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夢野奈穂は幼い頃から現在も、陰惨な虐待を受けているものの、少なくとも外では、劣悪な環境で育っているとは思えないほど明るく振る舞う活発な少女だ。普段は口数も多く、彼女に好印象を抱いている同級生は割と多い。大好きな少年の前では奈穂も若干内気にはなるが、長時間無口なったのを見るのは、千春にとってはこの日が初めてのことだった。
いつになったら用件を伝えてくれるんだ。
黙ったままの奈穂にうんざりし、千春が溜め息を吐こうとした時、唐突に、彼女はネズミの鳴き真似を始めた。
「チューチュー。チューチュー」
何事だと千春は横を向く。視線の先では、いつの間にか右手の人差指にネズミの指人形をはめた奈穂が、笑いながら千春の目の高さで、作り物のネズミに何度もお辞儀をさせていた。
「チュー。チューチュー」
君は何が言いたいんだ。
千春は奈穂を無視して、僅かに目を細め、子ども向けに可愛らしくデフォルメされたネズミの指人形を、しげしげと見る。が、どれだけ頭を働かせてネズミを見ても、彼女からのメッセージを読み取ることはできない。
お願いだから言葉で伝えてくれないかな。
奈穂の動作から心情を読み取ることを諦めて、千春は正面を向こうとした。しかし、ちょうどその時、奈穂は『チュー!』と言って、ネズミの口を千春の口へと押し当てたので、結局彼女から目を離すことはなかった。
「何するんだよ奈穂!」
小学生の頃から、千春は母親に望まない近親かんを強いられていた為、身体接触や性を連想させる行為には、嫌悪感を示していた。その事実を、付き合って一年にもなる奈穂が知らないことはなかった。
そのことだけは自分に気を遣ってくれても良いじゃないかと千春は思った。が、彼女は激する千春を他所に、満面の笑みでネズミに口付けし、千春との間接キスを楽しんでいた。
「奈穂、僕の前でそんなことしないでくれ」
千春が泣きそうな顔で懇願すると、彼女はきょとんとして右手を下ろす。
「何で怒ってるの?」
「奈穂が変なことするからだよ」
「良いじゃん、間接キスくらい」
「僕にとっては『くらい』じゃないんだよ」
「それにしたって、そんなに怒ることかな……」
「怒るよ。ことがことなんだから」
「……そっか。良い考えだと思ったんだけどなぁ」
返答を聞き、心底残念そうに俯く奈穂。そんな彼女を見て、千春は自分が思い浮かべる女性像と彼女の形が、明らかに違っていることに気付き、戸惑いを覚えた。
おそらく奈穂は僕とキスがしたいと思っている。でも彼女は自分の気持を抑えて僕の気持を優先させた。そうしたところで、自分が幸せになれないことも、知りながら?
『ちょっとだけで良いから、ね』
女性について考えていると、唐突に、有無も言わせぬ母親の言葉を千春は思い出した。
彼女が僕の気持を優先させた?ありえない。女が他人を優先させることなんてない筈だ。女はいつだって自分の至福のことしか考えていない。その筈だ……。
その筈なのに、奈穂は例外なのか?彼女は僕を道具として見ていないのか?そうだとしたら、一体何が楽しくて僕の傍にいるんだ?
奈穂の、人の意志を尊重する行動を受けて、千春の頭の中は疑問符でいっぱいになった。が、それ以上に彼の脳内ではある言葉が浮かんでいた。
助けたい。助けになりたい。
自らも苦しみの真っ只中にいながら、笑うことができる彼女に、千春は憧憬を抱いた。自分とは違い、純粋に、人に優しくできる彼女を、助けたいと思った。
それは明らかに千春の中で現れた変化だった。
奈穂を苦しめているもの。それは、父親。父親しかいない。殺す。殺すか。彼女が苦しめられなければならない理由なんて、分からない。殺そうか。殺してやろうか。
例え自分は無理でも、奈穂だけは幸せになってほしいと千春は思った。しかし、自分に殺人を行なえるだけの度胸があるのかどうか、千春には分らなかった。
「奈穂、ごめん」
ひとまず自分が今できることを考え、千春は奈穂の左手を握りしめた。
手と手が触れ合うと、握り返してくると思った千春の予想に反して、奈穂は再び―弱々しい―笑みを浮かべるだけで、彼女が左手に力を込めることはなかった。
二人はしばらく手を繋ぎ、千春は黙って奈穂のことを考えた。
彼女と歩んだ過去のこと。彼女と歩んでいる現在のこと。彼女と歩んでいく未来のこと。
ありとあらゆる事象を一通り考えた後、千春は奈穂から手を離した。
二人の手が離れる頃には、千春の中では奈穂になら触れられても良いという気持が芽生えていた。
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