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婚約破棄された令嬢ですが、三百年前の借金を取り立てに来た男の本当の目的を私は知っています  作者: 月雅


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第5話「古い法」

「三百年前の大陸南部で起きた"契約戦争"の記録は、ほとんど残っていない」


古書店の奥、埃を被った書架の隅で見つけた一冊。革装丁の背表紙は色褪せ、頁の端は虫に食われている。だが中身は読める。


港町の古書店は、交易港ならではの品揃えだった。各地から船に乗って流れ着いた書物が、分類もされずに棚に詰め込まれている。歴史書、航海記、商法の注釈書、そして——契約魔法に関する法制度の記録。


私がこの店に通い始めたのは、工房の仕事が軌道に乗り始めてからだ。


虫除けの香油と薬香膏の売れ行きは安定していた。オルガの助言通り仕入れを三倍にしたのは正解で、在庫が切れることはなくなった。山岳部の農家からの納品も順調だ。工房「月下草」は、この港町で小さいながらも確かな居場所を作りつつあった。


だからこそ、考えなければならないことがあった。


あの借用書のことだ。


三百年前の日付。金貨五十枚。貸主クロード。借主イレーネ。契約魔法で作成された正式な借用契約。


あの日、伯爵邸の玄関先で差し出された紙を、私は「保留」にした。本物かどうか判断できなかったからだ。


だが、あれから一ヶ月以上が経った。クロードの異常な手際の良さ、説明のつかない人脈の広さ、「長いこと歩いてきた」という言葉の奥行き。すべてが、あの借用書の非常識な日付と繋がっている。


あの紙は、本物だ。


根拠はまだない。証明もできない。だが、この一ヶ月間クロードの隣にいて、私の中で直感が確信に変わりつつあった。


だから、知らなければならない。契約魔法とは何か。借用契約とは何か。完済条件を満たすとどうなるのか。


知りたい。


この人の正体を。この借用書の意味を。三百年という時間の重さを。


その欲求は、もう好奇心という言葉では収まらなかった。


古書店の歴史書を開いた。


契約戦争の章。大陸南部の諸侯が契約魔法を兵器として転用しようとした時代の記録。その末尾に、一つの事例が記されていた。


「借用契約による延命の事例:契約当事者の一方の生命維持が契約の副作用として発現し、完済まで死亡しなかった記録が一件存在する。なお、債務の履行が来世に委ねられた場合、完済を受け取る側——すなわち貸主が延命される事例が報告されている」


心臓が跳ねた。


延命。


契約魔法の副作用としての延命。完済を受け取るまで死なない。借主が「来世で返す」と約束したなら、貸主は——その来世を待ち続けることになる。


あの男の顔が浮かんだ。二十代半ばの顔をしているのに、目だけがずっと遠くを見ている。三百年前の日付の借用書を持ち、辺境の山奥の老夫婦を「昔の知り合い」と呼ぶ男。


まさか。


歴史書の記述はそれ以上詳しくなかった。事例は一件のみ。延命の期間も、契約の詳細も書かれていない。


だが、一つだけわかった。


契約魔法には、延命という副作用が存在し得る。そして「来世で返す」という契約であれば、延命されるのは貸主の側だ。


その夜。


倉庫の作業台で蒸留の片づけをしていると、クロードが戻ってきた。オルガの荷下ろしを手伝っていたらしい。袖をまくった腕に汗が光っている。


「クロード」


名前を呼んだ。呼び捨てだった。いつからか、「あなた」ではなく名前で呼ぶようになっている。丁寧語は崩していない。だが距離は確実に縮まっている。


クロードが振り返った。


「この借用書、本物なのね」


私は作業台の上に広げた借用書を指した。あの日以来、倉庫の引き出しに保管していたものだ。


クロードの表情が変わらなかった。驚きもしない。否定もしない。


「ああ。本物だ」


「三百年前の日付も」


「それも本物だ」


静かな声だった。嘘をついている気配はない。


私は椅子に座り、クロードを見上げた。


「契約魔法の借用契約には、契約当事者を延命する副作用がある。古書で読みました。借主が『来世で返す』と約束した場合、完済を受け取る側——貸主が、その来世を待つ形で延命される。そういうことですか」


クロードは黙った。


長い沈黙だった。倉庫の中で、蒸留器の冷却水が滴る音だけが響いている。


「……お前、いつの間にそんなことを調べた」


「工房の仕事の合間に。この町の古書店には、契約魔法の法制度に関する書物がいくつかありました」


「独学か」


「独学です」


クロードの口元が微かに動いた。あの日、伯爵邸の玄関先で「素直だな」と言ったときと同じ種類の表情だった。


「全部は話さない」


クロードは壁にもたれた。腕を組む。いつもの姿勢だ。


「昔、助けてくれた女がいた。俺は金を貸した。女は来世で返すと言って、契約魔法で借用書を作った。それだけの話だ」


「それだけ?」


「それだけだ」


それだけの話で三百年も生きている人間がいるはずがない。だが、この男が語れる範囲には限界がある。それは壁ではなく、重さだ。三百年分の重さを、一度に語れる人間はいない。


