第4話「最初の客」
売れなかったらどうしよう。
工房「月下草」の開業から三日が経っていた。安眠用の香油が六本、作業台の上に並んでいる。三日前と同じ数だ。一本も減っていない。
オルガ商会の店頭に並べてもらっている。オルガの客は薬草を買いに来る商人や、町の薬師や、港の船乗り相手の雑貨屋だ。香油を求める客層ではない。
わかっていた。わかっていて、並べた。
窓から差し込む朝の光が、香油の瓶を照らしている。琥珀色の液体が光を受けて揺れる。品質には自信がある。山岳部のラベンダーと南方の白檀系樹脂を合わせた調合。眠りの深い部分に届く配合。
だが、品質と売れるかどうかは別の話だ。
この町の人間にとって、香油は贅沢品だ。港町の暮らしは実用で回っている。魚を捌き、塩を作り、薬草を乾かし、船を直す。その日常の中に「安眠のための香り」は入り込めない。
三日間、誰も手に取らなかった。
それが、答えだ。
倉庫の作業台に座り、六本の瓶を眺めた。
考えろ。
前世の手は調香を覚えている。だが前世の記憶は霧の中だ。どんな店で、どんな客に、どんな商品を売っていたのか。それは思い出せない。
手が覚えているのは「作ること」だけだ。「売ること」は、今の私が学ばなければならない。
この町で何が必要とされているか。
港町。漁師。船乗り。塩。潮風。薬草。虫。
虫。
夏が近づいている。港の倉庫には穀物や乾物が積まれている。虫が湧く季節だ。漁師の家では干し魚に虫がつく。薬草の乾燥棚にも虫は来る。
虫除け。
それから、この町の女たちは塩仕事で手が荒れている。魚を捌くときの匂いが肌に残る。夜、眠れないのは不安ではなく、身体の疲労と、塩で荒れた肌の痛みだ。
安眠香油ではない。
この町に必要なのは——生活の匂いだ。
「売り方を変えろ」
声がした。
倉庫の入口にクロードが立っていた。壁に肩をもたせかけ、腕を組んでいる。
「この町で必要なのは香水じゃなくて、生活の匂いだ」
私が今まさに考えていたことを、この男はそのまま口にした。
「……なぜわかるの」
「色んな町を見てきた」
また同じ答えだ。だが今回は、言葉の曖昧さより、助言の正確さの方が気にかかった。
この男はこの町に着いてから数日のうちに、港の倉庫の穀物事情も、漁師の妻たちの生活習慣も把握しているかのように話す。旅の商人が各地の市場を見てきた——それだけでは、この速さは説明がつかない。
だが今は、その違和感を脇に置く。今の私に必要なのは、この助言を行動に移すことだ。
「虫除けの香油。手荒れ用の薬香膏。防腐用の香り袋。この三つを作ります」
「いいんじゃないか」
クロードは壁から背を離し、倉庫の奥に向かった。棚から薬草の束を下ろし始める。私が必要とするであろう素材を、言われる前に準備している。
この男は、人の考えを先回りする。それも、的確に。
その日のうちに、三種類の試作品を作った。
虫除けの香油は、ローズマリーとタイムの精油を主体に、柑橘系の皮から搾った油を加えた。揮発性が高く、塗った直後から香りが広がる。
手荒れ用の薬香膏は、ラベンダーの精油に蜜蝋と獣脂を混ぜた軟膏。塩仕事の後に塗り込めば、肌の修復を助ける。
防腐用の香り袋は、乾燥させたローズマリーとタイムの葉を布袋に詰めたもの。穀物庫や食料棚に置くだけで虫がつきにくくなる。
どれも、贅沢品ではない。生活の道具だ。
オルガに試作品を見せた。
オルガは虫除けの香油を手首に塗り、薬香膏を指先で伸ばし、香り袋を鼻に近づけた。
「……あんた、最初からこっちを作ればよかったんだよ」
「はい。そう思います」
「安眠香油は王都向きだ。この町じゃ売れない。でもこの三つは売れる。間違いない」
オルガは帳場に試作品を並べ直した。値札をつける。虫除けの香油は銅貨五枚。薬香膏は銅貨三枚。香り袋は銅貨二枚。
「明日から店頭に出す。あんたも店に立ちな」
翌朝。
オルガ商会の店頭に、三種類の新商品が並んだ。
午前中は客が素通りした。昼を過ぎても同じだった。私は店頭の隅に立ち、商品の横で待っていた。声をかける勇気がなかった。
夕方近く。
港の方から、日に焼けた女が歩いてきた。漁師の妻だろう。塩で白くなった手をエプロンで拭きながら、店頭を覗き込む。
目が、虫除けの香油に止まった。
「これ、何だい」
「虫除けの香油です。ローズマリーとタイムの精油を合わせたもので、倉庫や食料棚の近くに——」
「虫除け? 匂いで虫が来なくなるのかい」
「はい。精油の揮発成分が——」
