷えすぎるくらいの冷房。整頓の行き届いた商品棚。いつ来ても変わり映えのしない、平穏の守られた、守り抜かれた空間。ここでは時間がまるで意味をなさないように思える。朝も夜も、夏も冬も、あるようで、ない。そして、それはわたしの追い求める理想像のような気がしてくるのだ。天国だ、なんて思えてくる時すらもある。
◆
自転車を降りて、後輪を少し持ち上げスタンドを潜らせる。愛車の篤朗号二世は中学三年生のときにおばあちゃんが買い与えてくれたものだ。世間では広くママチャリと呼ばれる代物だが、僕は篤朗号二世をママチャリなんて呼ばないし、呼ばせない。艶かしい曲線を描くボディライン、それを濃厚なワインレッドが妖艶に彩る。内速3段切り替え、「低・平・速」。雨の日も完璧な効き目の後輪ワイヤーブレーキ。二六インチのタイヤには反射板が各四つずつ。きらめくネオンに応えて真っ赤な円を描く。雨にも負けず、風にも負けず、僕を乗せる篤朗号二世。僕の相棒。そして、おばあちゃんからの最後の贈り物。
サドルを優しく撫で、水道の柱にチェーンを繋ぎ、後輪に鍵をかけ、店に入る。ぐおーっという自動ドアの音と共に冷気が僕を包み込む。汗が一気に引く。体が乾いていく音が聞こえてきそうだ。店員がいらっしゃいませ、こんばんは、いらっしゃいませ、こんばんは、と馬鹿の一つ覚えのように言っている。急な光に眼球の奥がずんと痛む。効きすぎた冷房。眩しいくらい照明。天国、という言葉が頭の中にちらりと顔を覗かせる。入ってすぐ右の雑誌コーナーで涼みついでに立ち読みをしようとしたが、なんと、うちの学校の生徒がいることに気が付いた。これはいかん。しかもそこにいるのは以前、僕の下駄箱に投函されていたラブレターまがいの書簡に名前を載せられていた人物だ。確か名前は・・・そう、坂井。坂井葉子。僕はそのまま直進してレジを通り過ぎ、全くもって用の無いおにぎりコーナーに立った。
僕は学校以外で学校関係者との交流を極力避けるようにしている。今までの経験上、学校関係者は僕に不益しか与えない。現に今だって杉本のタバコの件で僕は頭を抱えているのだ。タバコなんて見つかったら即停学の危険物。そんな代物を自分の手を汚さず、僕にだけ危険な橋を渡らせるなんていう、えげつない目論見に僕は巻き込まれているのだ。勘弁してほしい。
しかし、どうやってタバコを手に入れればいい。現実問題、厳しいだろう。考えろ、考えるんだ。でなきゃ、杉本たちからひどい目に合わされる。この間みたいに家のポストに破廉恥な本をぎゅうぎゅうに入れ込まれるような事態が起こりかねない。ご丁寧に「斉藤君、貸してくれてありがとう」なんて紙切れを添えられていたあの一件。悔しいのはそのぎゅうぎゅうに本が詰まったポストを僕は確認していたことであった。しかし、慌しい朝の時間だったので構う事無く学校に行ってしまったのだ。あの時点で僕が確保していれば・・・。学校から帰って、部屋に入り、勉強机の上に積み重ねられた破廉恥な本の数々を目撃したときの衝撃ときたら。その後のママの無言の重圧ときたら。もう思い出しただけで吐きそうだ。本の詳細に関してはこの場で語るのはよしておこう。そして、机に詰まれた破廉恥な本を眺めて、若干、ほんの少し、すずめの涙ほどの歓喜の感情が僕の中に存在してしまったことに自分で自分を殴りたいほどであったが、知的好奇心旺盛な「若さ」に理性はひれ伏すしかなかったのであった。なんともお粗末な話である。
そんなことがあったのだ。僕が彼らを恐れるのもわかってもらえるだろう。僕の求める平穏が崩されるのだ。終わりに向かう安らかなはずの日々を脅かす、未来があると信じてやまない若者たちがもたらす災い。それが今の僕を取り巻く障害物。そして、そのひとつが今現在のタバコ問題。
◆
今年の夏の流行も大まか把握したところで雑誌を棚に戻した。来週末につぐみ達と買い物に行くことになっているのだ。一昨日にメールが来て、あれよあれよという間にメンバー、日取り、時間、待ち合わせ場所が決まっていった。何か一つ決まる事にかわいらしい絵文字や顔文字と一緒に情報が次々と寄せられた。目まぐるしく変わりゆく社会を現すように携帯電話の画面も目まぐるしく移り変わり、情報が運び込まれる。全部決まってからメールを寄こせばいいものの、「数」が最大の意味を成すわたし達の間では多くのメール、多くの絵文字、多くの顔文字、多くの行数、これらが最優先となる。量の増加は質の低下、必要以上の情報は混乱の元、そんなことは気にも留めない。それがわたし達を、わたしを救う術だと知っているから。非合理的な情報の応酬。それがわたしを守る盾でもあり、矛ともなる。そしてわたしは自転車に乗っている時に着たつぐみのメールをまだ返していないことに気づいた。が、帰ってから返信しよう。適当に風呂に入っていたとでも謝っておけばいいだろう。彼女らはどうか知らないが、わたしは彼女らが寄こすメールにほとんど意味がないことを知っている。そして、彼女らの存在自体も自分にとってさほどの意味を成さないことも知っている。それは「個人」としての見方であり、わたしを守ってくれる「集団」を作り上げる部品として考えると彼女らは必要不可欠だ。つまり、わたしはつぐみ達個人が好きなものに興味はない。しかし、彼女やわたしが所属する団体が好きなものには興味がある。極論を言うとこういうことになる。
透明な扉の中で冷気を浴びてキンキンに冷えたペットボトルが色とりどり、ずらりと顔を並べる前を通りすぎ、突き当りのお酒コーナーで左に折れて弁当コーナーに向かう。すると、先ほどの高校生がおにぎりを手に取っている。おにぎりが似合う体系だ。そんな風に思った。そして近づくにつれてその制服がわたしの高校のものだと気が付くのであった。このコンビニで同じ高校の生徒を見るのは初めてであった。同じ高校の人間が現れないということでこのコンビニで弁当を買っていたのだが、なんとも残念なことだ。わたしの砦が汚されてしまったような感覚さえする。ましてや、こんな肥満体系の男子に。
彼はわたしに気づくと体をこちらに向けた。落ち着きの無い目は右に左に泳いでいる。手にはシーチキンの三角おにぎりを握ってあり、心なしか、その手が震えている。そして、口を微かに開いた。ぼそぼそと何か言っているようだが聞き取れない。近づいていくと泳いでいた彼の目はさっと下に沈んでいった。彼の酸っぱい汗の臭いを感じるほどまで来たところでやっと聞き取れた。声は意外に高かった。
「さ、坂井さんだよね。」
私以外の人間がいないから私に話しかけているのだとなんとかわかるが、目線の先はわたしの膝小僧であった。続けてぼそぼそと言葉を放っている。
「あのさ、俺、隣のクラスの斉藤なんだけど、なんか奇遇だよね。」
俯いているので表情がよくわからないが口元は緩んでいる。何が奇遇なのだろうか、そもそも、わたしは彼のことなど知らないのであって、知り合いでもないのに奇遇なんていう言葉を使われるのは少々気味が悪い。斉藤と名乗る彼は一体誰なのだろう。
すると彼は急にポケットに手を入れた。妙にせかせかとした動きに身構えてしまったが、携帯電話を取り出しただけであった。そして、そのまま電話に出るのであった。液晶画面が顔にへばりついている。
「もしもし・・・え、今、コンビニだけど・・・う、うん、わかってる。すぐ行くから・・・・クールマイルドだね。・・うん、ごめん。」
身を小さくして口元を手で覆いながら話している姿がなんとも情けない。弱弱しい目が「敗者」という二文字に結び付けられる。こういう人間には関わらないほうがいい。そう感じられる。不の波紋が押し寄せるような気がするのだ。彼の後ろにあるレジに目をやると長髪の店員がレジの下で漫画を隠し読んでいた。時間が止まったようなこの場所で働く彼らは時間によって給料をもらっているのだろうか。そうなるとやはり、時間はどこでも流れていて、様々なものを支配しているのだなと、そんなことを思っていた。
◆
携帯電話を顔から離し、液晶画面が皮膚から剥がれる音が聞こえる。さりっという渇いた音が耳に残る。僕の心と体を引き剥がすような、そんな気がする音。しかし、そんなことが起こることもなく、そこには女子を前にしたこの状況を把握できずにいる僕がいた。話したこともない坂井葉子にどうして声なんて掛けてしまったのだろう。電話に出る前、僕は坂井になんと言っていただろうか、ただただ気まずい時間が流れるばかりだ。坂井の訝しげな表情が気まずさを引き立てる。
すると坂井は口を開いたのだった。
「誰?」
短く、切れがあり、語尾は強く。
「ああ、同じクラスの杉本から。」
「いや、電話の相手じゃなくて、あなたが誰かって聞いてるの。」
しまった。なんて頓珍漢な返答をしてしまったのだろうか。
「あ・・・えっと、隣のクラスの斉藤です。」
「そう、斉藤君。奇遇ね、こんなところで。じゃあ、おやすみなさい。」
そう言って坂井は踵を返した。ふわりとシャンプーの匂いがした。風呂上りなのだろうか。後ろ髪を艶やかに揺らしながら彼女は去って行く。しかし、妙なことに遠ざかる彼女の後姿は僕にとてつもない恐怖を与えたのだった。一人孤島に残されるような、狭い箱に閉じ込められて置いていかれるような、そんな恐ろしい感覚が頭を駆け巡り、お腹がつらつらと熱くなった。そして、信じられないことに僕は早足で坂井を追いかけ、シャツの端をちょいと摘んだのであった。振り返った坂井は眼をころりとさせ、驚いていた。
「坂井さん、お願いがあるんだ。」
僕は泣きそうな声で言った。自分でできないことは人に頼むしかない。なんでこんなに必死なのか、わからなかった。藁にもすがる思いとはこのことなのか、しかし、それにしては安いことで藁にすがってしまっている自分が恥ずかしい。きっと、杉本たちからの恐怖感がそうさせているのだろう、そう思った。汗で濡れたシャツが冷たい。全身に鳥肌が立っていた。冷房が効きすぎて寒い。彼女の目はまだころんとしたままだった。
「お願いがあるんだ、坂井さん。聞いてくれたら何でもする。」
僕は頭を下げた。ピカピカに磨き上げられた床に僕の情けない顔がぼんやりと浮かんでいた。坂井の意外に形のいい足も映していたが膝当たりからは僕の顔のようにぼんやりとしていた。客が来たのか自動ドアが開く音がした。すぐさま、「いらっしゃいませ、こんばんは」という店員の声が妙に耳に入ってきた。
◆
覇気のない店員からお釣りとレジ袋を受け取り、ドアの前に立った。自動ドアが開くと、ぬるい空気が肌に触れる。るるるるる、というこそばゆい虫の声と後方から聞こえるアリガトウゴザイマシタという低い声が重なる。先ほどまで暑いと感じていた外気を温かいと感じるのは冷たい冷たいコンビニエンスストアのせいだ。夏の日、プールで冷えきった体をタオルで包み込むような、ほのかに温かく、心地よい、そんな気分。包み込む夜の空気にわたしは妙な開放感を覚える。
思い出したようにカエルがぐあぐあと鳴き始め、それに急かされるようにわたしは自転車に股がった。ガサリとカゴにレジ袋を入れる。ペダルを踏み込むと袋は体勢を崩し、中のものを覗かせた。アイスとタバコが居心地悪そうに寄り添っている。
