第3話「破棄の代償」
「——ヘルダーリン侯爵子息が、聖女マリエル嬢との婚約を発表したそうよ」
オルガの店の帳場に出入りする商人の女が、乾燥ローズマリーの束を選びながら言った。
私は作業台の上で精油の瓶を磨いていた。手は止めなかった。止めてはいけないと思った。
「早いものねえ。前の婚約者を切ったのが、つい半月前でしょう」
「侯爵家ですもの。体面が第一。空白を作らないのが上の世界のやり方よ」
商人の女はローズマリーの束を二つ選び、銅貨を帳場に置いて出て行った。
手が止まっていた。
止めてはいけないと思ったのに、止まっていた。瓶を握る指に力が入りすぎている。このまま力を込めたら割れる。
指を緩めた。瓶を作業台に置いた。
二週間。
婚約破棄からたった二週間で、新しい婚約者を発表した。通告書は三行だった。理由は一つだけだった。そして二週間後には、もう次の女が隣にいる。
私の代わりは、二週間で見つかるものだったのだ。
「もう関係ない」と、声に出さずに呟いた。唇だけが動いた。
関係ない。あの人が誰と婚約しようと、私の仕事には関係ない。
瓶を持ち直した。磨く。手を動かす。手を動かしていれば、余計なことを考えずに済む。
倉庫の作業台に戻り、蒸留の仕込みを始めた。
ラベンダーの花穂を選別する。茎を除き、開花の度合いで三段階に分ける。この工程は手が覚えている。考えなくても指が動く。
だが、頭の別の場所で、違うことを考えていた。
原材料の仕入れだ。
オルガ商会から薬草を仕入れているが、オルガの仕入れ元をたどると、山岳部の薬草農家の一部は伯爵家——私の実家——が持つ薬草利権の範囲にある。父が直接管理しているわけではないが、利権の名義は伯爵家のままだ。
婚約破棄の前は、それで問題なかった。伯爵家の令嬢が伯爵家の利権の恩恵を受ける。当然のことだった。
今は違う。
勘当同然で家を出た身が、実家の利権に依存している。それは危うい。いつ止められてもおかしくない。ルーカスが——侯爵家が——伯爵家に圧力をかければ、薬草の流れはすぐに止まる。
独立した仕入れルートが要る。
伯爵家を経由しない、自分だけの供給源が。
蒸留器に火を入れた。銅の器が温まり、薬草の湿った香りが立ち上る。
一人で全部やるしかない。仕入れ先を探し、交渉し、契約を結ぶ。私にはオルガ商会以外の繋がりがない。辺境に来てまだ半月。土地の人間関係も商慣習もわからない。
一人で。
全部。
「あんた一人で全部やる気?」
声がした。振り返ると、倉庫の入口にオルガが立っていた。腰に手を当て、私を見ている。
「その顔、何か考え込んでるときの顔だよ。朝からずっとそうだ」
「……仕入れのことを考えていました」
「仕入れがどうした」
「独自のルートを確保したいんです。オルガさんの仕入れ元に頼りきりでは——」
「それで一人で抱え込んでるのかい」
オルガは倉庫に入ってきた。作業台の横に腰を下ろし、腕を組んだ。
「あんたの腕はいい。この半月で認めた。だけどね、商売は腕だけじゃ回らない。仕入れも、物流も、客との繋がりも、全部一人でやるのは無理だ。それは貴族の悪い癖だよ」
「貴族の……」
「何でも自分の責任、自分の力でやらなきゃいけないと思い込む。頼るのは恥だって顔してる。違うかい」
図星だった。
言い返せなかった。
「人に頼るのも技術のうちだよ。誰に何を頼むか、それを見極めるのが商売人の力だ」
オルガは立ち上がり、帳場へ戻っていった。
私は蒸留器の火を見つめた。
頼る。
誰に。
答えは、すでに近くにあった。
夕方。蒸留の作業が終わり、道具を片づけていると、クロードが倉庫に戻ってきた。今日はオルガの指示で薬草の荷下ろしを手伝っていたらしい。袖をまくったままの腕に、乾いた草の屑がついている。
「あなた、商人のつてはあるの?」
自分でも驚くほど自然に、その言葉が出た。
クロードは動きを止めた。私を見た。
「つて?」
「薬草の仕入れ先です。伯爵家の利権に依存しない、独立した農家か卸問屋。辺境の近く、できれば山岳部に」
クロードは荷物を棚に置き、壁に背をもたせた。
「なぜ俺に訊く」
「あなたは旅の商人だと言いました。辺境までの道も宿も知っていた。この町の地理にも詳しい。商人なら仕入れ先の一つや二つ、心当たりがあるのではないかと思いました」
合理的な理由を並べた。事実、そうだ。
だが、本当の理由は別にある。
オルガに言われたからだ。人に頼るのも技術のうちだと。
クロードの目が少し細くなった。何かを計るような、確かめるような表情。
「……ある」
「あるの」
「山岳部の旧い薬草農家を知っている。代々自生のラベンダーとタイムを扱ってる。伯爵家の利権とは無関係だ。高齢の夫婦が二人でやっていて、卸先を探している」
詳しすぎる。
旅の商人が、辺境の山岳部の個人農家の事情をなぜそこまで知っている。
