The opening of a play
ああ、まただ。
暗い思考の中にずぶずぶと沈んでいく、吐きそうになるほどの嫌な感覚。それは僕の足を絡めとり、茨のように僕をその場に縛り付ける。
足が動かない。頭から一気に血の気が引き、一瞬目の前から光が消える。銀砂が散り、腕が命令を聞かなくなる。呼吸が浅い。噴き出した汗がべたべたして気持ち悪い。
不定期的に僕を襲う、この感覚。
この感覚を的確に表す言葉を僕は知らない。金本さんは『嫌悪』だと言い、櫻井さんは『恐怖』だと言った。そのどれもしっくりこなくて、僕はまだ、言い表すことが出来ないままだ。
出会ったばかりの頃、金本さんが言っていた。
――『名前をつけることは、人にとって克服や征服を表す。名前をつけるだけで、俺たちはそれを知り、克服した気になるんだぜ』
だから、早く名前を見つけろ。そう言っていた。あのときの僕はどうしようもなく愚かで馬鹿で、甘かった。永久の拷問から抜け出すことを毎日夢見ていた。普通から道化へと転落した『あの日』以来、僕は全てが怖くなった。
永久の拷問。道化の毎日。そんなものを抱え込んでいるのは僕だけだ、なんて甘ったれた勘違いをしていた。
そんなとき、偶然『最近の若者の自殺』というテーマを追っていた雑誌記者の金本さんと出逢い、一発ぶん殴られ、『喫茶 ピエロ』に連れて行かれた。そこで色々な人に出逢い、色々な事を知った。
そして、『喫茶 ピエロ』の皆が僕と同じ道化師であることを知った。
皆、周囲とは違うばかりに外れてしまった人たちだった。僕は皆が抱える、ほんのちょっとの『異質』に触れた。
僕は相変わらず全てが怖かったけれど、全てが嫌ではなくなった。一人じゃないということが、どんなに救いとなることなのか。それが分かった今は、拷問から逃れる方法を考えようとはしなくなった。しっかり生き抜いて、それで死んだら、神様にうんと文句を言ってやる。それが、皆と、そして自分との約束。
空を覆っていた厚い雲が晴れていくように、あの感覚が去っていった。僕はいつの間にか頬を伝っていた涙を指で弾く。
弱いままでもいい。どんなに弱くても、僕らはちゃんと前を向ける。一ミリでも、前進は前進なんだ。これも、金本さんに教えてもらったこと。
やっと、止まっていた次の一歩を踏み出した瞬間――。
いやああああああああぁぁぁ!
長く尾を引く金属質な女の悲鳴が、僕のすぐ前にあるマンションから響いてきた。
僕の住んでいるマンションだ。鉛を括り付けられたような足を無理矢理動かして、僕はマンションへと駆け込んだ。