なんでこんなものを買ったのだろう。と、思わずにはいられないアンバランスさがそこにはあった。そのアンバランス具合は単にタバコとアイスだけに現れているようには思えずにいて、タバコとアイスを包むレジ袋、さらにはその袋を囲う自転車のカゴ、その自転車に乗るわたし、そのわたしが走るあぜ道、そのあぜ道が通るこの町。アンバランスの波紋は広がりに広がって様々なものを覆い尽くすような、世界の全てがあべこべのような、そんな気さえするのであった。腑に落ちない心持ちを振り払うようにペダルを踏み込む。風が心地よい。すると、前方にうっすらとした赤い光がふっと浮かび上がった。ほんの二メートル先までしか照らさない自転車のライトだが、その微かな明かりを受け止めてうっすら赤く光るものが前方にちらりと見えたのだ。その光は自転車のライトの具合で三つに光ったり五つに光ったりする。近づくにつれてぼんやりとした人影と地面に垂直に立つ二つの円がぼうっと見えてきた。そして、わたしは赤い光の正体が自転車の反射板だと悟ったのであった。人影の正体もおのずと理解できる。あの時に言ったとおり、彼は道の先で待っていたのだ。しかし、ずいぶん先で待っていたのだなあ。この距離なら、巻き添えを食わないだろうとでも思ったのか。せこい奴。せこい奴だ。
斉藤からタバコを買ってくれと頼まれた時は驚いた。同じ高校だからといっても初対面であるわたしに頼むことではないだろう。制服を着ているので買えないとでも思ったのか。どうこう言っても、わたしは切羽詰まった彼の表情の前に断ることはできなかっただろう。がしかし、懇願する彼が言い放った「タバコを買ってくれた何でもする」という言葉がわたしの心を大きく動かした決定打だった。「何でもする」なんていう言葉は日常生活の四方八方から耳にするが、彼の口から放たれた「何でもする」は疲弊した言葉達とは次元が違う何かが感じられた。「何でも」の中に無限の可能性があるような、月の裏側でも覗けるような、カンガルーの袋にでも潜り込めるような、とんでもない魔力のような魅力を感じたのだ。年甲斐もなく、わたしは胸が高まる思いがしたのだった。タバコを買うなんて容易いことだ。彼はきっと、あのコンビニの店員は高校生だろうと中学生だろうと平気でタバコ売ってしまうことを知らないのだろう。わたしはそんな光景を幾度も目にしている。わたしにだって売ってくれることはまず、間違いない。斉藤はタバコの銘柄を伝えた後、この先の道で落ち合おうと言って店を出て行ったのだった。わたしは弁当を買わずにアイスを持ってレジに行き、そして「あと、三九番のタバコも」この一言と余計に三二〇円のお金を払うだけで任務完了であった。彼の言った銘柄はよく知っている。多種多様な銘柄が並んでいても一目で見分けられる。それは母が吸っているタバコだったからだ。
◆
暗いあぜ道にぼうっと、白い光が見えた。光が瞬くのは自転車が右を向いたり左を向いたりしているせいだろう。
坂井は本当に引き受けてくれたのか、そもそもこっちに向かってきている自転車は坂井ではないのでは。あんなこと、誰も引き受けてはくれないだろう。法に触れることなんて誰がするだろうか。道の上にぼんやりとボーダーのTシャツが浮かび上がる。坂井だ。坂井は本当に来た。僕は手を振った。ちゃんとタバコは買って来てくれたのか。
キィーっという音が夜空に吸い上げられ自転車が止まった。坂井は自転車のスタンドを立てる。今度はガチャリという音が田んぼの泥に沈む。そして僕の膝は微かに震えていた。よくよく考えると、僕は女子と二人きりで会うことなんて初めてのことだったのだ。というか、女子と話すこと事態、中学校の時以来だ。しかも、こんな夜道で二人きりに。どうしたらよいのだろう、などと考えても逃げ場がない。彼女と向き合うしか道は残されていないのだ。こういう時はなんて声をかければいいのだろうか。そうこう様々な思考が頭を巡る中、「斉藤くん」と、か細い声が僕の名前を呼んだ。女子に名前を呼ばれることなんて久しくなかったので何だか変な気持ちだ。手に汗が滲む。
「ごめん、坂井さん、あんなこと頼んじゃって。大丈夫だった?ほら、僕、制服着てるしさ。だから、ちょっと買えなくて。」
少し、声が浮ついてしまった。
「別に何の問題もなかったよ。タバコでしょ。ちゃんと買えたから安心しなよ。」
大人しそうな感じのわりに坂井の喋り方はサバサバしている。暗い中で坂井の目がくっきり二つ浮かんでこちらをじいっと見ている。坂井はこちらに歩み寄って、袋からタバコを取り出し、僕に差し出した。僕は受け取っとろうとしたのだけれど、坂井はひょいっと、手を引っ込めた。
「ねえ、何か言うことあるんじゃないの。」
「あ、ごめん。ありがとう。」
それを聞いて坂井の手は再び伸びて、僕の手にタバコを渡した。想像以上の軽さと、まわりのビニールのつるつるした感触。タバコなんて生まれて初めて持った。しばらく眺めてポケットにしまう。
「ねえ、吸わないの?」
「え?」
「せっかく買ってきたんだから吸いなよ。」
心なしか意地悪そうな顔でニヤニヤと笑っているように見えたがきっと気のせいだろう。
「いや、その、ライター忘れちゃったみたいだからさ。だから、うん、帰って吸うよ。」
「あ、ちょっと待って、わたし、マッチ持ってるかも。昨日、喫茶店に行ったときに貰ってきたんだよね。」
坂井はポケットを漁りながらちらちらとこちらを見ている。坂井の後ろに構える山の上に浮かぶ三日月を僕は見つめた。目が泳がないように、一点を見据えておきたかったのだ。坂井のポケットからマッチが出てきたらどうしよう。そのことで頭はいっぱいだった。すると坂井は
「ごめん、そういえば、制服のポケットにあるんだった、マッチ。」
「あ、いいよ。別に今すぐ吸いたいわけじゃないしさ」
平常心を保ち、声が震えないように言った。
助かった。そう思った瞬間、坂井はにやりと笑って喋り始めた。僕を見る大多数のあの目。―――らくだの目。上から見下す、冷めた目で。妙に口角が上がり、かみ締め、味わうように、小さな口を開く度にきれいに並んだ歯を覗かせる度に、言葉を放った。
「ねえ、もういいよ。そんなしょうもない嘘つかないで。馬鹿馬鹿しい。あんた、あれなんでしょ、杉本とかいう奴から使いっ走りにされてるんでしょ。で、制服着てタバコなんて買ったら学校に知らされて停学になるんじゃないか、それで当然、親にも知れて大変なことになる。なんて思ってるところにわたしを見かけたから決死の覚悟で頼み込んだんでしょ。滲み出てるのよ、負け犬のニオイが。変に見栄張らないでよ、気持ち悪い。」
嗚呼、そういう人だったのか、この娘は。変に浮かれていた僕が馬鹿みたいだ。聞き慣れているのだが「気持ち悪い」という言葉に喉の奥の方がくんとなった。坂井は続ける。
「ねえ、あんた、コンビニで言ったこと覚えてる?忘れるわけないと思うけど『何でもする』って言ったでしょ。ホントにしてくれるのよね、何でも。」
こういうのは慣れてないことはないがやはり胸が苦しい。僕は俯いたまま頷いた。空高く、遥か上空に飛行機が飛んでいる音が微かに聞こえる。目を瞑っているせいか蛙や虫の音が鳴り響く中でも聞き取ることができた。そして、嗚呼、空を飛んでどこかに行けないかな、なんて小学生の時のような妄想を抱くのだった。
そして、こんな時に限って、あの声が聞こえてくるのだ。あの声が頭に突き抜けるんだ。決まってこんな時に。
◆
言葉がするすると出てきた。不思議なくらいに。目の前には意気消沈した斉藤が頭を垂れている。身を小さくしているので余計に太って見える。顎が首の脂肪に乗っている。「何でもする」を承知させたものの、一体何を要望しよう。そもそも、わたしが望むこととは何だろう。お金、服、靴、大学の推薦、平和な毎日、如いては世界平和。いや、そんなことはどうでもいい。わたしにとって世界はわたしのまわりだけ。わたしと母と兄と。そして、わたしを囲む人達。この町。この町の人々。それだけで十分すぎるくらいだ。十分すぎるほど広い世界。そうだろう。
そんなことを考えていると沈黙を生むことになってしまった。どれくらい斉藤と向き合っているのだろうか。そんなに長い時間は過ぎていないとは思うが、アイスの入ったレジ袋は汗をかいて、その水滴が足に移り滑り降りた。温い風が吹き、サワサワと木が鳴る。その瞬間、俯いていた斉藤は空に向かって大きく手を広げた。思いがけない彼の行動にびくついてしまう。足が動かない。鼓動が速まり腹の中がかーっと熱くなる。目がちかちかする。彼はそのまま背を向け、右に左にと微調整して向きを定めている。一体、何をしているのだろう。背を向けてくれたおかげで少々冷静にはなれたが、胸は未だにばくばく鳴っている。しばらくして、彼はぴたっと位置を定めたと思うと頭を下げて目を閉じた。瞑想をするように静かに呼吸をしているのが、彼の背中でわかる。わたしはそれをただただ見つめるだけで何もできない。その場から離れることもできない。駅前でティッシュを配る人でも見るように、公園のベンチで寝そべるホームレスを見るように。妙な光景のような、ありふた光景のような、そんな風に彼を見ていた。本当に彼の行動をただただ見つめるしかなかった。
しばらく経って、彼は手を下ろし頭を上げるとこちらを振り返った。再び鼓動が速まる。恐怖に似た感情が体中を駆け巡る。いや、これは紛れも無い恐怖だ。よくよく考えてみれば、こんな人気のないあぜ道で何があっても助けを呼ぶことはできない。巨漢の斉藤に捕まればわたしの抵抗なんて無力だろう。使いっ走りのデブだと思っていた斉藤は異常者だったのかもしれない。いや、あの行動を見る限り正常ではない。ならば異常と言えるのだろう。昔見たニュース、少年犯罪の被害者が頭の中でわたしと重なる。最悪の結果を予想する。また一滴、水滴が足を滑り落ちる。ぞくりと寒気が身体を駆け上る。斉藤はなぜだか微笑んでこちらを見ている。その暗闇に浮かぶ丸い顔が尚更、恐怖を与える。鼻の穴を開き、肩で息をしている。興奮しているのか。斉藤の口が開いた。ぽっかり姿を現した暗闇が開いたり閉じたりしている。何か言っているのか。しかし、耳に入らない。口は塞がれた。そして、もう一度開いた。
「坂井さん、今の聞こえた?」
「え?」
斉藤の突拍子もない言葉は一瞬、恐怖心をも吹き飛ばすほど不可解だった。
「だから、さっきの声だよ。」
「え?」
再び聞き直す。斉藤は何を言っているのか、わたしにはこれっぽっちも理解できない。というか、理解しようがない。わたしが黙っていると斉藤は続けて喋った。
「今、久しぶりにあの声が聞こえたんだよ。五日ぶりかな。やっぱり他の人には聞こえないんだ。そうか、じゃあ、このことから話さなきゃいけないんだね。とても残念なことなんだけど、実はね、もうじき地球はなくなるんだ。」
