下宿生
エピソード1 復学
郊外にあって空襲を免れた高校の校舎も、木造から鉄筋コンクリートに建て替えが進んでいた。
木造校舎は湿気が多く、廊下がすり減ってデコボコしていた。ワックスの匂いには閉口した。
中学の校舎が近代的だっただけに、千恵子の失望は大きかった。一年間、耳障りな工事の音を聞きながら過ごした。
新校舎がようやく全貌を現しつつあった。期待は裏切られ、二年生は古い校舎に入った。また、憂鬱な高校生活が始まった。
クラスに行くと、見慣れた顔ばかりだった。何人かは同じ中学の出身だった。千恵子がクラスメイトと分かったとたん、男子はうんざりした表情をした。露骨だった。
中に一人だけ初めて見る生徒がいた。順に自己紹介した。その男子生徒は前年の一学期から病気で休学し、復学してきたということだった。実家は山間部にあり、市内に下宿していた。
エピソード2 おせっかい
クラスに知り合いはなく、その男子生徒は孤立していた。一日中、ほとんど口を利くことがなかった。
勉強はできた。教員に当てられると、いつも正答していた。放課後の教室には一人残って勉強する男子生徒の姿があった。
休憩時間中、千恵子が何げなく男子生徒のノートを見た。「STONE BRIDGE」と走り書きされていた。一個だけではなかった。千恵子の視線に気づき、男子生徒はノートを閉じた。斜め前に座る石橋のことに違いなかった。
「石橋さんのこと、好きなの」
訊くと、否定も肯定もしなかった。
「伝えてあげようか」
千恵子は孤独な級友に、ついおせっかいを焼きたくなった。
千恵子は放課後の教室に報告に行った。
「大杉君。石橋さん、ほかに好きな子がいるんだって」
大杉は一瞬だけ、教科書から目を離した。
石橋はとりたてて美人ではなく、控えめで大人しかった。
千恵子には男子の気持ちは分からなかった。また、男子に興味を抱く女子の気持ちも分からなかった。男子に長く無視され続け、自分はそういうこととは無縁だと思ってきた。
エピソード3 差し入れ
今日も大杉は放課後の教室に残っていた。
千恵子が入って行くと、大杉は少しうろたえた。机の上にサンドイッチの包みがあった。手づくりだった。
(誰かにもらったんだ。大杉君のこと好きな子がいるんだ)
千恵子の知らないところで、大杉のことを見ている女子がいたのだ。こうしている間にも、千恵子はその子の視線を感じた。
大杉はクラスで人気者になりつつあった。勉強ができた上、いろいろなことを経験していた。ロングホームルームのミーティングではまとめ役にもなっていた。
千恵子は大杉の話を聞くのが楽しみだった。土曜の放課後、遅くまで話し込んだことがあった。
「ねえねえ、今度、うちにおいでよ」
千恵子は大杉を誘った。ごく自然に口をついて出た言葉だった。
千恵子の家は歓楽街の入り口にあり、青果店を商っていた。母と兄との三人家族。父親の顔は知らない。
大杉を歓待した。兄も大杉に関心を示し、話が弾んだ。
「だけど、なんで男の子は千恵子のことをそんなに嫌うのだろうね。中学の時から、ずっとそう」
千恵子を気遣いながら、母親がふと洩らした。
「千恵ちゃん、理屈っぽいところあるじゃないですか。それが可愛げないって、男子は言ってますよ。僕は話してて『そんな見方もあるんだ』と、目を開かされます」
初めて聞く、大杉の千恵子評だった。
エピソード4 文化祭
世の中が騒然としていた。
全国の大学で学園紛争の嵐が吹き荒れていた。その年の東大入試は中止となった。若者の間には反戦歌が流行り、千恵子のクラスでも昼休みなどギターに合わせてフォークを歌うグループがいた。
そんな中にあって、大杉はどこか泰然としていた。
文化祭に参加することになり、衆議の結果、演劇をやることが決まった。めいめいがいろいろなことを述べ立てた。誰もが暗礁に乗り上げたと思っていたところ、みんなの意見を反映させて大杉が脚本を書いてきた。
大杉の脚本は、家庭における父親の存在感をテーマにしていた。
仕事一筋、家庭を顧みることのなかった父親が突然亡くなり、家族の絆はばらばらになる。その時、父親の存在感の大きさに気付いたのは、最も反発していた息子だった、というストーリーだった。
文化祭の出し物が多く、大して注目を集めなかった。それでもクラスには満足感があった。
エピソード5 文学少年
クラスは大杉の意外な側面を見せつけられた。大杉はガリ勉ではなかったのだ。
大杉の関心は文学にあったようだった。作家では芥川龍之介、有島武郎、太宰治、牧野信一などに傾倒していた。千恵子が読んだことがあるのは芥川だけだった。芥川同様、ほかの三人も自殺していたことを初めて知った。
大杉が本を貸してくれることになり、千恵子は大杉の下宿を訪ねた。
下宿は高校から歩いて三〇分ほど、広い民家の庭に建てられていた。もうひとり下宿生がいて、別棟に入っていた。
大杉の住まいは玄関を開けると、三和土、廊下、その奥に押し入れが目に入った。四畳半の部屋が二部屋あって、一室は机と教科書類、もう一室はベッドと文学書で占領されていた。二つの部屋は廊下でつながり、完全に左右対称の造りだった。
下宿に当てている建物は子ども用に増築したものと思われた。ベビーブーム期に生まれた子供たちが進学・就職し、家庭によっては空き部屋が出てきた時期でもあった。
何回か訪問するうち、大杉はベッドに横たわり、千恵子がその横に腰を降ろして、とりとめのないことを話すようになった。
大杉はある時に語った。
