第9話「利権の糸」
——また、あの人に人生を壊されるの?
書状を握りしめたまま、私は倉庫の作業台の前に立っていた。
ルーカス・フォン・ヘルダーリン。侯爵家嫡男。元婚約者。婚約を破棄し、聖女マリエルを選び、私を王都から追い出した男。
その男が、今度は私の仕事を奪おうとしている。
オルガが持ってきた書状は、王都の法務機関からの通達だった。ヘルダーリン侯爵家が、旧ヴァルトシュタイン家が保有していた辺境の薬草利権について、「管理権移転」の申請を行った。理由は「旧利権保有者の管理不在による資産保全」。
利権の管理権が侯爵家に移れば、辺境の薬草農家の一部が侯爵家の管理下に置かれる。私の独自仕入れルートはかろうじて伯爵家の利権外だが、オルガ商会の仕入れ元の一部は利権範囲内だ。オルガ経由の薬草が止まれば、辺境向けの生活用品の生産量が落ちる。
工房の運営が、根元から揺さぶられる。
書状を作業台に置いた。指が震えていた。
前と同じだ。あの男はいつも、書面一枚で人の人生を動かす。婚約破棄も三行の通告書だった。今度は法務機関を通じた利権移転。手段は違うが、本質は同じだ。自分が切り捨てたものの価値を後から気づき、それを手元に戻そうとしている。
前と同じにはならない。
私はもう、あの日の私ではない。
手を動かした。書状をもう一度読んだ。法務機関の文書だ。形式は正規のもの。だが、申請が受理されただけで、まだ成立はしていない。異議申し立ての期間がある。
異議を申し立てる方法を、探す。
古書店に走った。
契約魔法の法制度に関する書物は、営業許可を取得した後も読み続けていた。商法、利権法、土地法。辺境の古書店に流れ着いた法律書の中には、王都では見落とされるような旧法の条文が埋もれている。
三日間、工房の作業の合間に古書店に通った。
三日目の夕方、見つけた。
「辺境利権法・補則第十二条」——旧法の条文だ。現行の利権法の成立以前に施行された補則で、廃止の記録がない。つまり、現在も有効な法律だ。
条文の内容はこうだった。
「辺境の薬草利権の管理権を第三者に移転する場合、利権範囲内に居住する血族の同意を必要とする」
血族。
私は旧ヴァルトシュタイン家の血族だ。勘当同然とはいえ、正式な除籍手続きは行われていない。戸籍上は今も伯爵家の娘だ。そして今、私は辺境に居住している。
この条文に基づけば、ルーカスの利権移転申請には、私の同意が必要になる。
同意しなければ、申請は却下される。
だが、問題があった。
異議の申し立てには、法務機関への書面提出が必要だ。辺境から王都への書面は馬で三日から一週間。間に合う。だが、提出の形式が問題だった。
法務機関への異議申し立ては、申し立て人の身元を保証する連署人を必要とする。王都であれば、身分証明の届出記録で代替できる。だが辺境には身分証明の行政機関がない。辺境から提出する場合、連署人として認められるのは、利権法上の関係者——すなわち申し立て人の婚姻契約者に限られる。
婚姻契約者。
頭の中で、回路が繋がった。
夜の倉庫。
クロードが出荷用の木箱を積み上げ終えたところだった。
「話がある」
私は作業台の前に立ち、クロードに向き合った。
「利権移転を止める方法を見つけた。旧法の条文で、辺境居住の血族の同意が必要になる。私が同意しなければ、申請は却下される」
「いい手だな」
「だけど、異議の申し立てに連署人が要る。辺境には身分証明の行政機関がないから、法務機関に書面を出すには、私の身元を保証する婚姻契約者の連署が必要になる」
クロードの目が細くなった。
「契約結婚を申し出ています」
私は言った。声が震えなかったのは、何度も頭の中で繰り返していたからだ。
「条件があります。これは法的手続きのための形式婚です。借金の返済とは別の契約です。恋愛感情を根拠にしません。法務機関への異議申し立てが完了し、利権移転が却下された後も、工房の共同経営上の利便性から婚姻契約は維持しますが、それ以上の意味を持たせません」
合理的な条件を並べた。事実、そうだ。
だが、「形式婚」と言いながら、胸の奥で何かが脈を打っていた。それが何かを確かめる余裕は、今はなかった。
クロードは木箱から手を離した。壁にもたれた。腕を組んだ。
長い沈黙だった。
この男の沈黙には種類がある。計っている沈黙。堪えている沈黙。そして今の沈黙は——
「……わかった」
声がかすかに裏返った。
一瞬だけだった。すぐにいつもの低い声に戻った。だが、私はそれを聞き逃さなかった。