頭が真っ白になった。何を言っているのか。彼はそんなことを本気で信じているのだろうか。声が聞こえたとか言っているが、わたしには一切聞こえていない。彼の幻聴だろう。幻聴。幻聴を聞く人なんて初めて見た。そして、先ほどの恐怖が再び蘇ってくる。斉藤はおそらく精神をおかしくしている。だがしかし、決めつけるには早いかもしれない。ひょっとすると温暖化や食糧危機、もろもろの環境問題について彼は述べているのかもしれない。それをあんな表現で言ってみたのでは。「地球が泣いてる」なんていうような表現の一種なのではないか。さっきの行動は地球の声に耳を傾けたとかそういうことなのではないか。それならば納得もできる。
「それって、このままでは環境汚染とかが原因で地球が滅びてしまうっていうこと?」
「あはは、何それ。もうじき彼らがやってくるんだよ。それで地球は終わるんだ。」
「彼らって?」
「金星人。」
本当に何を言っているのだろうか、彼は。小説や映画の世界と現実との区別がつかなくなっているのか。そんな呆れ返ったわたしとは裏腹に彼は今までにない明るい表情。輝く目には安堵と希望が渦巻いている。夏休みを目の前にした小学生のような、そんな目だ。
「坂井さん。だからさ、学校とか勉強とか、もうそんなの関係ないんだよ。世界全体が消えてなくなっちゃうんだから。」
滅茶苦茶なことを言っているくせに、なんだか、妙に魅力的な話のように思えるのは気のせいだろうか。彼が指す「世界」とは地球全体のことなのだろうか。それとも、この寂れた町のことを差しているのか。しかし、こんな馬鹿げた話に付き合っている場合ではない。意外にも斉藤の悲しいくらいに幼稚な話はわたしを冷静にしてくれたのだった。
「そう。それは大変だね。世界が滅ぶのはわかったから、滅びる前にさっきの約束を果たしてね。」
「うん、別にいいよ。でも、期限は五〇日以内だよ。さっきの声が言ってたんだ。あと五〇日だって。」
まだ言ってる。そんなことばかり言ってるから使い走りにされるんだ。それとも、使い走りにされてるからそんなことを言い出したのか。まあ、どうでもいい話。玉子が先かにわとりが先か、そんなこと知ったこっちゃない。
「わかった。五〇日以内ね。でも、今はおねがいが思いつかないから、あとで伝える。良かったら斉藤の番号教えてよ。」
「え?」
斉藤は口元を緩ませた。今まで女子に携帯の番号を聞かれることなんてなかったのか、よっぽど嬉しいのだろう。顔から喜びが滲み出ているのが憎たらしい。「今すぐ死んでくれ」とでも頼もうか。いや、それではわたしへのメリットが少なすぎる。
袋のアイスはほとんど溶けてしまっただろう。斉藤の分まで用意していたのだけれども、そんな気を利かせていたわたしが恨めしい。
◆
ペダルを踏んで、車輪を鳴らして、僕は風を切っていた。あと一〇分で来いと杉本から電話が入ったからだ。あの場所からではどんなに飛ばしても十五分はかかる。無理だと言ったが聞き入れないのが杉本。そして僕は槍のようにあぜ道を突き進んでいる。汗でハンドルを握る手が滑る。息が苦しい。目がちかちかする。身体全体に疲労の泥がまとわりついた頃、やっと、ぽつんと明かりを灯すファミレスの看板が目に入ってきた。シャツはまた汗でぐっしょりだ。ペダルを踏み込む足に力が入らない。ハンドルを引きつけて踏み込む力を補おうとするがぬるぬると滑ってしまう。体がぐらつく。
やっとのことでたどり着き、鍵もかけずにファミレスに入った。涼しい店内のおかげで汗が一気に引いていく。「お一人様ですか?」というウエイトレスの声を無視し奥の喫煙席めがけて走った。しかし、そこには三〇代くらいのいい年をしたカップルと、作業服を着た若い男三人組がいるだけだった。禁煙席の方にも入ってみたが、親子連れが何組かいるだけだ。なるほど、そういうことか。ようやく状況が読み込めた。杉本達はとっくにファミレスを出ていたのだ。いや、最初からファミレスになんていなかったのかもしれない。
店を出て杉本に電話をかけた。トゥルルルというコール音が耳に入る。訝しげにこっちを見ているウエイトレスとガラス越しに目が合ったので背を向けた。
「あ、インベーダー。どうした?」
わざとらしく白々しい声。くすくすと笑い声が聞こえる。他の連中もまだ一緒にいるみたいだ。
「今、ファミレスに着いたんだけど。」
「え?着いたの?ファミレスに。なんで?」
それを皮切りに周りの奴等がゲラゲラと笑い始めた。明るい店内の光が僕に長い影を作っている。それを眺めながら彼らのふざけた笑い声を聞き流した。ぼんやりとした影がさらにぼやけてきた。なんて情けないのだろうか。
「あのさ、インベーダー。実はノートさ、高田さんにコピーしてもらったから、もう大丈夫だから。」
「あ、そうなんだ。」
「で、タバコなんだけどさ、あれは頂戴。」
あはは。そりゃそーだ。なんて声が聞こえる。あの声は北崎か。
「今から?」
「もちろん。今、北崎の家にいるから届けて。」
「え、北崎くんの家ってどこ?」
「学校のすぐ近く。」
おい、まるっきり反対方向じゃないか。僕の家が丁度中間地点。自転車でざっと四〇分。
「じゃあ、よろしくー。」
そう言って電話は切れ、僕は再び愛車の篤朗号に跨った。月が幾分傾いたような気がするが、これは気のせいではなさそうだ。
ついさっき通った道をまた走るのはなんとも言えない切なさだ。坂井と落ち合った場所を通り過ぎた。そういえば、坂井はなんであんな口約束を本気にしているのだろう。その上、番号まで聞いてきて。わざわざタバコを買ってもらったのだから何かお礼はしなければいけないだろうけど。あ、そういえばタバコ代を渡しそびれた。まあ、連絡が来たときでいいかな。そうこう考えながら先ほどのコンビニの前を通り過ぎた。煌々と輝くコンビニに足が向きそうだったが思いとどまった。さっきのこともあって、なんだかばつが悪い。
やっとのことで学校の近くまでたどり着き、杉本に電話して北崎の家を教えてもらった。北崎の家は本当に学校の近くで、歩いて五分程の距離にあるマンションだった。マンションの下まで着いたところで再び電話をかけ、しばらくすると、まだ学生服の杉本が現れた。タバコを渡すと、杉本はすんなりと僕を開放してくれた。もう一悶着あるのではと思っていたので正直拍子抜けであったが、案の定、ねぎらいの一言もなければ、タバコ代も支払われなかった。それでもやはり滞りなく帰してもらえるだけいいでも儲けものだ。
帰り道はどっと疲労感に襲われた。一体、どれだけの距離を走ったのだろうか。もうすぐ日付も変わってしまう。体は疲れている割に不思議と足はテンポ良く交互に出てくる。動きが体に染み付いてしまったのだろうか。一安心したところで頭の中にさっきから気がかりな坂井の顔が浮かんだ。そして、坂井のことを思った。
生まれて初めて女子に番号を聞かれたけど、坂井はどうしてあんな口約束にこだわっているのか。やはり引っかかる。無理してタバコを買ってまで僕にしてほしいことでもあるのだろうか。ん・・・、待てよ。ひょっとして、坂井って僕のこと好きなのかな。いやいや、そんなこと有り得ないだろう。でも、万が一ってことがあったら僕としてはむしろ全然オッケーなんだけどな。あ、でも、坂井の番号は聞きそびれたな。察してあげればよかったかな。悪いことをしちゃったな。そんなことが浮かんでは消え、浮かんでは消え、消えきれなかった屑が確実に頭の中を侵食していった。それと比例するように僕の胸も高まった。その屑はきっと世間一般で言う希望なのだろうと、それからしばらくして気が付いた。
坂井との間であり得そうな、あり得そうもないようなことを思い浮かべているうちに家に着いた。あっという間だった。似たような家が立ち並ぶ住宅街の一角に僕の家はある。何でもローンがあと三〇年程あるそうだが、その前にお父さんが定年を迎えてしまうがそんな話は知ったことではない。せっかく建てたマイホームだけど、今、住んでいるのはお母さんと僕だけだ。お父さんは三年もしないうちに単身赴任で仙台に行ってしまっているのだった。
篤朗号に鍵をかけて家に入った。お母さんはいつものように出迎えてくれたがなんだかいつもと様子が違う。確かにこんな遅くまで出歩いたことなどなかったので心配していたのだろう。
「隆ちゃん、ちょっと聞きたいことがあるんだけどいいかしら?」
「いいけど、どうしたの急に。」
「お母さん、パソコンのこととかよくわからないんだけど、さっき電話があったのよ。なんでもアダルトサイトの人とか名乗ってきてね、その・・隆ちゃんが利用しているって言うのよ。それで、使用料金が支払われてないって。」
何を言っているのだろうか。身に覚えもない。お母さんは続けた。
「ほら、でも最近テレビとかで振り込め詐欺っていうのが流行っているっていうしね。それかと思ったの。でも、お母さん、パソコンのことわからないし、隆ちゃんがパソコンで何をしているかもわからないから、どうしていいのかわからなくて。」
「それでどうしたの?」
なるべく、感情がでないように、声を押し殺した。
「とりあえず、口座番号だけ控えさせてもらってね、もし、本当なら明日銀行に行って振り込もうかと思ってるの。ねえ、隆ちゃん。お母さん怒らないから本当のことを言って。」
何を考えているのかお母さんは。そんなことあるはずもないだろう。実の息子を疑っているのか。僕は夜な夜なアダルトサイトを覗いている陰気な引きこもり野郎だとでも思っているのか。心外だ。確かに何度もアダルトサイトを覗こうと試みたが、「あなたは十八歳以上ですか?」という警告に逆らうことができなかったのである。そんな度胸などないさらさらない僕だ。有料アダルトサイトから請求などあるわけがない。
「お母さん、本気?僕、そんなことしてないよ。それ絶対振り込め詐欺だよ。」
というか、その犯人もおおよそ予想がつく。しかし、そんなこと口に出したらさらにややこしいことになってしまう。
「そ、そうよね。ごめんなさいね、疑ったりして。ほら、お母さんパソコンのことわからないから。」
「うん、いいよ別に。だから電話のことはほっといたほうがいよ。」
「そうね。でも、隆ちゃん、本当にパソコンでいやらしいことはしてないのね。」
いやらしい?いやらしいことって何だ。「いやらしい」なんて言葉がお母さんの口からでること事態、気分が悪いのに、それが僕に向けられていると思うと反吐が出そうだ。
「そんなことするわけないじゃん。」
いつにもなく大きな声を出してしまった。
「そ、そうよね。ごめんなさいね、お母さん、パソコンのことよくわからないから。」
パソコンのことがわからなければ人を疑ってもいいのか。さっきから何回同じことを言っているのだろうか。
「いいよ、別に。」
そう言って僕は階段を上って部屋に入った。後ろ手でドアを閉めたとたん、安堵と落胆で涙が出そうになった。いや、実際に涙がぽろぽろと頬を伝っていた。
確実に杉本達の仕業だ。自宅の電話に架空請求が来た話など聞いたことがない。そもそも、もし、有料サイトに登録することがあったとしても実家の番号など書き込むわけがない。携帯の番号だろう普通。なんて卑劣な真似をしてくれるんだ、親に自分の性生活に触れられるなんていう辱めを受けるなんて!
