再生の街
昔、マイケル・J・フォックスが主演していた映画のタイトル。
以前に原作本も読んでいた。
地味な映画だ。コメディ要素もないし、鬱展開なことおびただしい。
でも私は、この話が嫌いじゃない。むしろ好きな方だと思う。
原作では、ごく普通に生きている人の気持ちが丁寧に描かれていた。私自身も、映画初見の頃とは、かなり時間が経ってしまった。
なんだか気がつかないうちに、歳ばっかり取ってしまったなあという感じ。
このまま自分はどこに行きたいのかも定まっていない。
行き先なんて決める必要なんか、ないのかもしれないけれど。やはり振り返ると後悔ばかりだ。少しでも他人に優しくしたくても、ほんのちょっとのことで傷ついたり悩んだり。
ついさっき、NHKで「東日本大震災から一年」云々という企画番組を放送していた。
視聴者にアンケートを取り、取材していく番組の構成だった。一人の女性の壮絶な体験の書かれた文章が映し出された。
「母は、私の娘が助かったのを見届けて津波に飲まれて行った。「あんたがたが助かってよかった。生きなきゃだめだよ! バンザイ! バンザイ!」と言いながら波の中に流されて行った」
彼女の母親は自分の命と引き換えに、孫を助けて逝ってしまったのだ。
この女性のお嬢さんは、ダウン症で全盲だ。まだまだ小さいお嬢さんと彼女を護るべき存在の「夫」は、震災前に撮った家族写真の中には写っていない。
他にもたくさんのアンケート用紙に「どうして自分だけが助かってしまったのか」などと、自責の念が滲み出るような文字がテレビ画面の中にあった。
生と死は紙一重。だけど。
「残された私が、亡くなった人の分まで生きる」なんて、生きてる者は考えなくていいと思う。そんな考えを持っているから辛くなる。捨てちまえ、そんなの。とさえ思う。
いや、それを支えに生きたい人は生きればいい。だが、その言葉を他者に対してかけるのは間違いだ。
がん患者に「がんばって」と言うのと変わりがないくらい、残酷な言葉だと私は思う。
どうして自分が助かったのか、と言う問いに、こう答える人もいることを私は知っている。
「それはあなたに使命があるからよ!」
そんな言葉を聞くたびに、私の心は冷えて固まる。そんな上っ面の微笑みなんか要らない。使命があるから、なんだってんだ。そういう人は概して「がんばれ」と軽々しく言う。ちっともわかっていないんだ。喪失感や絶望、という言葉の意味を。わからない人に合わせる必要はない。合わせなくていい。そんなことを言う人からは離れていい。
「言霊」という言葉が日本にはある。私は思う。生きているだけで凄いことだと。日々を普通に暮らせることが、どれだけありがたいか。当たり前のことが当たり前じゃないと気がつくために、どれだけのものを手放せばわかるのか。
わかる人だけで寄り集まってもいいじゃないの。命の瀬戸際に立ったことのある者同士で固まって、難しいことを手から放して。つつましく過ごすことで十分だ。必ずそこには、暖かい陽射しがさしてくるはずだから。