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婚約破棄された令嬢ですが、三百年前の借金を取り立てに来た男の本当の目的を私は知っています  作者: 月雅


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第7話「匂いの地図」

私は蒸留器の前に座り、新しい調合に没頭していた。


作業台の上に並ぶのは、辺境の薬草だけではない。山岳部の希少な高山植物——霜に強い白い花弁を持つ小さな花と、岩場に自生する苔から採れる樹脂。どちらもクロードが紹介した農家の老夫婦が、「これも使えるかもしれない」と別便で送ってくれたものだ。


白い花弁の精油は揮発が早く、最初の一瞬だけ鋭く香る。苔の樹脂は重く甘く、長時間残る。この二つを組み合わせると——


配合の比率が浮かんだ。


白い花弁の精油を三滴。苔の樹脂を一滴。そこにラベンダーの精油を二滴加え、南方の白檀系樹脂で底を支える。


工房を始めた頃は、指が勝手に動くのを追いかけていた。今は違う。素材の特性を理解した上で、意図を持って配合を組んでいる。前世の技術と、この世界で積んだ経験が、ようやく一つになり始めていた。


試験紙に一滴落として、嗅いだ。


息が止まった。


この香りは——記憶を呼び覚ます香りだ。


嗅いだ人が「大切な場所」を思い出す。具体的な場所ではない。感覚だ。安心していた場所。帰りたいと思った場所。そこにあった空気の温度と、光の色と、誰かの気配。


前世のどこかで、この系統の調合を何度も試みたことがある。だが、異世界の素材で作ったのは初めてだ。


そして、前世の素材よりも——この世界の素材の方が、遥かに深い。


精油の純度が違う。魔力を含んだ土地で育った植物は、香りの密度が常識を超えている。前世の技術と、この世界の素材が、完全に噛み合った瞬間だった。


これは、辺境で売る商品ではない。


これは——王都に出すべきものだ。


営業許可を取得してから数日が経っていた。


虫除けの香油と薬香膏の売れ行きは安定している。港町の生活必需品として定着し、リピーターもついた。オルガの店頭での委託販売は軌道に乗っている。


だが、行商人を通じて王都に流れた商品が評判になっているという情報が、頭から離れなかった。


辺境で生活用品を売り続けることはできる。それだけで食べていける。


けれど、私の手は——この手は——もっと先を見ている。


査察官が来る前から、私は古書店で契約魔法の書物だけでなく、商法や流通に関する文書も読み続けていた。王都の市場構造。高級香料の流通経路。匿名での取引が成立する条件。


辺境では、匿名の商売が成立する。監査が手薄だからだ。王都では不可能——だが、王都の高級香料店に「辺境から匿名で届く商品」として卸すなら、話は別だ。


「ルーナ」


声に出してみた。月の光。月下草の「月」から取った名前。


匿名ブランド。工房主の名前も、出自も伏せたまま、商品の品質だけで王都の市場に切り込む。


防御ではない。攻めだ。


初めて、攻めの商売に出る。


オルガに相談した。


「王都の高級香料店に、匿名で卸したいんです」


オルガは帳場の椅子に深く座り、腕を組んだ。


「匿名ね。理由は訊かないよ。でも、王都の高級店に卸すなら、品質だけじゃ足りない。物流がいる。定期的に、安定した量を、確実に届ける手段が」


「わかっています」


「あんたにそのルートがあるのかい」


なかった。


オルガの商人ネットワークは辺境から近隣の町までだ。王都への定期輸送は、コストも信頼性も、小規模工房には手が届かない。


倉庫に戻った。


クロードが棚の整理をしていた。私が入ってくると、手を止めて振り返った。


「王都に商品を送りたい」


単刀直入に言った。


「匿名のブランドとして、高級香料店に卸す。品質は問題ない。だが物流がない。辺境から王都まで、定期的に安全に届ける手段が要る」


クロードは黙って聞いていた。


「輸送は俺が手配する」


「……できるの」


「王都までの街道沿いに、何人か知り合いがいる。荷を預けるのに信用できる連中だ。中継点を三つ経由すれば、辺境から王都まで一週間で届く」


街道沿いの中継点。信用できる人間。一週間という具体的な日数。旅の商人が各地に知り合いを持つことは珍しくない。だが、辺境から王都までの輸送ルートを即座に組み立てられる商人が、なぜ銅貨三枚の荷物持ちをしていたのか。


「なぜあなたにそんな繋がりがあるの」


訊いた。今度は、引かなかった。


クロードは壁にもたれた。腕を組む。いつもの姿勢。


「昔の知り合いだ」


「昔って、いつのことですか」


沈黙。


クロードの目が一瞬だけ揺れた。あの奥行きのある目の中で、何かを隠す動きではなく、何かを堪える動きだった。


「……色んな時代の、色んな町で、知り合った連中だ。それ以上は——」


「訊かないでくれ、と?」


「今は」


今は。


その一語に、重さがあった。「永遠に訊くな」ではなく、「今は」。いつか話す余地を残した言い方。


この男の「昔」は、私が想像しているよりもずっと長い。三百年前の借用書。古書で読んだ延命の事例。あの寝言の古い言葉遣い。「理由がなければいられないの?」という問いへの沈黙。