そのまま布団に潜り込み、早く朝が来れば、と願った。いや、朝なんて来なくていい。眠りに落ちられれば。夢の中に行ければ。そう願った。夢と現実を行き来していた心地よい時、ムームーというバイブレーションによって一気に現実に引き寄せられた。杉本だろうかと携帯を開くが画面には非通知番号の文字が。
「・・非通知・・・?」
きっと杉本達がまた何か企んでる。そう思って電話を閉じ、再び目を閉じた。
◆
斉藤は電話を取るなり、わたしのことなど気にもかけずに自転車に跨ってどこかに行ってしまった。わたしはしばらくぼうっと突っ立っていたが、お腹も空いてきたので帰ることにした。心細さも帰る理由としては少なくはなかった。
家のドアを開けて電灯のスイッチを押す。暗闇の中でも迷わずスイッチを押すことができるほどこの家との付き合いは長くなっていた。チ、チカっと時間差で灯りが殺伐とした家を照らし出す。埃が舞っているのが見て取れる。その埃が積もり積もった床。奥に進めば進むほど雑多に物が積み重ねられ、思い思いに転がっている。そこはリビング。カップラーメンの容器、ピザの空箱。ペットボトル。空き缶。漫画に本に教科書、ノート。ダイレクトメールの山。コンビニのレジ袋。駅前で配っていたポケットティッシュ。スーパーでもらったシャンプーの試供品。片付けろと言われたらものの三〇分で片付けられるだろうが、それができない。それをしない。散らかっているものは捨てるものしかない。ゴミ袋を取り出して遮二無二袋に突っ込めばいい。この部屋全体が大きなゴミ箱なのだ。唯一、荒れ果てたリビングの中で平穏を守っているのがちゃぶ台で、その上だけはこまめに台拭きで拭いているため、埃が目立たない。リビングの真ん中にぽつんと立つちゃぶ台は神聖なようであり、異端のようでもある。そのちゃぶ台の前に座り、どこかに埋もれているだろうピザ屋のチラシを探した。デリヘルや消費者金融、引越し、市政だより。この中から探し出すのは至難のように思われるが、郵便物やチラシを放り投げる際には大まか、種類によってエリア分けをしている。店屋物コーナーは壁側と決まっているのだ。怠惰のようで実は理にかなっている部分もあると、わたしは信じてやまない。四つん這いで壁に向かって二、三歩進むと目の悪いわたしにもピザが幾つも並んだチラシを寿司屋のチラシの下から覗き見ることができた。もう一歩進めばいいところを、右手を精一杯に手を伸ばしてそれを取ろうとした。しかし、あいにく力尽きてぺたりと倒れこんでしまったわたし。ガサリといくつも紙が擦れる音がする。ひんやりした感触が頬に心地よい。目を閉じた。すると一日の疲れがどっと巡ってきた。じわじわと床に吸い付けられるような、このままでいると床に体が埋もれてしまうような、そんな感覚。眠気で体が痺れる。力が抜ける。ふと、目を開けると丁度、顔の下敷きになっている封筒に見慣れた字。ピントのぼけた具合で飛び込んできた「坂井葉子様」。ああ、この字は母の字。わたしの意識は今にも刈り取られそうで、うつろうつろだった。
三日程前、母から手紙が来た。そうそう珍しいことでもない。母はひと月に一度は決まって手紙を寄越す。筆まめなのか、暇なのか、義務とでも思っているのか。決まって月の一週目に送られてくる手紙の内容はいつも代わり映えがしない。季節の話から始まって彼女の近況報告。それから返ってこないと知りながらもわたしへ投げかける質問の数々。元気か、から始まり、ボーイフレンドはできたのか、なんていう浮かれたものや、進路はどうするのか、なんていう気が重くなるもの。手紙の最後の方は決まって母の若い頃の話。「お母さんがあなたくらいの年の時は」このフレーズが三回は登場するのだ。そして、手紙には決まって兄の話が出てこない。兄宛の手紙などもない。手紙はいつも決まって私にしか宛てられないのだ。
わたしには三つ年上の兄がいる。物心ついた時から兄はいつもわたしの側にいた。どこにいるときも何をするときも辺りを見渡せば必ず兄がいたのだ。別にわたしが兄に付きまとっていたのではない。兄がわたしの側を離れようとしなかったのだ。それは端から見ても、わたし自身から見ても異様な執着であった。いや、傍目からは妹想いの兄としか映っていなかったのかもしれない。しかし、それはわたしが小学生までの話。わたしが中学に上がるのと同時にわたしは兄の異常な愛情を認知することとなったのだ。わたしが中学に上がると同時に兄も高校に上がったのであるが、兄は頻繁に授業を抜け出してわたしの姿を覗きに中学校に忍び込んでいたのだ。それまで、わたしの通う小学校と中学校は隣接していたのだが、兄の通っていた高校は電車で四〇分かかる隣の市にある男子校であった。
兄の異常なる行動はあっという間に教師にバレて問題となった。母は呼び出され、わたしと兄の三人は教師から厳重に注意を受けた。しかし、それまでのわたしは兄が中学校にやって来ることを怪訝に感じるどころかむしろ喜ばしいことだと思っていた。今になって分析してみると、半ば強制的に、いや、必然的に幼少の頃より演技ぶった母を冷徹な目で見ること余儀なくされ、そのため、自然と世間に対しても冷ややかになっていたわたしであったが、必要以上に外に目を向けている分、内側、ことさら兄のこととなると客観性を欠いていたのであろう。がしかし、このことより兄を客観的に見ることができるようになり、わたしはさらに「正常」を得ることができたのだった。兄の「異常な愛情」おかげでより「正常な人間」に近づくことができたのだ。母の異常、兄の異常が正常なる今のわたしを作り上げていったといっても過言ではない。
しかし、母が家を出て行く前だったか後だったか、部屋に引きこもり気味であった兄が本格的に引きこもるようになったのだ。部屋から一歩たりとも出なくなったどころか、一つ屋根の下で暮らしているにも関わらずわたしはこの三年間、兄の姿を見ていないのである。兄の部屋には鍵がかかっていて入ることはできない。食事も入浴も排泄もわたしが学校に行っている間、もしくは出かけている間に済ませているようだが、何をするにしても痕跡を残さない兄の完全なる仕業は魔法のようであった。彼が何をしたのか全くもって悟らせない。流しを見渡しても皿を使ったようでもあるし、使っていないようでもある。皿に水滴ひとつ残らずに拭きあげているのか。しかし、布巾はからっとしていて使った形式もない。トイレだってわたしが三角に折ったトイレットペーパーを寸分の狂いもなく再現している。そのトイレットペーパーもまた減っているようでもあるし。減っていないようでもある。兄の影ならぬ影と暮らしているような、そんな感覚。そんなことなので母は幽霊のようになってしまった兄について触れないのかもしれない。ひょっとしたら彼女は本当に兄のことを忘れているのかもしれない。一緒に住んでいても存在の有無が怪しいくらいだ、忘れていても無理はないかもしれない。
重たい体を起こし、封筒を手に取った。差出人は坂井幸子。もちろん母の名前である。差出人の名前はいつ苗字が変わるやもしれないので毎回確認することは欠かせない。住所は福岡県になっていた。家を出て行ってからというもの母の住所は徐々に徐々に南下していっている。三ヶ月前の手紙から住所が福岡になっていた。その前は広島だった。それは半年くらいで、その前は京都。そこが一番長くて一年近く居座っていたようであった。それより前は、忘れた。
封を切って中を読んだ。文字を目で追うごとに眠っていた頭は覚醒していった。脳の血管一つ一つ、毛細血管の末端まで血が行き届くような感覚がする。手紙を読み終え、一緒に入っていた三枚の一万円札を見つめ、わたしは携帯電話を取り出した。
トゥルルルという呼び出し音が何度も耳に入る。繋がるまでしつこくコールしたが留守電に切り替わった。その時点で電話を切った。携帯を投げ捨て再び床に横になった。冷たい床が気持ちよかった。
◆
遠くの船を、大きな雲を、流れる電線を、たゆたう海を、窓に寄りかかってただただ眺めていた。視線を前に向けると、向かいの席に座っている坂井も同じように窓の外を眺めている。
どうしてこんなことになったのだろう、そう思いながら僕は再び窓に目を向けた。辺り一面橙に染まっている。日が沈み始めていた。お母さんになんと言えばいいのだろう、明日の学校はどうなるのだろう、そもそも、なんでこんなことになったのだろう、坂井を見る。相変わらず窓の外を眺めていた。僕はそんなことをさっきから何十回も繰り返していた。
「あと、二駅で乗換えだから。」
坂井は口だけ動かして言った。
「うん、わかった。」
いや、僕は何もわっかちゃいない。なんでこんなことになったのだろう。今日の午後のことを思い出す。
今日、数学の試験の結果が出た。杉本たちにノートをせがまれた数学の試験だった。坂井と会ったあの晩の翌日に受けた試験だ。解答用紙が返却されたとき、僕は驚愕した。全身の毛穴という毛穴が開くほどの衝撃だった。なんと、結果は0点だったのだ。人生初の0点に目眩がした。こんなことってあるのか、何かの間違いだろう、夢だ、夢に決まっている。そう思い込んだが、何の間違いもない、紛れもない現実だった。なぜ、こんなことが起こったのか。なんのことはない、名前を書き忘れていたのだ。杉本達に振り回された疲れが残ったまま受けた結果だ。きっとそうだ。杉本を死ぬ程恨んだ。見事に0点。この事実が消えるなら僕の頭上に隕石が落ちてきてもいいとすら思った。それが今日の午後の話。
肩を落とすとはこのことかと思いながら賑やかな声がこだます廊下をとぼとぼと歩いて、下駄箱で靴を履いていた。
「斉藤、なんで電話に出ないのよ。」
急に話しかけられて振り返ると坂井がいた。坂井を見るのはあのコンビニで会った時以来だ。電話?なのことだ・・・。しかしすぐに、あの日から何度か非通知で電話がかかってきていたことを思い出した。ああ、そうか、あの非通知の電話は坂井だったのか、杉本だとばかり思っていた。
「あの、非通知の電話って坂井さんだったの?」
「そうよ。」
「なんで非通知なんかでかけてきたの?」
「そりゃ、あんたに番号知られないためでしょ。ところで、あのこと覚えてるよね。なんでも言う事を聞くってやつ。あれ、今日使わせてもらうから。今から着替えて十六時に駅に来て。できるだけ小さい鞄に最小限の着替えを詰めてね。」
「え?着替え?」
坂井の突拍子もない話に困惑した。
「細かいことはいいから。時間厳守ね。」
そう言って坂井は髪を揺らしながら去っていった。時計を見ると、もう少しで十五時といったところ。おちおちしていられない時間だった。
幸いお母さんは出かけていた。とにかく旅行鞄を探し出し、着替えを詰め込み家を出た。篤朗号に跨りペダルを踏んだ。空はもうすっかり夏模様だ。木漏れ日がちらちら腕を照らすのを見ながら駅に向かう。なんだか、胸が高まるのは気のせいだろうか。きっと迫り来る夏のせいだろう。夏は嫌いなはずなのに、毎回、やってくる前にはなんだかドキドキしてしまう。子供の頃からの条件反射だろうか。僕はもう夏が来たくらいで一喜一憂している年ではないのだが。悲しい性だ。
駅の駐輪場に自転車を停めて改札口に向かった。僕の町の駅はローカル線のうちの一駅で、夜になると無人駅になる。ホームが一つしかない小さな駅だ。坂井は帽子を深く被って券売機の横に設けられているベンチに座っていた。白くてふわふわした長いスカートの中で伸ばした足を左右交互に上げたり下げたりして遊んでいる。せわしなく動くつま先を見つめながら、首を少し傾けている。垂れた髪が顔の半分を隠していた。道路の向かいに僕の姿を見つけると坂井はさっと立ち上った。私服の坂井は制服姿よりも小さく見える。だけど随分大人っぽい。小走りで道路を渡って坂井のもとに寄る。駅の時計に目をやると十五時五〇分。一〇分前行動は旅の基本だ。いや、旅と決まったわけではない。あの時まではそう思っていた。
「じゃあ、行くよ。それと、その大きな鞄、途中で捨てるから。」
坂井は修学旅行を先導する教師のように言った。
「え?何で?」
「大きい鞄なんて持ち歩いてたら家出少年かと思われるでしょ。あと、その服装もやめてくれる?恥ずかしいから。とりあえず、シャツは出そうか。」
言われるままにシャツを出したが、僕はいつもシャツを入れているのでちょっと抵抗があった。格好つけてるみたいで恥ずかしいのだ。スースーしてなんだか落ち着かない。家出という言葉が妙に引っかかったのだ。
