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婚約破棄された令嬢ですが、三百年前の借金を取り立てに来た男の本当の目的を私は知っています  作者: 月雅


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第8話「古い夢」

「三百年前の大陸南部には、今はもう存在しない花が咲いていた」


その言葉を聞いたのは、夜の工房だった。


「ルーナ」の追加発注分の蒸留が長引いていた。王都の銀鈴堂からの月五十本の注文に応えるには、通常の営業時間では足りない。夜の残業が常態化しつつあった。


倉庫の隅で、クロードが木箱の上に座ったまま眠っていた。


出荷用の木箱を組み終えた後、そのまま壁にもたれて寝落ちしたのだろう。腕を組み、顎が胸に落ちている。寝息は静かだった。


蒸留器の火を落とし、最後の精油を瓶に移し終えたとき、クロードの唇が動いた。


「……エステリア」


聞いたことのない言葉だった。花の名前のように響いた。


「……白い、花が……燃えて……」


古い言葉遣いだった。今の王国の言語とは微妙に異なる音の並び。母音が長く、子音が柔らかい。数百年前の大陸南部の方言に近い——と思ったのは、古書店で読んだ歴史書の中に、古語の引用があったからだ。


「……まだ、ここに……」


以前にも、似た寝言を聞いた。あのときは「まだ、ここにいる」だった。今夜はもう少し長い。


エステリア。白い花。燃えている。火の匂い。古い時代の言葉。


私は蒸留器の脇に立ったまま、クロードの寝顔を見ていた。


二十代半ばの顔。眠っているときだけ、あの目の奥行きが見えない。ただの若い男の寝顔だ。けれど、その唇から漏れる言葉は、三百年前の記憶を語っている。


起こすべきかどうか迷った。


迷って、起こした。


「クロード」


肩に手を置いた。クロードの目が開いた。一瞬、瞳の焦点が合わなかった。三百年前のどこかから、今のこの倉庫に戻ってくるまでに、一拍の時間がかかったのだ。


「……ああ。寝てたか」


「寝言を言っていました」


クロードの目が鋭くなった。


「何を」


「エステリア。白い花。火。古い時代の言葉で」


沈黙。


クロードは木箱の上で姿勢を正した。壁にもたれたまま、天井を見上げた。


長い沈黙だった。蒸留器の冷却水が滴る音だけが、暗い倉庫に響いている。


「……エステリアは花の名前だ」


クロードが口を開いた。


「大陸南部の山地に咲いていた白い花で、今はもう自生していない。三百年以上前に、戦で山が焼かれたときに絶えた」


「三百年以上前」


「ああ」


「あなたは、それを見たの」


クロードは天井から視線を下ろし、私を見た。


「……昔、助けてくれた女がいた」


以前にも聞いた言葉だった。あのとき、クロードは「それだけの話だ」と打ち切った。今夜は、もう少し先に進んだ。


「瀕死だった。道端に倒れていた俺を、その女が拾った。薬草で手当てをして、飯を食わせて、何日か世話をしてくれた。俺は金を貸した。旅の路銀として持っていた金貨を。女は来世で返すと言って、契約魔法で借用書を作った」


「それが、あの借用書」


「ああ」


「その女がいた場所に、エステリアが咲いていた?」


クロードは答えなかった。


その沈黙が、答えだった。


「女は死んだ。借用書だけが残った。俺は……残った」


それ以上は語らなかった。


私は追及しなかった。


この男が語れる範囲は、少しずつ広がっている。最初は「それだけの話だ」で終わった。今夜は、花の名前と、女の存在と、借用書が残った経緯まで語った。


全容はまだ遠い。三百年分の重さを、一度に語れる人間はいない。


「一つ、提案があります」


「何だ」


「あなたの夢に出てくる匂いを、私が作ってあげる」


クロードが目を見開いた。


「匂い?」


「エステリアという花は、もう存在しないんでしょう。でも、寝言の中であなたは花の匂いだけでなく、火の匂いも、風の匂いも語っていた。断片的だけど、匂いの情報がある。それを私が再現できるかもしれない」


「再現……」


「私は調香師です。匂いの記憶を、瓶の中に閉じ込めるのが仕事です。あなたの記憶の中にある匂いを、素材の組み合わせで再現する。それができるかどうか、試させてください」