すべてが一本の線で繋がりかけている。だが、最後の一点がまだ見えない。


この人の「昔」は、いったいいつから始まっているのか。


その問いの輪郭が、今までで一番はっきりと見えた。


「わかりました。今は訊きません。輸送の手配をお願いします」


「ああ」


クロードは壁から背を離し、倉庫を出ていった。


その背中が、夕日の中で一瞬だけ長い影を落とした。


十日後。


「ルーナ」の初回ロットが王都に届いた。


内容は「記憶を呼び覚ます香油」三十本。小さな木箱に詰め、麻布で包み、ブランド名「ルーナ」の焼き印を押した札だけを添えた。工房主の名前はない。産地は「辺境」とだけ。


オルガのネットワークで紹介された王都の高級香料店「銀鈴堂」に卸した。


反応は、三日で届いた。


行商人がオルガ宛てに持ってきた手紙。銀鈴堂の店主からだった。


「品質に驚いた。即座に追加発注する。可能であれば月に五十本。価格は初回の倍でも構わない」


手紙を読んだオルガが、目を丸くした。


「初回の倍。あんた、王都の高級店がこんな値をつけるのは見たことないよ」


私は手紙を作業台の上に置いた。


王都で売れた。


匿名で。名前も出自も伏せたまま。商品の品質だけで。


「辺境から匿名で届く最高品質の香油」。それが、王都の貴族夫人たちの間で噂になり始めている——オルガの情報網が、そう伝えてきた。


工房「月下草」は辺境の小さな店だ。だが「ルーナ」は、王都の市場に名前を刻み始めた。


二本柱。辺境の生活用品と、王都の匿名ブランド。


私の工房は、もう「生き延びるための手段」ではなくなっていた。攻めている。市場に、商品を、自分の意志で送り込んでいる。


その実感が、調香師としての誇りを満たした。


同時に、別の感情が胸を刺した。


匿名でなければならない。


元伯爵令嬢の肩書きが知られれば、商品の評価は品質ではなく出自で歪む。「婚約破棄された女の商売」として見られる。それが現実だ。


自分の名前で、堂々と商品を出せない。


その現実に対する静かな怒りが、胸の底に沈んでいた。


夜の倉庫。


追加発注分の蒸留を終え、瓶を並べていた。


クロードが倉庫の隅で荷造り用の木箱を組んでいた。明日の出荷分だ。釘を打つ音が規則正しく響いている。


「クロード」


「何だ」


「この輸送ルート。あなたがいなくなったら、維持できないんでしょうね」


何気なく言った。事実の確認として。


クロードの釘を打つ手が、一瞬止まった。


「……まあ、そうだな。俺の顔で通してるルートだからな。俺がいなくなったら、中継点の連中は動かない」


その声に、微かな重さがあった。


事実の確認として言ったつもりだった。だが、クロードの声の響き方が、ただの事実確認への返答ではなかった。


この男にとって「いなくなる」という言葉は、私が思うよりずっと重いのだ。


あの借用書。完済条件を満たせば契約は消滅する。契約が消えたとき、この男に何が起きるのか。古書の記述は「延命の副作用」と書いていた。副作用が消えたとき——


そこから先は、まだ考えたくなかった。


「いなくなる予定があるんですか」


「いや。今のところは」


「なら、いいです」


それ以上は訊かなかった。


クロードは釘を打つ手を再開した。音が規則正しく倉庫に響く。


その音を聞きながら、私は空になった蒸留器を洗っていた。


この男がいなくなったら、輸送ルートは止まる。「ルーナ」の王都展開は維持できなくなる。それは事業上の問題だ。


だが、事業上の問題だけではない何かが、胸の奥でざわついていた。


それが何かは、まだ名前をつけられなかった。


数日後。


オルガが帳場で聞いた噂を持ってきた。


「王都の社交界で、『ルーナ』の香油が話題になってるそうだよ。ある貴族の夫人が『これは今季最高の発見だ』と言ったとか」


「どなたですか」


「名前は聞いてないけど——ああ、一人だけ名前が出てたね。聖女マリエル嬢。侯爵家の新しい婚約者だとかいう」


手が止まった。


マリエル。


聖女マリエル。ルーカスの新しい婚約者。私を切り捨てた男が、次に選んだ女。


その女が、私の作った香油を称賛している。


皮肉だ、と思った。笑えない種類の皮肉だった。


「で、そのマリエル嬢が社交界で褒めたおかげで、『ルーナ』の出所を調べてる連中がいるそうだよ。匿名の辺境産ってだけじゃ、上の連中は気が済まないからね」


出所を調べている。


誰が。


オルガは肩をすくめた。


「さあね。でも、侯爵家の婚約者が褒めた商品の出所を調べる人間と言えば——一人しかいないだろう」


ルーカス。


あの名前が、再び私の商売に影を落とそうとしていた。


倉庫に戻り、蒸留器の前に座った。


手を動かす。考える前に、手を動かす。


私は逃げない。逃げたことは一度もない。王都を出たのも逃げたのではなく、自分で選んだ道だ。


「ルーナ」は私の商品だ。私の手が作り、私の意志で送り出したものだ。


誰が調べようと、品質は変わらない。


その自信だけが、今の私の武器だった。

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