それからは怒涛の移動だった。乗り換えに継ぐ乗り換え。坂井に言われるまま下車しては乗車して、ホームを走り、階段を登った。二つ先の駅までの切符しか買っていないが大丈夫なのだろうか。そのことを坂井に言っても相手にされず坂井はひたすらに進んだ。僕もそれについていくしかなかった。途中の駅で本当に鞄を捨てられ、最小限の荷物を売店で買った紙袋に入れた。今僕がどこにいるのかどこに向かっているのか全くわからない。とりあえず、ひたすら下りに乗っているので西に向かっているようではあった。静岡だとかを通り過ぎたところからして僕らはとんでもなく遠くに行っていることは確かだった。しかし、特急などには乗らず全部、鈍行だ。
ところで僕はどうして電車に乗っているのだろうか。坂井と
「ねえ、坂井さん。どこに行ってるの?」
何度もしたこの質問を再び投げかけた。坂井は答えない。ただずっと窓の外を眺めている。
「斉藤、コアラのマーチ食べる?」
やはり、あの質問には答えない。しかし、小腹が空いたところだ。
「あ、うん。食べる。」
「じゃあ、次の駅の売店で買ってきてよ。車両切り離しで一〇分くらい停まるらしいから。」
「え?」
坂井は五〇〇円玉を渡して
「おつりでコーラも買ってきて。あんたの分も買っていいから。」
そしてまた口を閉じた。流れる車窓が坂井の目に映りこんでいる。
窓のほうに目をやると暗くなりだしたせいで、今度は窓に坂井の顔がぼんやり浮かんでいた。
次の駅で坂井に言われたとおり売店に行きコアラのマーチとコーラを二本買った。缶のコーラを買ってきたことで坂井に怒られた。
ところで僕はどうして電車に乗っているのだろうか。坂井なんかと。
◆
辺りが暗くなり始めた。窓に車内の蛍光灯が映っている。わたしの顔もうっすらと浮かび上がる。こう暗くなっては目で追うものがなくなってきた。色々なことを忘れて風景を眺めるのはいいものだ。いつもしていることだが、車窓というものは一味違う。いつも教室から眺める風景とはてんで違うのだ。教室からの風景が舞台演劇ならば、車窓は映画だ。絶えず舞台は移り変わり、音や光がわたしを刺激する。向かいに座っている斉藤は相変わらず不安げな表情で窓の外を見ている。少なくとも斉藤はこの風景を楽しめてはいないだろう。可哀相なやつ。「どこに向かっているのか」斉藤からこの質問を何度もされた。もちろん、目的地はある。しかし、今はまだ答える気にはなれなかった。わたしは流れ流れゆく光景をただただ目で追っていた。
すっかり夜になると乗客が増えてきた。部活帰りの高校生たちが汗と砂の臭いをまとい、くたびれたサラリーマン達はつり革に全てを預けたようにしがみついている。サラリーマンとは打って変わってOLは携帯をひたすらにいじって、これからが本番といわんばかりに目には精気が宿っている。夜が深くなるに連れて人間臭さが車内に満ちてくる。
少し欠けた月が空高くい腰を据えた頃、飲み屋帰りの乗客も現れだし学生の汗の匂いにアルコールの匂いも混ざりこんできた。赤黒い顔をした中年の男たちは何がそんなに面白いのか、ひたすらに笑っている。停まっては人を吐き出し飲み込んでいる電車。あと三駅で名古屋だ。今日のところは名古屋で一晩を過ごすつもりだ。本当はもう少し進めたのだが、名前も聞いたことのない街で下車するのは気が引けたのだ。名古屋に行ったことはないが、大都市ということくらいは知っている。大都市ならば何かしら夜を越せる施設はあるだろうと踏んだのだ。ぽかんと口を開けて居眠りをしだした斉藤がとてつもなく間抜けに見える。いや、こいつは間抜け以外の何者でもない。斉藤の足を揺すった。びくっと体を起こして辺りを見渡し、わたしを見て落ち着きを取り戻したようだ。
「ごめん、寝てた。」
「次の次の次、名古屋で降りるから。」
「え・・・、名古屋?」
「そう、名古屋。」
斉藤の目も言葉もまだぼんやりしていて名古屋と聞いてもはっきりとは理解していないようだ。それにしても斉藤にはちょっと悪いことをしている気がする。がしかし、まあ、いいだろう。それにもう後戻りはできそうもない。斉藤にとっては乗りかかった船。最後まで乗っていただこう。沈没しようが、どうしようが。
名古屋は思った以上に都会だった。多額の乗り越し清算を済ませて改札をくぐった。駅ビルは巨大な煙突のような形の建物が二つ、夜空に聳え立っている。あちこちにネオンが光り、デパートだろう建物は閉店しているというのにショーウィンドウは煌々と光っている。目を見張るモダンな建造物もあちこちにある。道は広く、当然、人も多い。全体的な感想としては「派手。」この一言に尽きる。建物にしても人にしても派手でけばけばしい。しかし、エネルギーに満ちている。そんな街だ。
わたしは生まれて初めて「未踏の地」に一人で降り立つことの不安と興奮の中で地に足が着かずふわふわとしていた。いくら歩いても硬いアスファルトを踏んだ気がしないのだ。いや、一人ではない。そういえば、連れがいた。その連れはようやく自分の置かれた状況を飲み込んだようで、驚愕の色を隠せていない。挙動不審にあたりを見まわしては感嘆詞をひたすらに垂れ流している。
「坂井さん、さっき通り過ぎた人、ホントにみゃーみゃー言ってたよ。」
この一言でさっきまでのわたしの後ろめたさは消え去った。こいつはこれでよかったのかもしれない。これくらい能天気ならば問題ない。歩くにしたがってすれ違う人並みが、斉藤を巻き込んだことやさまざまな不安を拭い去っていく気がした。ビル郡のおかげですっかり狭くなった夜空にはさっきの月が窮屈そうに居座っていた。
雑踏とネオンに絡まりながらわたしの心は澄んでいく。いろいろなものがクリアに見え始める。とりあえず、今晩過ごすインターネットカフェを探した。あまり資金がないこと、わたしたちが未成年であることからインターネットカフェが無難であろうと思ったのだ。フロントを通さなくて泊まれるラブホテルも思い浮かんだが、斉藤と一つ屋根の下で一晩を過ごすのは死んで嫌だった。斉藤と同じ風呂を使うこともトイレを使うことも嫌だ。そしてやはり一番心配なことは斉藤に変な気を起こされては困るということだ。斉藤の巨体にかかればわたしの力などこれっぽっちもおよばないだろう。まあ、斉藤にそんな勇気はないだろうが。そういうことも含めてインターネットカフェが妥当だと踏んだのだ。
当てずっぽうに歩いてインターネットカフェを探すが思いのほか見つからない。駅前には大抵あるはずなのだが。斉藤はわたしの後をただただ黙ってついてきている。わたしたちは黙々とぐるぐると歩き回った。
「坂井さん、ひょっとしてネカフェ探してる?」
突然、斉藤が口を開いた。考えることは皆同じなのだろう。
「そうだけど。」
斉藤なんかにわたしの考えが見抜かれたことが悔しかった。
「あのさ、だったら携帯のナビで検索したら早いんじゃないかな?」
携帯でそんなことができるのか、さすがは電脳世界寄りの人間だ。
「そうね、わたしもそうしようと思ってたところ。」
「あ、やっぱりそうなんだ。」
斉藤はそう言うと先ほどと同じように黙ってわたしの後をついてきた。携帯を取り出すことなく。そしてわたしたちはまた、黙々とぐるぐると歩き回った。
「ねえ、なんでナビで調べないの?」
「だったらあんたが調べなさいよ!」
長い移動による疲れと空腹でいらだっていたわたしはつい声を荒げてしまった。駅から大分外れてしまたのだろうか、静まり返った薄暗いビル郡の路地でわたしの声が響いていた。斉藤の白い顔が浮かんで見える。
塩辛くて脂っぽいポテトをつまみながら窓に浮かび上がるわたしの顔を眺めていた。窓に向かい合ったカウンター席。禁煙席だというのに二つ隣の女はタバコの煙をくゆらしている。隣の席の斉藤は三つ目のチーズバーガーを手にかけようとしていた。髪を脱色した女子高生たちがテーブル席で携帯片手にきゃっきゃきゃっきゃとはしゃいでいる。窓から外を見ると、まず目に付くのは大きな道路に沿ってずらりと並んだタクシーの列。その横をさっきからひっきりなしに車が通る。テールランプが道路に赤く残っては消えていく。インターネットカフェのナイトパックが始まる午前一時まで夕食ついでにここで時間を潰しているのだ。
「坂井さんってさ、ネカフェとかよく行くの?」
口の中をくちゃくちゃ言わせながら斉藤が話しかける。顎にマヨネーズが付いていた。しかし、どことなくそれが似合うのは彼が肥満体だからだろうか。
「別に行かないけど。」
「へえ、そうなんだ。僕、ときどき行くんだけどさ、泊まるのは初めてかな。」
そうか、今日、この街に泊まるんだった。変な話だがすっかり忘れていた。
「そういえば、あんた親に電話とかしたの?」
「うん、さっきメールしたよ。杉本の家に泊まるって言って。」
「へぇ、杉本は友達ってことになってるんだ。」
「まあ、一年の時まではうちに泊まったり向こうの家に泊まったりはしょっちゅうだったからね。」
「昔は仲良かったんだ。」
「まあ、仲がいいっていうわけじゃないけど、昔の杉本はチャラチャラしている今より骨のある奴だったからね。一緒にアキバまで遠征に行ったりしてたし。」
「え、何それ。あの杉本って前、オタクだったの?」
「今だってひっそりオタクしるよ。オタクっていうのは後天的なものじゃなくて先天的なものだからね。治らないよ。僕が言うんだから間違いない。僕はオタクを辞めようなんて思ったことは一度もないけどね。」
「ねえ、杉本って何オタクなの?」
「アニオタ。僕もだけど。あいつ声優のコンサートとか今でも行ってるよ。こないだ見かけたしね。声優がパーソナリティしている深夜ラジオにだってハガキを投稿してる。『綾波レイのくるぶし』とかいうダサいラジオネームで。」
「あはは!ウケる。マジでキモいんだけど。」
斉藤の話を楽しんでいる自分が意外だったが、旅の恥は掻き捨てというやつか。こんなデブと一緒にいるところを誰に見られたところで何とも思わない。あの町とは違うんだ。斉藤の杉本話は続いた。そしてわたしも笑った。店の風景に溶け込んでいく気がした。違和感なく、客をして、話をして、ポテトを食べている。
「ねえ、斉藤って兄弟いるの?」
不意に出てしまった言葉。なんでこんな話題を振ってしまったのか。一瞬、背筋がゾクリとした。まわりの雑音が消えて斉藤の言葉を待ちわびた。コンマ何秒の間が息苦しい。きっと、斉藤が答えたらわたしにも同じことを聞いてくるのだろう。
「いないよ。一人っ子。坂井は?」
「いるよ。三つ上のお兄ちゃんが一人。でもここ何年引きこもってるけど。」
押し隠してきたことが口の中からぺろりと剥げ落ちた。あの町から遠ざかってるせいか、わたしの心はだんだん軽くなっていく。
「あ、そうなんだ。中学の時の友達も引きこもってるよ。よくある話だよね。」
よくはないだろう。軽くカミングアウトしたはずだったが斉藤は驚きもしない。しかし、斉藤みたいな人間には多い話なのかもしれないし、斉藤自体がいつ引きこもりになってもおかしくない気がする。それであまり驚かないのか、と一人勝手に納得をした。
ぞろぞろと階段を上る音がして、長い髪をして学生ズボンをずり下げた男子校生三人が現れた。ズボンから垂れたチェーンがチャラチャラと鳴っている。急に女子高生グループの一人が馬鹿でかい声を上げた。
「あ、ツヨシ!ちょっ、ヤバ。マジ、キグウなんだけど。」
「うお。アッコ。久しぶりー。」
あ、の時点で男の方も同時に声をあげていた。男女七人が声を上げて笑い、やばいのやばくないだのと言っている。それからすぐ、わたしたちは一気にやかましくなった店を出た。三〇分前くらいから降り出した雨のせいで道路のアスファルトは光という光を反射させてキラキラしていた。斉藤の顎にはまだマヨネーズが付いていて、それもテラテラと光っていた。
◆
ウィーンというパソコンの起動音。ファンが回る音を聞くと、なんだかすごく安心して、それと同時に疲れが体全体に回ってきた。痺れるような疲労感。靴下を脱いでズボンを脱いで、ソファのリクライニングを精一杯倒して目を閉じた。とりあえずパソコンを立ち上げてみたけど、いじる気にはなれない。せっかくだから持ち込んだ漫画もやっぱり読む気にはなれない。あと七時間半後にはここを出なくちゃいけない。明日も今日みたいにずっと電車に乗るのだろうか。というか、もう日付が変わっているのであって、それは昨日の話で、今日も電車に乗るのだろうか。なんて考えると気が滅入った。ただただソファに体を預けて、深く沈んでいった。
ムームーというバイブの音で目が覚めた。意識がはっきりするにしたがってムームーという音の中にカリカリという携帯が机を細かく打ちつける音が聞き取れる。口を開けて寝ていたのか口の中がカラカラだ。喉がイガイガする。携帯を開くと非通知の文字。坂井か。
