第6話「査察官の目」
「——この町に、届出のない商売はいくつある?」
ハインツは辺境の領主役人の執務室で、帳簿の束を前にそう問いかけた。
役人は椅子の背もたれに体重を預けたまま、面倒そうに答えた。
「さあ。港町ですからね。船が来るたびに新しい商売が生まれて、消えます。全部を把握するのは——」
「把握するのがあなたの仕事です」
ハインツの声は穏やかだったが、語尾に力があった。役人の言い訳を遮る種類の丁寧さだった。
書簡監査局の査察は年に一度の定例だ。辺境の商業実態を確認し、届出の不備を洗い出し、報告書を王都に送る。それがハインツの職務だった。
だが、今回はそれだけではない。
鞄の中に、封書が一通入っている。ヘルダーリン侯爵家の紋章が押された封蝋。中身は短い指示だった。「旧ヴァルトシュタイン家関連の商売があれば報告せよ」。
差出人の名前はない。だが、侯爵家の紋章入りの封書を男爵家三男の査察官に送りつける人間は限られている。
ハインツは鞄の留め金を指で撫でた。
職務として調べるのか。侯爵家嫡男の個人的な依頼として調べるのか。その線引きが、まだ定まっていなかった。
オルガ商会を訪ねたのは、午前中だった。
辺境最大の薬草卸問屋。帳簿の量も取引先の数も、この町では群を抜いている。定例査察では必ず確認する店だ。
「書簡監査局のハインツ査察官です。定例の商業実態調査にご協力いただきたい」
帳場に立ったオルガは、腰に手を当てたまま頷いた。
「ああ、去年も来たね。帳簿はこっちだよ」
慣れた対応だった。オルガは帳場の下から帳簿の束を取り出し、作業台の上に並べた。仕入れ台帳、売上台帳、在庫管理簿。どれも字が大きく、記載に抜けがない。
ハインツは帳簿を一頁ずつ確認した。仕入れ先は山岳部の複数の農家と、南方からの交易商。売上先は町内の薬師、雑貨屋、行商人。取引量に不自然な増減はない。
だが、帳簿の末尾近くに、見慣れない項目があった。
「精油・薬香膏——委託販売」
「これは?」
「うちの店頭で預かって売ってる商品だよ。近くの工房が作ったもので、うちの仕入れ品じゃない。委託販売だから、帳簿には別枠で載せてある」
「工房?」
ハインツは帳場の窓から外を見た。オルガ商会の倉庫の一角に、手書きの看板が掛かっている。
「月下草」。
「あの工房は、営業届を出していますか」
オルガの眉がわずかに動いた。
「……まだだね」
「まだ、ということは、未届けの状態で商売をしている?」
「始めたばかりでね。手続きが追いついていないんだよ」
ハインツは帳簿を閉じた。
未届けの商売。辺境では珍しいことではない。監査が手薄なこの地域では、届出を出さずに営業している店は少なくない。定例査察のたびに指導し、是正させる。それがハインツの仕事だ。
だが、「月下草」の工房主が誰であるかを確認する前に、帳簿の内容を整理しておく必要があった。委託販売の記帳に不備がないことは確認した。オルガ商会側の処理は適正だ。問題があるとすれば、工房側の営業届だけだ。
倉庫の前に立った。
「月下草」の看板。手書きの文字。板はオルガが提供したものだろう。小さい。粗末だ。だが、看板を掛けるという行為自体に意志がある。
倉庫の中に入った。
作業台。蒸留器。乾燥棚に並ぶ薬草の束。精油の小瓶が整然と並んでいる。虫除けの香油、手荒れの薬香膏、防腐用の香り袋。ラベルは手書きだが、内容物と用法が簡潔に記されている。
商品の管理は丁寧だった。蒸留器の手入れも行き届いている。素人の仕事ではない。
作業台の前に、若い女が立っていた。
「書簡監査局のハインツ査察官です。営業実態の調査に参りました」
女は私を見た。一瞬の緊張が目に走ったが、すぐに消えた。背筋を伸ばし、正面から私に向き合った。
「工房主のイレーネです。お越しいただきありがとうございます」
丁寧な敬語。姿勢が正しい。立ち居振る舞いに教育が透けている。