クロードは黙った。


長い沈黙。さっきとは違う種類の沈黙だった。さっきの沈黙は過去の重さだった。今の沈黙は、予想していなかった申し出に対する戸惑いだった。


「……好きにしろ」


低い声だった。かすれていた。


翌日から、私は「三百年前の記憶の匂い」の調合を始めた。


手がかりは、クロードの寝言から拾った断片だ。


エステリア——白い花。高山性の植物だろう。白い花弁。香りは甘いが重くない。揮発が早い。山岳部の農家から届いた白い高山植物の精油が、近いかもしれない。


火——木が燃える匂い。ただの焚き火ではない。大量の木が一度に燃えた匂い。樹脂が焦げる重い煙。蒸留器で使う薪の燃えかすから、焦げた樹脂の成分を抽出した。


風——乾いた山の風。土と草の匂い。標高の高い場所の、薄い空気の中にある清涼感。ローズマリーの精油に、微量の苔の樹脂を加えると、それに近い空気感が出る。


古い土地——大陸南部の土の匂い。これは推測でしかないが、南方から交易船で届く樹脂の中に、土壌の成分を含むものがある。白檀系の樹脂の底に、わずかに残る泥の香り。


四つの要素を組み合わせた。


白い花。火。風。土。


配合を何度も調整した。三日かかった。試験紙に落としては嗅ぎ、分量を変え、また嗅ぐ。手が覚えている調合技術の中から、最も近い配合を手探りで引き出していく。


四日目の朝、完成した。


小さな瓶に一本分。


蓋を開けた。


最初に白い花の甘さが鼻に届く。次に、樹脂の焦げた重い煙。その奥から乾いた山の風が吹き抜け、最後に古い土の温もりが残る。


これが正解かどうかは、わからない。私が再現したのは、寝言の断片から推測した匂いだ。三百年前の本当の匂いは、私には知りようがない。


だが、手は「これだ」と言っていた。


それだけではなかった。最後の配合比を決めた瞬間、奇妙な既視感が指先を走った。こうやって瓶を傾けるのは、前にもやったことがある。同じ配合を。同じ誰かのために。——いつ、どこで。それは思い出せない。あの朝、屋敷を出る前に夜着を畳んだときと同じ感覚だった。手だけが覚えている、霧の中の記憶。


夕方。


出荷作業を終えたクロードに、瓶を差し出した。


「できました。あなたの夢の匂い」


クロードは瓶を受け取った。小さなガラスの瓶。琥珀色の液体。


蓋に手をかけた。


一瞬、指が止まった。


それから、蓋を開けた。


クロードの顔が変わった。


一瞬ではなかった。ゆっくりと、段階的に、表情が崩れていった。


最初に目が見開かれた。次に唇が開いた。それから顔全体が強張り——そして、顔を背けた。


瓶を持つ手が震えていた。


「クロード?」


返事がなかった。


クロードは倉庫の壁に向かって立っていた。背中だけが見えた。肩が上下している。呼吸が乱れている。


長い時間が経った。


ようやく、クロードが振り返った。目が赤かった。泣いてはいなかった。だが、泣く寸前の、その手前の、ぎりぎりの場所にいた。


「……これは」


声がかすれていた。


「これは、あの日の風の匂いだ」


「合っていましたか」


「合っている。なぜ合っている。お前は——お前はあの場所を知らないはずだ。なのに——」


クロードの声が途切れた。


瓶を握りしめたまま、もう一度顔を背けた。


私は黙って立っていた。


この男が、これほど動揺する姿を見たのは初めてだった。いつも落ち着いている。三百年分の経験が、この男の感情の表面を厚い膜で覆っている。


その膜が、今、小さな瓶一つで破れかけていた。


自分が作った香りで、人がこれほど動揺する。


調香師として、その事実が胸を打った。嬉しいのではない。誇らしいのでもない。怖いのだ。匂いには、人の記憶の一番深い場所に触れる力がある。それを自分の手が持っている。その力の重さを、初めて正面から感じた。


覚悟がいる。


この手で作るものは、ただの商品ではない。人の心に届くものだ。届いてしまうものだ。


その覚悟を持って、作り続ける。


それが調香師としての責任だと、今、わかった。


夜。


クロードは倉庫の隅に座ったまま、瓶の蓋を閉じたり開けたりしていた。


何度も嗅いでいる。一度嗅ぐたびに、目を閉じる。三百年前の場所に戻っているのだろう。


私は蒸留器の片づけをしながら、その姿を横目で見ていた。


この人が何かを隠している。それは確信だ。三百年の重さ。エステリアの花。助けてくれた女。借用書。延命。すべてが繋がっている。


だが、今は無理に聞かない。


この人が語れるようになるまで、待つ。待つことを、自分に許す。


それは信頼だ。能力への評価ではなく、もっと別の——感情的な次元の信頼だ。


この人を信じている。何を隠していても。


その信頼が、いつから始まっていたのかは、もうわからなかった。


倉庫の片づけを終え、帰り支度をしていたとき、クロードが立ち上がった。


「イレーネ」


名前を呼ばれた。この男が私を名前で呼ぶのは珍しかった。いつもは「お前」だ。


振り返った。


クロードは瓶を胸の内ポケットに入れた。外套の上から、一度だけ手のひらで押さえた。


「……ありがとう」


低い声だった。ほとんど聞こえなかった。


だが、聞こえた。


「どういたしまして」


それだけ言って、私は倉庫を出た。


夜の風が冷たかった。潮の匂いが鼻を刺す。


振り返らなかった。振り返れば、あの男の表情が見えてしまう。今の私は、それを見る準備ができていない。


ただ、胸の奥で何かが確かに変わった。言葉にならないが、確かに変わった。


二人の間に、言葉にできない何かが生まれた。


それが何かは、まだわからない。


翌朝。


オルガが血相を変えて工房に来た。


帳場の扉を勢いよく開け、作業台の前に立つ私に紙を突きつけた。


「王都から書状が届いた。侯爵家の名前で、『薬草利権の管理権をよこせ』って話だ」


紙を受け取った。手が冷たくなった。


ルーカスが動き出した。

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