「もしもし。」
「起きた?起きたならあと十五分で支度して。着替えてさっさとトイレで顔でも洗っておいで。」
もう朝なのか。さっき目を閉じた気がする。慣れない姿勢で寝たせいで体がだるい。起き上がって体をねじるとボキボキと腰が鳴った。再びソファに座る。パソコンはスクリーンセーバーになっている。時間は八時四十五分。時計を見ながら学校のことを思った。もう、ホームルームが始まっているはずだ。先生は僕が学校に来てないことで家に電話を入れるだろう。その電話を受けてお母さんが僕に電話をかけてくるのは何時になるのだろうか。おそらくあと三〇分以内だ。そう考えると携帯が怖くなって電源を切った。それはそうと、僕の携帯には家からと杉本からくらいしか掛かってこない。電源を切ったことで困ることはない。だいたいからして僕は携帯を持つ必要がないのかもしれない。
紙袋から新しい靴下を取り出して履いた。シャツを羽織ってズボンを履き終わった時、急に扉が開いた。坂井だ。
「ちょっと、なんで電源切ってるのよ。」
「あ、ごめん。」
「もう、早く出るよ。」
「ちょっと待って、顔洗ってくるから。」
「まだ顔洗ってなかったの?じゃあ、カウンターで待ってるから早くしてよ。時間過ぎると延滞料金が発生するんだから。」
ファミレスなんかよりもよっぽど清潔感のあるトイレは深呼吸をしてもいいくらだった。床にほおずりしても平気な感じだ。三つある蛇口の右端で僕は歯を磨いている。鏡に映った僕は朝だというのに寝癖が立っていない。布団で寝なかったせいだろうか。脂のせいで髪がしっとりしている。顔はベタベタして気持ちが悪い。昨日、無理してでもシャワーを浴びるべきだった。蛇口を一つ隔てた左端の蛇口に立っている坊主頭の男はさっきから髭を剃っている。歯ブラシも髭剃りもこのトイレに設置された無料のものだ。ドリンク飲み放題、ソフトクリーム食べ放題。あげくに歯も磨き放題。ネカフェってすごいな。そう思いながら口をゆすいでいると坊主頭の男は扉を開けて出て行くところだった。目をやるとポロシャツのバックプリントにはCMで見たことのある派遣会社の名前がブランド名のように書かれていた。冷たい水でばしゃばしゃと顔を洗ってシャツで拭いた。口の中いっぱいにミントの香りがする。よりいっそうこのトイレが清潔に感じられる。さて、今日はどこに行くのだろうか。学校はどうなるのだろうか。なんだかちょっと開き直っている自分がいた。
ネカフェを出ると、昨夜の雨はすっかり止んでしまっていて、アスファルトに少しの染みを残している程度だ。雲の間から、ビルの間から太陽が見え隠れしている。
駅までの道のり、坂井は上機嫌だった。昨日のマックから少しは打ち解けてきたけど、昨日の比じゃないくらいに喋っている。初めてのネカフェはどうだっただの、シャワー室のシャンプーがどうだっただの、徹夜でドカベンを読んでいただの、なんて有意義に愉快にこの旅を過ごしているのだろうと、のびのび前後に振れる坂井の白い腕を眺めながら思っていた。僕は取れずじまいの疲労感を引きずって歩いているというのに、徹夜をしたらしい坂井はどうしてこんなに軽やかな足取りなのだろうか。白いスカートが反射してまぶしい。目の奥が鈍く痛む。
ガタンゴトンと揺れる車内。やはり今日も電車移動。隣に座っている坂井は電車が走り出すや否や眠りこんでしまい、僕は睡魔と闘いながら移りゆく車窓を眺めていた。いや、睨んでいるといったほうが近いかもしれない。坂井が寝てしまった以上、僕が起きているしかないのだ。気を抜くと寝てしまいそうで、僕はぱきっと目を開いて窓の向こうを凝視している。点々とした民家の屋根瓦がときどき太陽を反射させてまぶしく光る。さっきから握り締めている紙は手汗でふやけ始めていた。その紙というのは坂井がみどりの窓口で教えてもらった乗り継ぎの仕方を書き込んだもので、それどおりに乗り進めば間違いはないという代物である。鈍行列車の旅のレシピとでもいうべきか。僕らの命綱と言ってしまっても過言ではないかもしれない。しかし、レシピがあるからといって安心するわけにはいかなかった。相変わらず終点に継ぐ終点の繰り返しで、乗り換えの時間は平均してほんの三分ほどしかないのだ。シビアだ。非常にシビアなのである。なにせ電車を降りたら次なる電車が待つホームまで走らねばならないのだ。それに寝起きの坂井は非常に機嫌が悪い。緩やかに移動する鈍行列車の旅の意外にシビアな一面。ストイック。この旅はこの一言に尽きる気がする。そして僕らは今日もネカフェに泊まるのだろうか。ポケットの中の携帯電話は電源を切られたまま眠っている。このままゴミ箱に入れてもいい気分だ。もうここまで来たら、どこへ行っても何をしてもいい。そう思えてきたのは確かだ。だいたい、あと少しで地球は滅びる。忘れていたわけじゃないけど、そうだったのだ。地球は滅びる。怖いものなど何もなかったのだ。窓を開けると温い風が、ぶわっと入ってきて、それは少し埃っぽい匂いを含んでいる。坂井の髪がなびいている。僕はポッケトから黙り込んだ携帯を取り出して、窓の外に放り投げた。後ろの方で微かにカタタンという硬い音が聞こえた。坂井は相変わらず眠っている。長いまつげが頬に影を落としている。呼吸をするたびに胸が動いている。膝の上に置かれた手はビニールを貼ったみたいにつやつやしている。さっきから握っている紙を見た。二三時十四分博多着。最後に書かれている項目。おそらく今日の目的地は博多なのだろう。そういえば僕は九州に行ったことがない。博多か。博多ラーメン、食べたいなあ。ガタンゴトンと揺れる車内。車両には僕と坂井しかいない。奥の車両を覗き込んでもおじいさんが杖にもたれて座っているだけだ。
確かに、確かに、博多ラーメンを食べたいと思ったのは事実だ。そして今、僕の目の前には博多ラーメンがある。あの時は食べたいと思ったけど、今は食べたくはない。というか食べられる状況ではないだろう。油が拭き切れていないテーブルはベタベタしていて、見るからにこってりとした白濁スープには油の膜が浮いている。その膜の中にはいくつもいびつな形をした丸が肩を寄せ合い、ひしめき合ってい、照明に反射しててらてらと光っている。僕は俯いたままただただそれをじっと眺めていた。首を上げることができない。向かいに座っている女の人を見ることが怖い。丸椅子は不安定でガタガタしていて、さっきから体重のかけ方によって右に左に傾いてしまう。目の前にいるのは坂井、ではない。しかし、坂井に似ている。似ているも何も、その人は坂井のお母さんなのだから似ていて当然だ。坂井はどこに行ったのか。そもそも、僕は何をしているのか。
「ふとしくんだったかしら、ごめんなさいね、あの子に付き合わされたんでしょう。学校も休んで。親御さんだって心配してるでしょう。あれだったら私の方から親御さんに電話して事情を説明しようかしら、ひょっとしたら捜索願が出されているかもしれないわよ。」
坂井のお母さんは悪戯っぽく笑って、タバコの煙をすうーっと吐き出した。僕はつられるように煙の行方を目で追った。目線の先のサラリーマンの黒いスーツに煙がよく映える。渦を巻きながら消えていく煙を不思議に眺めていた。僕の名前は「ふとし」ではなく「たかし」だ。そう思っても口が開かない。
「無口なのね。男は寡黙に限るわ。雄弁は銀、沈黙は金って言葉知ってる?」
僕は首を振った。
「ふふ、本当に無口。あの子も男を見る目があるものね。」
膜を張ったラーメンのスープが鈍く光っている。坂井はどこに行ったのだろう。僕はどうしたらいいのだろう。椅子がガタガタしていて落ち着かない。酒井のお母さんはカチリとライターを鳴らして新しいタバコに火を着けた。
◆
徹夜なんてするんじゃなかった。頭がぼうっとして肩がずんと重い。電車では寝ても寝た気がしなかった。一、二時間毎に起こされていたのだからそれもそうだ。
博多駅は時間も時間なのか、酒気を帯びたサラリーマンたちが声を上げて構内を連なって歩いている。声が異常に大きい。酔っ払いがわたしのすぐ横で固い握手を交わしている。渦巻く人の波の中、斉藤とわたしは構内の端っこ、ドーナツ屋の前に佇んでいた。時刻は二三時三四分。予定通りだ。予定通り。
昨夜、インターネットカフェに入ると母に電話をした。何ヶ月ぶりかの電話だったが母は相変わらずだった。自由奔放は彼女は何があっても動じない。明日、博多に行く、と言ったら驚きもせず、じゃあ、会いましょう。着いたら電話して。そう言って電話を切った。
斉藤は疲労困憊といった具合で目に力がない。これからもう一役かってもらわなければならないのに。というか、これからが本番なのだ。斉藤をここまで連れてきた意味はこのためにある。斉藤にトイレに行ってくる、と言って母に電話をかけた。
「もしもし、今、駅に着いたから。」
「そう。じゃあ、お母さんも駅に着いたら電話する。適当に時間を潰しといて。三〇分もしないで行くから。」
わかった、と言い終わる前にプープープーという電子音が言葉を遮った。
斉藤のもとに行くと斉藤は座り込んでドーナツを頬張っていた。その姿がストリートチルドレンさながらに見えるのは力尽きた目つきのせいだろうか。恰幅がいいので悲劇性は乏しいが、その姿は十分同情に値する。やはり、斉藤には悪いことをしてしまったのかもしれない。しかし、それも今日までのこと。斉藤はわたしに気が付くと紙袋からドーナツを一つ取り出して、わたしに渡してきた。よくよく考えれば電車の中では寝てばかりだったので今朝から何も食べていなかったのだ。斉藤も何も食べていないはず。斉藤の横に並んで座り、お礼を言ってドーナツを一口食べた。嫌いなシナモンの風味が口いっぱいに広がる。だけども文句を言う気になれず、空腹にも勝てず、ぱくぱくと食べた。口の中の水分がからっからに乾いてしまって、むせる。
「坂井さんさあ、僕たちってどこに行ってるの?」
何度もされた質問。何度質問しても斉藤の口調は変わらない。標準的なアクセントが散りばめられた、穏やかな、どこか悲哀に満ちた口調。もう、目的地には着いている。
「博多。」
「あ、そうなんだ。それはそうと、とりあえず今日のネカフェを探さなきゃだね。」
「その前にやることがあるの。」
「え、何?」
斉藤はどこを見ているのか、顔をまっすぐ向けたまま遠くを眺めている。疲れているのだろう。
「会ってもらいたい人がいるの。それで、ここからが大事なんだけど、その人の前でわたしが言うことを否定しないで。全部、肯定して。嘘だ、とか、違う、とか言わないでほしいの。そうだ、ってだけ言って。それがわたしのおねがい。タバコのお礼の。」
「え?じゃあ、今までのは何だったの?あの過酷な移動は?」
急にこちらを向いて尋ねる斉藤。そんなに驚くことだろうか。
「あれは前置き。」
そう言うと、斉藤は納得いかないのか。
「前置きって・・。」
消え入りそうな声でそう言ってまた前を向いて、俯いた。
母から電話があったのはそれから一〇分程してからだった。母に言われるままに中央改札口に行った。斉藤は何だか不安げだが、ただ疲れているだけのようにも見える。二人で並んで改札口の向こうを見つめていた。まばらに人が改札をくぐっては出てくる。
「葉子。」
急に後ろから声がして、振り向くと母がいた。最後に会ったのがいつだったかわからなくなるくらいに母は変わっていなかった。昨日も会ったような気がするくらいに母は母のままだったのだ。
「久しぶりね。ちょっと背が伸びたんじゃないの?」
そう言ってわたしの頭に手を乗せた。きつい香水の臭いが鼻についた。そして、
「こっちの彼は誰かしら?」
と、予期せぬ客の紹介を強いたのだった。
母の手紙を読んだのは一週間前。手紙はいつもと変わらない、取り留めのないことが書かれていた。しかし、後半に驚くべきことが書かれていたのだった。驚くことでもないかもしれないが、なんと、母が結婚をするとのことだった。母が結婚。しかも、初婚。めでたい限りである。勝手にしてくれ。そう思っていたが。母の手紙は続いていて、年甲斐もなく式を挙げるということなのだ。しかも、その式に出席してくれというのだ。婚約者にもわたし達のことは伝えているらしく、是非ともこの福岡の地で親子水いらずで過ごそうと提案するのである。どういった神経をしているのか。母も、そして、婚約者も。これ以上、母に振り回されてはたまらない。わたしの大学受験はどうなる。高校二年生で転校なんてまっぴらごめんだ。あの町から抜け出せるのはうれしいかもしれないが、高校を卒業するまでの辛抱だと、心に決めているのだ。一年くらいなんてことはない。今まで見過ごしてきた母の奔放ぶりに堪忍袋の緒が切れた瞬間だった。そして、その気持ちがわたしをここまでたどり着かせたのだった。