裏返った。この男の声が。
「条件は全部呑む。形式婚。借金とは別。恋愛感情は根拠にしない。了解した」
「ありがとう」
「礼を言うな。借金の取り立てだ。債務者が営業停止になったら回収できないからな」
嘘だ。
嘘だとわかっていた。だが、今はその嘘を剥がすときではなかった。
翌日。
契約結婚の手続きを行った。
辺境では、婚姻契約の成立に身分証明は不要だ。契約魔法の成立要件は「双方の意志」と「契約書への魔力定着」の二点のみ。王都の行政慣例——身分証明、第三者の立ち会い、届出——は、辺境では形骸化している。契約書の作成が、そのまま婚姻成立を意味する。
無籍者であっても、契約の当事者になれる。
私は契約書を起草した。古書店で学んだ契約魔法の書式に従い、婚姻契約の条項を書き出した。双方の氏名。婚姻の目的。権利義務の範囲。解除条件。
クロードが契約書を読み、頷いた。
二人で契約書に手を置いた。
意志を込めた。
魔力が定着した。紙の表面がほんのわずかに温かくなり、文字が淡く光って消えた。契約魔法の成立だ。
その瞬間、手に嵌めていた指輪が光った。
私が持っていた指輪ではない。契約書の横に置いてあった簡素な銀の指輪——オルガが「形だけでも」と言って貸してくれたものだ。
契約書に定着した魔力の一部が、指輪に宿った。
婚姻契約の成立時に、魔力が指輪等の媒体に自然に定着する現象。法的要件ではない。慣習だ。だが、この指輪は今、契約の証として機能している。
クロードの左手の薬指にも、同じ銀の指輪が嵌まった。
「……これで、成立だ」
クロードの声は静かだった。
私は契約書の写しを二部作成した。一部は手元に。もう一部は法務機関への異議申し立てに添付する。
「クロード。異議申し立ての書面を作成します。あなたの連署で、私の身元を保証する形にします」
「ああ」
「旧法の条文と、婚姻契約の写しと、辺境居住の証明を添付します。これで法務機関は申請を却下する以外にない」
書面の作成に半日かかった。クロードは横で黙って座っていた。時折、左手の指輪に視線が落ちていた。
書面を封筒に入れ、封蝋を押した。翌朝の定期船で王都に送る。届くまで三日から一週間。届けば、ルーカスの申請は却下される。
夕方。
書面の準備が終わり、倉庫で一息ついていた。
クロードは倉庫の隅で木箱の修繕をしていた。釘を打つ音が規則正しく響いている。
ふと、その手が止まった。
左手を顔の前に持ち上げた。銀の指輪が、夕日の光を反射して光っている。
クロードは指輪を見つめていた。
長い時間ではなかった。数秒だ。だが、その数秒の間、この男の目に浮かんだものを、私は見てしまった。
喜びだった。
三百年分の孤独を抱えた男が、初めて「配偶者」という立場を得た。形式婚だとわかっている。法的手続きのためだとわかっている。
わかっているのに。
クロードは指輪を握り込み、手を下ろした。何事もなかったように、釘を打つ音が再開した。
私は見ていなかったふりをした。
自分で見つけた法律で、自分を守った。利権移転は却下される。工房は維持される。それは達成感だ。確かにそうだ。
だが、「契約結婚してしまった」という事実の重みが、胸の上に乗っていた。
形式婚だと言った。恋愛感情は根拠にしないと言った。
嘘ではない。嘘ではないが——
クロードの声が裏返った瞬間を、私はなぜ聞き逃さなかったのだろう。
なぜ、それを覚えているのだろう。
答えは出なかった。
出ないまま、私は蒸留器の片づけに手を伸ばした。明日も仕事がある。「ルーナ」の追加発注分を作らなければならない。
左手の薬指の指輪が、作業台の端にぶつかって小さな音を立てた。
その音に、心臓が一度だけ跳ねた。
夜。
書面を封じた封筒を、倉庫の棚の上に置いた。明日の朝、港の定期船便に預ける。
王都のルーカスのもとに、利権移転の却下通知が届くのは——書面が法務機関に届き、審査され、却下が決定され、通知が発送されてから、さらに数日。
その間、ルーカスは何も知らない。
「ルーナ」の正体を調べていること。利権移転の申請が却下されること。イレーネが契約結婚していること。
何も知らないまま、あの男は王都で次の手を打とうとしているのだろう。
だが、もう遅い。
私は自分の足で立っている。自分の法律で、自分を守った。
倉庫の灯りを消した。
暗がりの中で、左手の指輪がほんのわずかに温かかった。契約魔法の魔力が宿っている。婚姻契約の証。
形式婚の指輪。
それだけのもの。
それだけのもの、のはずだった。