言い直した。難しい言葉は要らない。
「匂いが広がると、虫が寄りつかなくなります。干し魚の棚にも使えます」
女は瓶を手に取った。蓋を開けて嗅ぐ。目を細めた。
「いい匂いだねえ。これで虫が来ないなら、うちの倉庫に欲しいよ」
「銅貨五枚です」
女は腰の巾着から銅貨を数えて出した。五枚。私の手のひらに乗せた。
温かかった。
「ありがとうございます」
頭を下げた。声が震えていた。
最初の一本。
最初の客。
私が作ったものを、誰かが選んでくれた。
その夜、倉庫で売上を数えた。
虫除けの香油が一本。銅貨五枚。
たった一本。たった五枚。
それでも、これは私の手が稼いだ金だ。
翌日、漁師の妻が戻ってきた。「倉庫に置いたら本当に虫が来なくなった」と言って、もう二本買った。隣の家の女にも勧めると言った。
三日目。口コミが広がった。港の漁師の妻たちが次々に来た。虫除けだけでなく、手荒れの薬香膏を手に取る女もいた。「塩仕事の後にこれを塗ったら、翌朝手が楽だった」という声が上がった。
一週間で在庫が尽きた。
六本の安眠香油は一本も売れなかった。だが虫除けの香油は十二本、薬香膏は八個、香り袋は十五袋が売れた。
増産が必要だった。
私はオルガに追加の薬草を発注した。山岳部のラベンダーとローズマリーを倍量。南方の柑橘皮も追加で。初めての仕入れ判断だった。
オルガは発注書を見て、小さく頷いた。
「量の見積もりが甘い。倍じゃ足りない。三倍出しな」
「三倍……」
「売れるものは売れ続ける。足りなくなってからでは遅い。仕入れは先読みだよ」
また一つ、学んだ。
夕暮れの倉庫。
薬草の在庫を確認し、明日の蒸留の段取りを組んでいた。作業台の上には、空になった瓶が並んでいる。一週間前は満杯だったものが、全部空だ。
誰かが、私の作ったものを選んでくれた。
前世でも、こういう感覚があったのだろうか。自分の手で作ったものが、誰かの生活に入っていく。誰かの困りごとを、ほんの少しだけ楽にする。
思い出せない。前世の記憶は手の技術だけしか残っていない。
だから、これは今の私だけの体験だ。
伯爵令嬢だった頃には、何かを「選ばれる」経験はなかった。選ぶ側にいた。与えられ、用意され、整えられた暮らしの中で、自分が誰かに必要とされているかどうかを考えたことがなかった。
銅貨五枚。あの漁師の妻が手のひらに乗せてくれた、温かい銅貨。
あれが、答えだ。
私はここで、この手で、やっていける。
倉庫の奥で、物音がした。
振り返ると、クロードが棚の陰にいた。道具をまとめている——ように見えた。だが、その姿勢が妙だった。棚に手をかけたまま、店頭の方を見ていた。
いや、店頭ではない。私が最初の客に虫除けの香油を手渡した方向を。
その口元が、わずかに緩んでいた。小さく、ほんの少しだけ。笑っていた。
私が振り返る直前に、クロードは視線を外した。何事もなかったように道具をまとめ、棚を整え始める。
見間違いだったのかもしれない。
暗い倉庫の中で、夕日の角度が作った影のせいかもしれない。
でも。
あの一瞬、この男が笑っていたような気がした。
誰にも見せるつもりのない、静かな笑顔を。
夜。遠縁の家に戻る道。
クロードが半歩後ろを歩いていた。
「明日から増産だ。忙しくなるな」
「ええ」
「仕入れの判断、オルガに直されただろう」
「三倍出せ、と言われました」
「あの女将の言うことは聞いておいた方がいい。商売の勘は本物だ」
短い会話。それだけ。
けれど、夜道を歩きながら、ふと思った。
この男は、最初の客が来た瞬間を見ていたのだ。倉庫の影から。私が銅貨を受け取り、頭を下げ、声を震わせたあの瞬間を。
見ていて、何も言わなかった。
あの笑顔は、取り立て人の顔ではなかった。
何の顔だったのか。
この男の行動の一つ一つが、「借金の取り立て」という枠からはみ出し始めている。まだ全体像は見えない。だが、はみ出した部分が増えるたびに、枠の方が嘘に見えてくる。
遠縁の家の門が見えた。今夜も明かりは最低限だ。だが、もうあの家の明かりの量は気にならなかった。
明日、作る。明後日、売る。売れたら、また作る。
その繰り返しの先に、私の場所がある。
夜風が潮の匂いを運んできた。その匂いの奥に、昼間の作業中に倉庫の隅で仮眠を取っていたクロードが漏らした古い言葉遣いの寝言が、ふと蘇った。「……まだ、ここにいる」。あの声の響きが、今になって胸の隅に引っかかっている。
意味はわからない。
わからないが、忘れられない。