「葉子、紹介して頂戴。」
母は先ほどから、ひとつも顔を変えず、薄っぺらな笑顔を浮かべている。黙っていると、続けて、
「ひょっとして、ボーイフレンド?」
ボーイフレンド?なんて嫌な言い方だろうか。汚らしい言葉のようにすら思えてくる。わたしは黙って、そのキタナラシイ言葉の発射口である真っ赤な、てらてら光る唇を眺めていた。
「そうです。」
隣から声がしてぎょっとした。斉藤を見る。先ほどとは打って変わって自身に満ち溢れた横顔が気に喰わない。
「そうです。」
斉藤は繰り返した。
「あら、そうなの。二人旅?いいわねえ。」
「そうです。」
と、斉藤。
「学校はお休みなのかしら?」
「そうです。」
馬鹿の一つ覚えのように「そうです」と繰り返す斉藤。確かにわたしが要求したことだが、それは「わたしの言うこと」に対して全て肯定しろということであって、母の質問には答える必要はない。それなのに斉藤は「どうです、僕、一役かってます」という感じの表情。非常に腹立たしい。しかし、わたしのシナリオ通りとはなってきている。それにしても、斉藤の彼女の振りをするつもりだったが。いざ、実際にしてみると、嫌悪感が体中を駆け巡る。
「そうなの、彼氏。」
わたしは自慢の犬でも紹介するような表情を作って言った。
「あらあ。もうそんな年頃なのかしら。早いわねえ。それにしても立派な体格ね。クマさんみたいね。あなたが小さい頃よく遊んでいたぬいぐるみにそっくり。」
母は太った人間が嫌いだ。自己管理ができていない、だらしない人間だといって忌み嫌っているのだ。そういうことも今回の一件で斉藤を選んだ理由だ。わたしは斉藤の手を取った。目を丸くした斉藤がわたしの顔を見る。コンマ何秒か目が合う。
「ふとし君、旅行楽しかったね。」
これ以上ない笑顔を作った。首まで傾けたりなんてして。
「そうだね、葉子。」
斉藤の下の名前が分からなかったので勝手に「ふとし」としてやったが、調子に乗った斉藤はわたしを呼び捨てにした。いや、成りきっているのか。どっちにしたって、やはり気に喰わない。
「仲良しねえ、お母さん、羨ましい。若い頃を思い出すわ。」
母はわざとらしく頬に手を当てて、わたしの真似でもするように首を傾けている。しかし、そういった行動は「余所行き」の母によく見られるものであり、わたしはそれと同じことをしていたことに気が付き、愕然とした。やはりわたしにはこの人の血が流れているのだ。だからといって今更どうこう言うことではない。わたしは瞬時に立ちなおし、あのことを切り出すことにした。そうだ、斉藤を連れてきたのはこのためだ。さらっと言おう。自然に。そして、口を開いた。言葉が舌の上を滑る。実に滑らかに。
「それでね、お母さん。わたし達、結婚することにしたの。」
「そうです。」
いいぞ、斉藤。忠実に役目を果たしている。と思って斉藤の方を見ると、さっきの自身はどこへやら、目をおろおろさせ、明らかに狼狽していた。何も考えずに「そうです」と言った後、頭の整理がついたようだった。馬鹿、顔に出すな。感づかれる。慌てて被せた。
「お母さん、実はわたし、妊娠したの。ふとし君との赤ちゃんを。」
「そうです。」
斉藤は耳まで真っ赤になって、うつろな目は焦点がはっきりしていない。パニックに陥っている模様だ。「結婚」という言葉も「妊娠」という言葉を聞いても母の表情はびくともしない。薄っぺらな頬笑みを貫き通している。
「あらあ、おめでたい」
母はぱちんと手を叩いた。人気のない構内に乾いた音が響く。
「それで何ヶ月なの?つわりは大丈夫?もう終わったのかしら?」
「そうです。」
斉藤はもうダメだ。
「お母さんも結婚するし、めでたいこと尽くしねえ。もう孫の顔が見れるなんて。」
「そうです。」
だまれ、斉藤。母の微笑みにわたしの足元がガラガラと崩れ落ちるような気がした。そして、なんて幼稚なことをしようとしていたのか、いや、してしまったのか。恥ずかしくて。悔しくて。怖くて。わたしは後ずさりをしていた。ツルツルした床をサンダルが滑っていく。斉藤が後ろ手で甘皮をしきりにいじっているのが見えたとき。母との距離が明らかに離れてしまったことを痛感して、どうしようもなくなって、わたしは振り返って走っていた。逃げるように、母から、斉藤から、あの町から、いろんなものから逃げるように走っていた。カツカツカツと少し遅れて足音が響いている。息をするのも忘れて走った。「坂井」と斉藤が呼んだ気がしたが振り返ることはできなかった。怖かったのだ。何もかもが。駅の壁に貼られたアイドルの微笑みすら、怖かった。
◆
臭いに酔いそうだ。サラリーマン達の酒臭さと店に染み付いた豚骨臭さ、それと僕の汗臭さ、ピンと際立つ坂井の母親の香水臭さ、彼女のタバコの臭いも混ざる。こんなにも多種多様の臭いに囲まれたことは初めてだ。食卓ではご飯の匂い。体育後の教室では汗の臭い。お風呂では石鹸の匂い。僕の周りはいつもシンプルなものだったのだなと感じた。色んな人が色んな臭いの中で肩を寄せ、息を吐き、食べて飲んで租借して、耳を傾け、高らかに笑う。こんな世界もあるのだなと思った。
テーブルの灰皿には吸殻が三本。フィルターに口紅が濃く付いているものは最初の一本だろうか。ラーメンはもう冷めてしまって、スープに張った油の膜は黒ずんでしわしわになっている。沈黙が気まずい。坂井の母親は「沈黙は金」と言っていたが、金じゃなくて禁なのではないかと思った。
「吸う?」
沈黙を破る意外な一言に驚いて顔を上げた。
「え?」
「あら、吸わないの?さっきから灰皿見てるから。」
「あ、いえ、まだ未成年ですから。」
顔の前で手を左右に振った。何を言い出すのだろうか、この人は。僕がタバコなんて吸っていたら、お母さんは卒倒するだろう。この人は坂井が吸っていても平気なのだろうか。いや、きっと平気なのだろう。
「ふーん、私が高校生の頃はみんな吸ってたけどね。まあ、葉子も吸わないし、そんなものなのかな、いまどきの子は。」
昔も今もないだろう。未成年はタバコを吸っちゃいけないものだ。吸うのは不良か杉本みたいなちゃらんぽらんだ。坂井のお母さんはまた新しいタバコに火を付けて、ふうっと天井に煙を吐いた。僕もこの煙みたいに消えてしまいたい。
「あのお、坂井は、あ、いや、葉子さんはどこに行ったんでしょうか?」
坂井のお母さんはじいっと僕の顔を見つめて、
「さあ。」
と言って首を傾けた。そして続けた。
「まあ、でも、どこかにいるんじゃない。とりあえず日本からは出てないわよ。あの子、パスポート持ってないから。」
「ああ、そうですよね。」
この人は本当に子供の親なのか。まるで他人事じゃないか。僕よりも他人事じゃないか。
「それと、電車にも乗ってないでしょうね。終電はとっくに過ぎてるから。タクシーでの移動もないわね。あの子ケチだから深夜の割り増し料金とか嫌いだから。とにかく、歩きね。と、なったら市内。時間からして半径二キロ以内ってところね。」
「ああ、なるほど。」
それ以外言葉が見当たらなかった。
「そうとわかったら、立ち上れ、少年よ。」
「え?」
「追いかけるのよ。せっかく我が子が駆け出したんだから、追いかけてあげなくちゃ。誰かが追いかけなきゃ画にならないでしょう、そういうのって。親としてあの子に花を持たせてあげたいのよ。」
そんなところで親らしいところを見せるのか。というか、それは親らしさとかそういうことではない気がする。
「できれば駆け出した瞬間にあなたが追いかけるべきだったんだけどね。あなた、その時それどころじゃなさそうだったから。まあ、それはそうとあんな見え透いた嘘をつくなんてあの子も馬鹿ね。そりゃあ、気持ちもわからなくはないけど。生憎、私も女なのよね。結婚は女の幸せなのよ。あなたもそれをよーく覚えておきなさい。女は結婚してなんぼなのよ。子供がいようがいまいが関係ないの。いくら子供がいても、男でぽっかり空いた穴は埋められないの。男で空いた穴は男で埋めなくちゃ。つまりね、母親である前に女なの、私は。」
悪戯っぽく笑って言った。タバコを挟んだ指の真っ赤なマニキュアが輝きを増したように思えた。僕は彼女の、その奔放さが、なんだかとても魅力的に感じてしまった。「自分勝手」なんて一言で片付けられない何かがあった。彼女なりに確立された哲学が下敷きになっているような、理に適ったようにすら感じられる、妙な説得力があったのだ。
「それはそうと、少年。葉子を頼んだ。走れ。今なら間に合う。」
そんなこと言って、ラーメン屋に連れて行ったのはあんたじゃないか。あれから小一時間は経っている。間に合うのか。というか坂井は何処に行ったんだ?
「こういうとき、ベタなのは海よね。うん、潮風を浴びながら遠くの船の灯りを眺めたりするのよ。時折、髪を掻きあげたりして。そうそう、そうに決まってる。あの子は普通のことが大好きだからきっと海にいる。よし、少年よ、海を目指せ。」
出入り口に向かって指を指した。
いや、普通の人間は駆け出して夜の海に行ったりはしないだろう。そう思ったが言われるがままに椅子から立ち上って出入り口に進んだ。この場から離れられることは望ましいことだったからだ。
「駅の前に大きな道が通ってるから駅を背にして右に走りなさい。そしたら海に出るから。歩いちゃ駄目よ。画にならないから。」
背中で聞きながら、そこまでわかっているなら自分で行けばいいのにと思ったが、乗りかかった船だ。僕が行っておこうと思った。そういえば、坂井って僕のことが好きだったような気がしたが、あれは事実だったろうか、僕の思い違いだったろうか。まあ、どっちでもいい話だ。きっと僕が現れたら感極まって抱きついたりしてくるのだろう。ああ、しまった。やはり昨日はシャワーを浴びるべきだったな。しかし、夜の海というのはシチュエーションとしては悪くない。確かに画になるな。暖簾に手をかけた時、腕をつかまれた。振り返ると坂井のお母さんだった。それと同時に手のひらに紙の感触がした。ほどよく重さのある茶封筒だった。
「これ、今日の宿代と明日の飛行機代。ビジネスホテルで二部屋とっても余裕はあると思うわ。なんならラブホテルに泊まってお金を浮かしてもいいわよ。」
最後の最後まで何を言っているんだ、この人は。
「まあ、そんな間柄じゃないことは知っているけど、好奇心が引き起こす過ちも若いうちはいいんじゃない?ちゃんとゴムは着けてね。」
もう、どんな反応をしていいのかわからないので再び暖簾に手をかけた。
「そうそう、来月のお兄ちゃんの三回忌には帰るからって葉子に伝えといてね。」
「あ、はい。伝えておきます。」
しかし、何か引っかかるものがあった。
「あの、お兄ちゃんっていうのは?」
「葉子のお兄ちゃんよ。」
あれ、変だな。坂井のお兄さんは確か・・。ドンっと体が揺れた。スーツ姿のサラリーマンと肩がぶつかったのだ。
そういえばここは出入り口だった。サラリーマンは舌打ちをして坂井のお母さんの前を横切って席に着いた。
「あの、坂井って何人兄弟なんですか?」
「今は一人っ子よ・・・あら、あの子まだ夢みたいなこと言ってるの?困ったものね。」
夢?坂井は確かに引きこもっているお兄ちゃんお話をしていた。坂井のすませた顔を思い浮かべると胸がしだいに速まった。足元が崩れ落ちていくような感覚に襲われた。坂井はどんなつもりであんな嘘をついていたのか。
夜の街を走る。きらめくネオンが、車のヘッドライトが、街灯ですらチカチカと、眩しい。どんなに蹴ってもアスファルトの感覚がない。というか足の感覚がなくなってきている。喉がヒューヒュー鳴る。体中から汗が噴出す。汗が目にしみる。胸が痛いのは心臓のせいか、それとも肺のせいか。視界が狭まっていくのを感じる。苦しい。息を吸っても吸っても、空気が足りない。酸素が足りない。足の感覚はもうほとんどない。無意識下に足が交互に出されている。対称に手はぶらりとして力が入らない。苦しい。頭の中が「苦しい」という言葉で埋まっていく。薄れゆく意識の中で、潮の臭いがした。海が近いのだと感じた。それと同時に僕の足は止まった。体をくの字に曲げて膝に手を着いた。体がどうにかなりそうだ。こんなに走れるとは思わなかった。体がばらばらになってしまいそうだ。まだ喉がヒューヒューいっている。鼓動が体全体に響き渡る。ドクンドクンという度に体が膨張していきそうだ。走る必要なんてそんなにないのに、僕は走った。