イレーネ。
ヴァルトシュタインの名前は、名乗らなかった。だが、この言葉遣い、この所作。平民の出ではない。
鞄の中の封書が、脳裏をよぎった。「旧ヴァルトシュタイン家関連の商売があれば報告せよ」。
「営業届が未提出と伺いました」
「はい。事実です。開業してまだ日が浅く、届出の手続きを失念しておりました。申し訳ありません」
言い逃れをしなかった。事実をそのまま認め、謝罪した。
「言い訳をする気はありません。届出の手続きを教えていただけますか。正規の方法で営業したいのです」
ハインツは鞄から書式の束を取り出した。
営業届の書式。辺境の領主役人宛ての申請書と、王都への写しの二通が必要だ。記入事項は工房名、所在地、業種、取扱商品、仕入れ先、工房主の氏名。
「こちらが書式です。記入後、領主役人に提出してください。写しは私が王都に持ち帰ります」
「ありがとうございます」
イレーネは書式を受け取り、作業台の上で記入を始めた。迷いのない筆運び。氏名の欄に「イレーネ」とだけ書いた。姓は書かなかった。
辺境では、姓のない届出は珍しくない。無籍者や出自を伏せたい者が多いこの土地では、名だけでも受理される。法的に問題はない。
だが、ハインツの目は氏名欄に留まった。
イレーネ。
確認すべきかどうか。
この女が「旧ヴァルトシュタイン家関連」であるかどうかを、問いただすべきかどうか。
職務としては、訊く理由がない。営業届の審査に家名は不要だ。取扱商品が合法であり、仕入れ先が明確であり、品質に問題がなければ、それで十分だ。
だが、鞄の中の封書が、訊けと言っている。
侯爵家嫡男からの指示。男爵家三男にとって、それは断りにくい重さを持つ。身分差の圧力。直接の命令ではない。「あれば報告せよ」という曖昧な一文。応えなければ不興を買い、応えれば一人の商人の人生に影響する。
ハインツは商品の瓶を一本手に取った。虫除けの香油。蓋を開けて嗅いだ。
清潔な香り。揮発が早く、持続が長い。原料の品質が良く、配合が合理的だ。
「この商品設計は、あなたが?」
「はい。すべて私が調合しています」
「仕入れ先は」
「山岳部の薬草農家から直接仕入れています。オルガ商会経由の分もありますが、主力の原料は独自のルートです」
明確な回答だった。曖昧さがない。仕入れ先が独立しているということは、特定の貴族家の利権に依存していないということだ。
ハインツは瓶を作業台に戻した。
まともな商売だ。
品質が良い。管理が丁寧だ。仕入れに不正がない。商品設計に合理性がある。営業届の未提出は事実だが、それは指導と是正で済む話だ。
「書式の記入が終わりましたら、こちらで確認します。不備がなければ、本日中に受理できます」
「はい。ありがとうございます」
イレーネは深く頭を下げた。
倉庫を出た。
オルガ商会の帳場の前を通りかかったとき、奥から物音がした。重い荷物を動かす音。棚を整理しているのだろう。男の気配がした。
ハインツは足を止めなかった。
今回の査察対象は工房主イレーネと、オルガ商会の帳簿だ。倉庫の奥にいる人間が誰であろうと、査察の範囲外だ。
足を止めなかったのは、職務上の判断だった。
それ以上の理由はない。
夕刻。
港の宿屋に戻り、報告書の下書きを始めた。
定例査察の報告書。辺境の商業実態、届出の状況、是正指導の記録。
「月下草」の項目を書いた。
「辺境の小規模薬香業者。営業届は本日付で提出・受理。取扱商品は虫除け香油、薬香膏、防腐香り袋。品質良好。仕入れ先は山岳部の薬草農家(独自ルート)およびオルガ商会経由。法的問題なし。適法に営業中」
旧ヴァルトシュタイン家との関連は確認できず。
そう書いた。
事実だ。イレーネは姓を名乗らなかった。営業届にも姓の記載はない。ハインツが確認したのは商品と帳簿と仕入れ先であり、工房主の出自ではない。出自を確認する職務上の義務はなかった。
