道化師少年とミルクティー
全て話し終えると、稀子は僕が話す間ずっと閉じていた目を開いた。黒曜石のような瞳が僕を真っ直ぐに射抜く。
キーボードの上を、細い指が滑る。
『ベランダの様子をもう一度、話してくれ。どんな些細なことでも構わない。七海が触ったものがあったらそれも』
あごの先だけを沈めて了解を示す。
金本さんは一瞬だけこちらに視線を寄越して、何も言わずに逸らした。茫洋とした眼差しは、カウンターの向こうの黒いコーヒーミルを捕らえている。
その仕草だけで、金本さんがどんなに僕らを気遣ってくれているのかが分かる。
普段はガキっぽくて、変なところで頑固で、職業柄か時々ぞっとするほど冷徹なところがある金本さんだけど、彼は根っこの方がしっかりしていてあたたかい。そのあたたかさは六月の雨に似て、僕らにふわりと沁みこんでいく。
金本さんに出逢えて良かった。
こんな時に――いや、こんな時だからこそ、柄にも無くそんなことを思った。
稀子は感情の起伏や確証の無い考え、すなわち頭の中の大半を表に出さない奴だ。本当はどう思っているのか分からない。でもきっと、僕と同じ事を思っている。と思う。
揺れている自分を、ほんの少しだけ後ろから支えられたような感覚で、言葉を紡ぐ。
「今日は風が強くて、カーテンが部屋の方になびいていた。ベランダにあったのは、古そうな洗濯ばさみと四十センチメートル四方くらいの発泡スチロールの箱、若竹の物干し竿。ベランダの柵は凄く冷たくて、凍りそうになっていたよ」
『それだけか? 佐々木夏奈の年齢と、身長は?』
「夏奈は小学校二年生で、身長は稀子より少し小さいくらいだから、大体百二十五センチくらいかな」
『十五センチくらい差があるぞ。それを少しとは言わない』
稀子の陶器のような頬が、ぷっくりと膨らんでいる。こいつ、意外に気にしていたのか。
『それはともかく、その身長の女の子が届くくらい低い柵なのか?』
「ううん。高さは僕の胸上くらいだし、台みたいな物も無かった」
『つまり、自力で落ちるのは難しいということか』
そう。夏奈と柵の高さの差は約十五センチメートル。発泡スチロールに乗ったところで、せいぜい頭や首が出るくらいだろうから、落ちるのはかなり難しい。誤って落ちるためには、少なくとも胸くらいまでは柵を越えていないといけない。
『夏奈の家の家族構成は?』
しばらく沈黙してから、稀子が問う。僕はごろりとした唾を飲み込んで、呟いた。
「お母さんの春佳さんと娘の夏奈の二人。……お父さんの雅喜さんは、交通事故で亡くなってる」
『確かか?』
稀子が、探るような目で僕を覗き込む。僕の呼吸はほんの少し浅くなる。
「うん。僕が、この目で見たから」
沈黙が降りた。
『そうか。すまなかった』
稀子が目を伏せ、そっと頭を下げる。髪が肩を滑り落ち、稀子の顔を隠した。稀子は、僕が『道化師』になったきっかけがそれだと気付いたんだろう。
雅喜さんを――夏奈のお父さんを殺してしまったのは、僕だ。
金本さんはさっきから何もしゃべらない。
何となく空気が重くなったところで、僕らの目の前にコーヒーやミルクティーのカップが置かれた。優しい香りとあたたかな湯気が、凍えたようにかたまった空気をほどいていく。
「特別ですよ」
カップから視線を上げると、ウィンクして微笑む櫻井さんが見えた。僕は頭を下げ、カップを両手で包むようにして持つ。
訳もなく涙が出そうになった。