「休学するか、高校を辞めるか迷った。いっそ、見知らぬ土地に行き、ゼロからやり直してみようかとも考えた。でも、踏み切れなかった。今では、一周遅れでも二周遅れでも、自分の目標を見つけて努力することが大事だと思っている。人生は他人との競争ではないはずだ」
千恵子はこれまで悩んできた疑問に、解答が出たような気がした。
千恵子が出入りしていることは下宿先で広く知られるところとなった。下宿では、二人はきょうだいのようだと話題になっていたらしい。
幼い頃から、千恵子が異性と話すとしたら兄くらいだった。兄には包容力があり、千恵子のささくれ立つ心を鎮めてくれた。今や、大杉にも同じことを感じるようになっていた。
エピソード6 ジェラシー
大杉は放課後、相変わらず教室で勉強していた。千恵子は学校では大杉と必要以上のことはあえて話さなかった。
土曜の午後、翌日に下宿を訪問したくて、そのことを大杉に告げに行った。大杉の机の上にはサンドイッチの包みがあった。千恵子は教室の入り口で、そっと踵 を返した。
このままでは大杉が遠いところに行ってしまう気がした。いつまでも二人の心は離れることはないと信じていた。しかし、大杉はサンドイッチの女の子とずっと関係を保っていたのだ。嫉妬心が燃え上がった。
翌週の土曜午後、千恵子は校庭で時間をつぶし、そっと教室をうかがっていた。やはり、女子がひとり教室に入って行った。石橋だった。
矢も楯もたまらず、千恵子は家に帰り、大杉に手紙を書いた。初めてのラブレターだった。二日つづけてほとんど眠ることができなかった。月曜朝、母親に起こされて登校した。
エピソード7 失恋
男子は体育の時間だった。教室には誰もいなかった。千恵子は大杉の机の中に、そっと手紙を入れた。
放課後を待ちかねて、千恵子は大杉の様子をうかがいに行った。その日にかぎり、大杉は担任と話していた。千恵子に気付いても、表情ひとつ変えなかった。
(終わったんだ)
校門を出たとたん、涙が頬を伝わってきた。
翌日の夕方、大杉の下宿に借りていた本を返しに行った。
大杉は少し気まずそうな顔をしながら、千恵子を招き入れた。千恵子は本も渡し、早々に立ち去ろうとした。大杉の前を通り過ぎようとして、いきなり大杉に抱きすくめられ、ベッドに押し倒された。
「やめて。私のことなんか好きでもなんでもないんでしょ」
千恵子は大杉をキッとにらんで言った。
しばらく無言の時間があった。
「でも私は大杉君が好きよ。私はずっと思い続けるわ」
大杉の力が緩んだ。
「帰れ」
大杉は千恵子に背中を向けた。
エピソード8 誤解
大杉から千恵子に手紙が届いた。
「石橋さんのことは誤解です。最初、放課後の教室にきてくれた時はうれしかった。でも、石橋さんの目的は病気の相談だったのです。
僕と同じ心臓の病気です。無理をすると命にかかわります。僕は心穏やかに生活するようアドバイスしました。家が学校の近くなので、そのうち土曜日にはよくサンドイッチを届けてくれるようになりました。
千恵ちゃんから聞いていたとおり、石橋さんにはずっと思い続けている男子がいました。僕は彼にそのことを伝え、仲を取り持ちました。彼はとてもまじめで、しっかりした信念を持っています。僕は彼と親友になれそうな気がしています。
ところで、彼が念願のボーイフレンドになってくれても、石橋さんは心が晴れなかった。学業を続けるかどうか迷っていたのです。担任に打ち明けたらしく、担任が僕の経験を訊きにきました。千恵ちゃんから手紙をもらった日のことです。
千恵ちゃんの手紙に僕は戸惑いました。あの手紙は書いてほしくなかった。あれを読めば、僕だって冷静ではいられません。できれば、あのまま、きょうだいのような時間を過ごしたかったのです。
石橋さんに千恵ちゃんのことを話しました。とても羨ましがっていました。でも、仮に、二人が異性として交際するようになったら、石橋さんはきっと落胆するでしょう。
千恵ちゃんが言ったように、僕も千恵ちゃんが好きです。千恵ちゃんと過ごした時間を忘れることはないでしょう」
エピソード9 三人三様
三年に進み、新校舎に移った。ギリギリのタイミングだった。
千恵子と大杉はクラスが分かれた。石橋は休学することになった。真相を知るのはおそらく三人の生徒と二年の担任だけだろう。
三年生は受験一色になった。医療系大学を希望していた千恵子は、担任からずいぶん厳しいことを言われた。のんびり屋の千恵子にもエンジンがかかってきた。大杉はと言えば、廊下などですれ違っても、余裕の表情をしていた。
千恵子は四国の医療系大学になんとか合格した。第二志望だった。大杉は東京の大学の文学部に合格した。高校の同級生によれば、二年で中退し、俳優養成所に通っているらしい。
石橋の消息は不明だ。彼氏は東北の大学に進学し、一年の秋に服毒自殺したという話が伝わってきた。遺書はなかったということだった。
千恵子は大学時代に一度だけ、かつての大杉の下宿を見に行った。
門にたたずんでいて、自転車のベルを鳴らされ我に返った。セーラー服からして、高校の後輩だった。ペコリと頭を下げて自転車を降り、玄関脇に停めた。
あの時の自分の姿が重なった。違ったのは、後輩が鍵を出して玄関を開けたことだった。
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この作品はフィクションです
登場人物等は実際のものとは関係がありません