だから、「確認できず」は嘘ではない。
嘘ではないが、正直でもなかった。
あの言葉遣い。あの所作。あの教育の痕跡。ハインツには察しがついていた。だが、察しと確認は違う。確認しなかったのだから、報告書には書けない。書かない。
ペンを置いた。
窓の外は暗くなっていた。港の灯台の光が、規則正しく回っている。
鞄の中の封書を取り出した。侯爵家の紋章入りの封蝋。中身を読み直す気にはならなかった。
良心に従った判断だと思う。あの工房は合法だ。品質も良い。商売として筋が通っている。それを、出自の一点で潰す理由はない。
だが、侯爵家嫡男がこの報告書を読んだとき、どう反応するか。
「関連は確認できず」で、満足するだろうか。
あるいは——もう一度、別の手を打ってくるだろうか。
ハインツは報告書を封筒に入れ、封蝋を押した。
王都への便は明日の朝の定期船だ。報告書が届くまで三日から一週間。届いた後の反応がどうなるかは、ハインツの手の届く範囲ではなかった。
翌朝。
港を発つ前に、もう一度オルガ商会の前を通った。
倉庫の「月下草」の看板が、朝日に照らされていた。昨日と同じ手書きの看板。だが今日からは、正規の営業許可を持つ看板だ。
倉庫の中から声が聞こえた。イレーネが蒸留の準備をしている。手際がいい。昨日見た動きと同じだ。迷いがない。
ハインツは足を止めず、港に向かった。
あの女は、正面から手続きを踏んだ。逃げも隠れもしなかった。未届けの事実を認め、正規の方法で営業したいと申し出た。
それだけで十分だ。
査察官としての判断は下した。あとは報告書が語る。
***
オルガ商会の帳場。
ハインツの姿が港に消えた後、オルガが帳場の椅子に座り直した。
「あんた、堂々としてたねえ」
倉庫から出てきた私に、オルガはそう言った。
「堂々としていたのではなく、正面から対処しただけです」
「同じことだよ」
オルガは帳場の引き出しから、一枚の紙を取り出した。王都の市場情報を書きつけたメモだった。
「ところでね。うちに出入りしてる行商人から聞いた話なんだけど」
オルガは紙をひらひらと振った。
「最近、王都の社交界で『辺境産の香油』が密かに話題になってるらしいよ」
「辺境産の香油?」
「あんたの虫除けや薬香膏を買っていった行商人が、王都で転売してるんだろうね。貴族の夫人たちの間で、ちょっとした評判になってるそうだ」
私は作業台に手をついた。
王都で。
私の商品が。
まだ名前も出していない。ただ辺境の小さな工房で作って、オルガの店頭に並べただけだ。それが行商人の手を経て、王都にまで届いている。
「……知りませんでした」
「知らなくて当然さ。でもね、これは商機だよ」
オルガの目が光った。商人の目だった。
「辺境で売るだけが商売じゃない。王都に届くなら、王都向けの商品を作る手もある。あんたの腕なら、できるだろう」
胸の奥で、何かが動いた。
王都に、届く。
私の手が作ったものが、あの場所にまで届く。婚約破棄されて追い出されたあの場所に、自分の名前ではなく、自分の商品が。
まだ早い。まだ考えるべきことが山ほどある。
だが、その可能性が目の前にあるという事実が、今日の私の足元を、昨日より一段高い場所に押し上げていた。
倉庫の奥で、クロードが棚の薬草を黙って整理していた。ハインツが来ている間、この男は一度も姿を見せなかった。
「あの査察官は誰かに使われている可能性がある」。前日の夜、クロードはそう言った。
その警告は的確だった。ハインツの鞄に入っていた封書の中身を、私は知らない。だが、あの男の目の奥に一瞬だけ揺れた迷いの色は、見えていた。
クロードの判断力を、私は信頼している。
それはもう、能力への評価だけではなかった。
この人の目が見ているものは、私にはまだ見えない。だが、この人が「気をつけろ」と言ったものには、気をつける価値がある。
それが今の私にとっての、信頼だった。