呼吸が整うのに比例して潮の匂いが増していった。嗅覚が戻ってきているのだろう。冷たい風だって感じることができる。触角も戻ってきたのか。続いて波の音が聞こえてきた。海が近いと思ったが大分近くに来ていたみたいだ。次第に呼吸も鼓動も正常に戻ろうとしていた。そして顔を上げると、目の前には海が広がっていたのだった。遠くに船が何艘か浮いているのが見て取れた。あたり一面コンクリートだ。どうやら埠頭のようだった。周りを見渡すと、端の方にぽつんと人影が見えた。緩やかなシルエットのスカートは細い体を際立たせている。横から見ると背中はきれいなS字を作って、気持ちばかりの胸が上のほうにちょこんと乗っている。遠くからでも坂井だとわかった。母親の勘というのは恐ろしいものだ、坂井は本当に海にいた。
◆
遠くのほうにいくつか光が揺らめいている。漁船だろうか。風は冷たく、肌寒いくらいある。足下では堤防に屈した波がちゃぷんちゃぷんと鳴いている。夜中にこんなところに来るとは思わなかった。駆け出してたどり着いたところが海というのはいかにもセンチメンタルで嫌になる。しかし、力強くてやさしい波の音は聞いていて悪いものではなく、もう少し聞いていたい気にもなるのは確かだ。落ち着く、というべきなのか。夜空に浮かぶ月は昨日よりも欠けている。そういえば、斉藤はどうなったのだろうか。まあ、母もいることだし何とかやっていることだろう。いや、母と一緒・・・、大丈夫ではないかもしれない。何か吹き込まれて、ひどい目に遭っている可能性は無きにしも非ずだ。わっと強い風が吹いた。頬にかかった髪をかき上げる。潮の匂いが鼻にさした。その瞬間、後方からガサリと物音がして、振り向こうと思った瞬間、大きなものが体を巻きついた。ぬるぬるとしていて軟らかい。しかし、びくともしない強靭さがある。男の腕だとすぐにわかった。耳元に荒い息がかかる。汗の臭いがする。みるみる体が震え上がった。力が入らない。胸がバクバクと鳴っている。周りの音が聞こえないくらいに心臓が胸を叩きつける。変質者。強姦。頭の中に新聞やテレビに溢れている物騒な言葉達が浮かんでは膨張し、頭の中を飽和する。怖い。体が煮えたぎるような恐怖心が体中を駆け巡る。逃げなくては、声を出さなくては、そうは思っても何もできない。そのとき、わたしは呼吸の仕方すらも忘れていたのだ。遠くに浮かぶ光が滲んでいる。涙が溢れてきた。声も上げずに泣くことがその時のわたしができる唯一の抵抗であった。男は荒い息でしきりに何かを言っている。時折、唇が耳に当たって、熱い。殺される。確実に殺される。そう思った。きっと犯されて海に捨てられるのだ。初めては痛いと聞いたが大丈夫だろうか。なぜだか、そんな心配が浮かぶ。わたしの死体はすぐに見つかるだろうか、この男はすぐに捕まるだろうか、葬式はどこであるのか、全校生徒で黙祷なんてされたくないな、母は悲しむだろうか、それより、兄は悲しんでくれるだろうか、このまま引きこもりを続けて葬式にも出てくれないのだろうか、兄は。
・・兄、兄はどうしてわたしの前に姿を見せないのだろうか。そういえば兄は、兄は・・。「――――さん。―――さんってば。」聞き覚えのある声がした。ふっ、と冷静の片鱗が頭の中で姿をちらつかせた。
「坂井さん、坂井さんしっかりしてよ。」
耳鳴りがする中、斉藤の声が聞こえる。
「坂井さーん。いや、こういうときは葉子のほうがいいのかな・・葉子、しっかりしろよ。葉子。」
間違いない、斉藤だ。死ぬ程驚かせやがって。急に後ろから襲いかかるなんて、非常識甚だしい。文句を言わねば。警察に突き出してやろうか。大声を出したら誰か駆けつけてこないかな、そうしたら留置所行きは免れないだろう。こいつをぎゃふんと言わせてやるんだ。泣き面をかくがいい。しかし、わたしは声を上げることもできずにそのまましゃがみ込んでしまった。どうしようもなく涙が溢れてくるから、込み上げてくる涙を堪えるのは立っていられないくらいにしんどいから。涙が鼻の頭で留まっては、次の涙に押しのけられてコンクリートに染みをつけていく。わたしは嗚咽をもらしていた。しばらくはわたしに話しかけてきたが、諦めたのか、飽きたのか、斉藤はもう何も言わず、ただただ、わたしの横に座っていた。困った表情で時々こちらのほうを窺っているのをぼやけた視界の端で捉えながら、先ほどの仕返しができたのではと思うと、ほんの少し気分が軽くなった。
気温がみるみる下がり、靄が辺りを覆い尽くし始めた頃、わたしはやっとのことで顔を上げた。空の底がほんのり白くなって、朝がやってこようとしていた。どこからともなく新聞配達のバイクの音が聞こえる。斉藤の方を向くと、目が合った。あれから何時間も経っていたのに、意外にも斉藤は起きていた。しばらく目を合わせたままの状態で二人は固まっていた。野生動物の縄張り争いのようにじっと相手の隙を窺っているような具合だ。根負けをしたのか、次第に斉藤の目から力が抜けていき、最終的には俯くほどだった。そして、斉藤は意を決したように口を開いた。
「あの、葉子、あ、いや、坂井さん、さっきはごめん。なんかさ、思い詰めてそうだったから、なんか、ね。」
「何が『なんか、ね』よ。馬鹿じゃないの。わたし、変質者かと思ったんだから。臭いし、息荒いし。頭おかしいんじゃないの。」
「そこまで言わなくても。」
斉藤は情けない顔をしている。今、この瞬間、地球上で最も情けない顔をしている人物ではないかと思えるほど、どうしようもなく情けない顔だ。何だかそれが妙におかしかった。
日が昇りだして辺り一面から暗闇が消え、真っ白な朝がやってきた。朝日は音を吸収する性質があるのか、わたしたちは静寂に包まれていた。小学生のときの夏休み、嫌というほど聞いた「新しい朝が来た、希望の朝だ。」というフレーズも納得がいく朝だ、くやしいことに。
そうだ、夏が来る。夏休みがすぐそこだ。
「もういい。帰る。帰るよ。」
そう言って立ち上がった。固まっていた膝がパキっと音をたてた。
「あ、そうだ、お金・・。」
斉藤も重そうな体を立ち上げた。
「お金ならなんとかなるわよ、最悪、ヒッチハイクだけど。嫌ならいいのよ、別にあんたは置いて行っていいんだから。まあでも、武士の情けってやつで連れて行ってあげよう。」
「いや、それが、ほら、お金なんだけど」
斉藤は茶封筒を取り出して、差し出した。
「坂井のお母さんが、これくれたんだ。帰りの飛行機代って。」
「へー。」
中には十万円が入ってあった。そういえば、あの人は金銭面に関してだけは親らしいことをしている人だったな。
「あ、それと坂井のお母さん、来月のお兄さんの法事には帰るって。」
?・・オニイサンノホウジ・・?・・・法事?・・誰が?・・・お兄さん・・誰の?・・・母にお兄ちゃんなんていたのだろうか。そうなるとわたしの叔父にあたるのか。斉藤の言葉に頭の中がぐにゃりと歪んだ。
「あ、そう。」
言葉はぽっと出るもので、頭の混乱とは裏腹に口は平然と応えていた。時折、頭と口は意思疎通が取れていないことがあるものだ。斉藤は黙りこくって、また困った顔をしている。さっきの顔ほど情けなくはないが、戸惑っているようにも見える。
漁から戻ったのか、朝市から切り上げているのか、漁船がわりと近くを横切っていく。ゴム長靴にエプロンをしたおじさんが吐き出すタバコの煙が確認できるほどの距離だった。しばらくして、大きな波が堤防を打ちつけた。ザバン、ジャポン、と音がした後、無数の泡がサーっという音をさせながら弾けている。それを聞きながら、地面に足がへばりついて動けないでいるわたしの状況に気が付いたのだった。
「あのさ」
斉藤の声を聞いて瞬時にわたしは我に返った。斉藤の言葉に被せた。
「わたしに叔父さんなんていたんだ。わたしって自分の父親も知らないくらいだからさ。そういうのがあっても不思議じゃないんだよね。」
軽くカミングアウトだったせいか斉藤の表情はみるみる曇っていく。そして、静かに口を開いた。
「坂井さん、僕、実は知ってるんだ。」
「へ、何を?」
何を知っているというのだろうか、斉藤は。
「・・・その、じつは、じつはさ、地球は滅びないんだよ。いや、いつかは滅びると思うよ。何千年後とか何万年後とかに、ひょっとしたら何百年後かもしれない。だけど、あと二ヶ月足らずで滅びることは、まず、ないんだ。」
「今頃気づいた?幼稚なんだから。でも、ほら金星人はどうしたのよ?声が聞こえるんでしょう?やっぱり幻聴だったの?」
斉藤はしきりに指をいじって、落ち着きがない。変な汗までかいている。
「そうだよ、そうなんだ。金星人なんていないんだ。声も・・きっと、僕の気のせいなんだ。もしくはただの願望だったのかもしれない。いや、きっとそうなんだ。」
「そう、そうなの。でも、なんで急にそんな話をする必要があるわけ?黙ってりゃいいじゃない。ど、どうせ、みんな嘘だって知ってるんだから。ひ、ひ、引っ込みがつかなくなったのはわかるけど。」
なんだか、胸が苦しくなって、言葉がうまく出てこない。一言一言が苦しい。こういうときだけは頭と口はきちんと意思疎通を図るのか。いや、図れていないから言葉がうまくでてこないのか。なんだかもう、わからない。
「うん、僕の嘘だったんだ。こんな世の中、さっさと無くなればいいって思ったのは本当だけど。だから、金星人が現れて地球を滅ぼせばいいって思った。でも、そんなことはあり得ないってこともわかってたんだ。だけどさ、だけど、友達だとか、親だとか、あやふやで信じていいかわからないものを信じてるより、はっきり「無い」ってわかってるものを信じるほうがよっぽど・・・よっぽどマシだって思ったんだ。」
熱弁している声が震えていた。斉藤は泣いていた。両目を押さえて嗚咽しながら続けた。
「だから、だからさ、酒井もさ・・・。」
それっきり、斉藤は何も言わず、ただただ泣いていた。決壊したダムのように勢いよく泣いた。わたしは斉藤の言葉がどう続くのか考えていたが、すぐに答えに行き着いた気がした。ザパンと、また波が一つ堤防に打ち付けられていた。
斉藤とわたしは似た者同士なのかもしれない。青い空には幾羽ものカモメが気持ち良さそうに飛んでいた。
そうして、二泊三日の小逃亡劇は終止符を打った。いや、一泊三日である。
次の日、学校に行くとわたしは担任に呼び出され「親戚の不幸」という嘘はコンマ五秒で見抜かれ、大目玉を喰らった。授業そっちのけで行われた二時間に及ぶ説教は三人の教師によるリレー方式でアンカーは学年主任であった。十メートルほど離れたところで斉藤も説教を受けていたが母親の登場と共に別室に移されていた。わたしはぶっ続けで職員室だった。
やっとのことで開放されて教室に行くと「坂井とインベーダー、未知との遭遇」というへんちくりんながら的を得た噂話が早速されているのだった。学校という世界の狭さを痛感した。
午後の授業は普段どおりに受けることができたが、やはり、どこかよそよそしい雰囲気が教室内を満たしているのだった。わたしだけがいつもどおり、いつものアングルから窓の外を眺めていた。眩しいくらいに真っ白のグラウンドに、これまた目がくらむほど白い体操着の生徒がまぶしい太陽の光を浴びて相変わらずトラックを走っていた。こんな暑い中に走ったら熱中症にならないだろうかと思いながら、歪な楕円を描く体操服たちを見ていた。一人、二人と完走してトラックから抜けていく。気が付けば、肥満気味の男女が二人だけになっていた。女子の後ろに男子が走っている。よくよく見ると男子のほうは斉藤であった。そういえば、いつかもこんな光景を見たことがある気がする。昨日まであれほど一緒にいたのに随分久しぶりに斉藤を見た気がした。斉藤はみるみる女子との距離を縮めている。わたしの手にも力が入っていた。手はだらりとしていてリズムはバラバラで足が着くたびにお腹が揺れている。なんて醜い走り方だろうかと思うが、その分必死さが滲み出ていた。もう、ほとんど追いついたと思ったとき、女子はトラックから外れた。どうやら完走したようだ。体一つの差で斉藤も完走をして、大の字に倒れこんだ。ここまで聞こえてきそうなくらいに口をはあはあさせている。そのたびに大きなお腹が動いている。ふっと、斉藤がこちらを見て、目が合った。わたしはどんな顔をすればよいのかわからず、ただただ斉藤を見ていた。斉藤はしばらくしてから目をそらし、まっすぐ空を見つめた。わたしも釣られて空を見上げた。青空には入道雲がもくもくと立ち上り、すっかり夏模様の空だった。
完