「一つだけ訊きます」


「何だ」


「あの借用書がある限り、あなたは私のそばにいる理由がある。そう言いましたね」


「ああ」


「理由がなければ、いられないの?」


クロードが黙った。


今度の沈黙は、さっきとは質が違った。


さっきの沈黙は「どこまで話すか」を計る間だった。今の沈黙は、計ることすらできない種類のものだった。


クロードの目が揺れた。一瞬だけ。あの奥行きのある目の中で、何かがぐらりと動いた。


三百年。


この男は三百年間、「理由」を探して歩いてきたのだ。借用書という理由。取り立てという理由。そばにいる名目。名目がなければ、誰かの隣に立つことを自分に許せなかった。


その孤独が、沈黙の中に滲んでいた。


クロードは答えなかった。


壁から背を離し、倉庫の奥に向かった。道具の片づけを再開する。背中を向けたまま。


私はそれ以上言葉を重ねなかった。


翌日。


私は倉庫の引き出しから借用書を取り出し、作業台の上に広げた。


「保留」を解除する。


「クロード」


朝の作業前に声をかけた。クロードは棚の薬草を整理していた手を止めて、振り返った。


「この借用書を、仮受領します」


「仮受領?」


「借金があることは認めます。金貨五十枚。契約魔法による正式な借用契約。それは事実として受け入れます」


クロードの目が微かに見開かれた。


「ただし、返す方法は私が決めます。契約結婚は認めません。金銭での返済か、それに相当する方法で、私自身が納得する形で返す。それが条件です」


「……お前が決める」


「ええ。私が決めます。私の借金ですから」


正確には、三百年前の「イレーネ」の借金だ。私がその債務を引き継いでいるかどうかの法的判断は、まだ保留だ。だが、クロードがこの一ヶ月間、荷物持ちとして、力仕事の助手として、仕入れの紹介者として、私の工房を支えてきたことは事実だ。


その労働に対して、借金という枠組みの中で報いる方法があるなら、私はそれを選ぶ。


自分の意志で。


「お前の立場はどうなる。俺の」


「荷物持ちは卒業です。今日から共同経営者見習い。工房の業務を一緒にやってもらいます。ただし、給金は出来高に連動。借金の返済もそこから差し引きます」


「共同経営者見習い」


クロードは繰り返した。その声に、微かな——本当に微かな——震えがあったのを、私は聞き逃さなかった。


「了解した」


それだけ言って、クロードは棚の整理に戻った。


背中を向けている。表情は見えない。


けれど、その背中がほんの少しだけ軽くなったように見えたのは、気のせいだろうか。


その夜。


遠縁の家には戻らず、倉庫で残務をしていた。日が長くなり、夕暮れの時間に蒸留をもう一回転できるようになったからだ。


蒸留器の火を落とし、精油の瓶を並べ終えたとき、ふと外を見た。


倉庫の裏手に、工房の屋根に上がる梯子がある。


クロードが、屋根の上に座っていた。


膝を抱え、空を見上げている。夕焼けが消えかけた空に、最初の星がひとつだけ出ていた。


「返す方法は私が決める」


私の言葉を、あの男はどう聞いたのだろう。


わからない。この人の三百年を、私はまだほとんど知らない。借用書が本物であること。延命の副作用があること。「理由がなければいられない」と思っていること。それだけだ。


それだけしか知らない。


でも、知りたいと思っている。


この人が三百年間何をしてきたのかを。この人が黙って空を見上げるとき、何を見ているのかを。


その「知りたい」は、好奇心から一歩踏み出した、もっと切実な何かだった。まだ名前はつけられない。だが、確かにここにある。


屋根の上のクロードは、星を見つめていた。何を考えているのかは、わからない。


ただ、あの沈黙の中に滲んでいたもの——三百年間、誰かの隣にいることを自分に許せなかった孤独——が、今夜は少しだけ薄くなっているといい、と思った。


翌朝、町に見慣れない男が到着した。


港の宿屋に馬を繋ぎ、帳場で名前を書いている。きちんとした旅装。背筋の伸びた歩き方。役人の所作だった。


男の鞄には、ある貴族家の家紋が入った封書が入っていた。


王都の書簡監査局、査察官ハインツ。


辺境の商業実態調査の名目で、この町に来た。

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