「……随分詳しいのね」
「昔の知り合いだ」
昔。
この男の「昔」は、いつもどこか底が見えない。野営の手際も、大工仕事の腕も、「長いこと歩いてきた」で片づけるには説明がつかない。そして今度は、辺境の農家の家族構成まで知っている。
この人は何者なのか。
その疑問が、初めてはっきりとした形を取った。
けれど、今は追及しない。私が今必要としているのは、クロードの正体ではなく、仕入れルートだ。
「紹介してもらえますか」
「ああ。明日、山に上がろう。半日で着く」
「ありがとう」
言ってから気づいた。この男に「ありがとう」と言ったのは初めてだった。
三日後。
山岳部の農家との交渉は、驚くほどあっさりまとまった。
高齢の夫婦は、クロードの顔を見た瞬間に表情が和らいだ。「ああ、あんたか」と、まるで古い友人に会ったような反応だった。クロードが私を「腕のいい調香師だ」と紹介すると、夫婦は私の手を見て、それからオルガの蒸留器で作った精油のサンプルを嗅いで、頷いた。
「このラベンダー油は筋がいい。うちの花穂を使えば、もっと良くなる」
契約はその場で成立した。支払いは月末締めの出来高払い。最初の納品は一週間後。
帰り道、私は何度も振り返って山を見た。あの農家の畑には、野生に近い状態のラベンダーが斜面いっぱいに咲いていた。香りの密度が違う。あの素材があれば、今の三倍の品質が出せる。
伯爵家の利権に頼らない、自分だけの仕入れルート。
それが、手に入った。
クロードは半歩後ろを歩いていた。何も言わない。いつも通りだ。
ただ、あの農家の夫婦がクロードを「古い友人」のように扱ったことが、頭から離れなかった。辺境の山奥の老夫婦と、旅の商人。どこで、いつ、知り合ったのか。
「昔の知り合い」。その一言の裏に、どれだけの時間が折り畳まれているのか。
まだわからない。だが、知りたいと思い始めている自分がいた。
その翌日、私は工房の看板を作った。
板はオルガが余り物をくれた。文字は私が書いた。塗料がなかったので、精油の搾りかすを煮詰めて作った即席の墨で。
「月下草」
ムーンリーフ。
看板を倉庫の入口に掛けた。紐で吊るしただけの粗末なものだ。文字も歪んでいる。
けれど、これは私の店だ。
私の手で作った商品を、私の名前で売る場所。
看板を掛け終えて振り返ると、クロードが倉庫の奥で薬草の束を棚に上げていた。
ふと、その手が止まった。
背中を向けている。表情は見えない。
けれど、肩が少しだけ揺れた気がした。息を吸い込むように。あるいは、何かを堪えるように。
一瞬のことだった。すぐにまた手が動き出し、薬草の束を淡々と棚に並べていく。
私は気のせいだと思い、最初の商品——安眠用の香油——の瓶を作業台に並べ始めた。
六本。
山岳部のラベンダーと、港から入った南方の白檀系樹脂を合わせた調合。眠りの深い部分に届く配合。前世のどこかで、同じ処方を何度も作った。指が迷わないのが、その証拠だ。
蓋を開けて、香りを確かめた。
これでいい。
これが、私の最初の商品だ。
夕暮れ。
オルガが倉庫に来て、安眠香油の瓶を一本手に取った。蓋を開け、手首に一滴落とし、しばらく黙って嗅いでいた。
「……悪くないね」
オルガの「悪くない」は、かなりの褒め言葉だと、この半月でわかっていた。
「明日から店頭に置いていいかい。うちの商品と並べる形で」
「お願いします」
頭を下げた。
オルガは帳場に戻りかけて、足を止めた。
「あんた、あの男に仕入れ先を紹介してもらったんだろう」
「はい」
「頼れたじゃないか」
それだけ言って、オルガは帳場に消えた。
私は倉庫に一人残った。
看板を見上げた。「月下草」の文字が、夕日に照らされて赤く染まっている。
自分の店。自分の商品。自分で見つけた仕入れ先。そして、自分で頼ると決めた相手。
指が震えた。
嬉しいのか、怖いのか。たぶん両方だ。
この半月で、私は王都にいた頃より多くのことを自分で決めた。もう誰かの婚約者ではない。誰かの娘でもない。ただの調香師だ。名前だけの、小さな工房の。
それが、今の私の全部だった。
倉庫の奥で、クロードが道具をまとめていた。
今日も一日、力仕事を黙ってこなしていた。薬草を運び、棚を整え、壊れた蒸留器の足を直した。頼んでもいないのに。
「……あなたは」
声をかけた。クロードが振り返る。
「なぜそこまでするの。銅貨三枚の荷物持ちに、ここまでの仕事は含まれていないでしょう」
クロードは一瞬、黙った。
それから、いつもの軽い口調で答えた。
「借金の取り立ては、債務者が稼いでくれないと成り立たないからな」
その言葉を、額面通りに受け取ることはもうできなかった。
けれど、それ以上を問い詰める言葉を、私はまだ持っていなかった。
ただ、この人がいることで、私の工房が少しずつ形になっていることは事実だった。
それを認めることが、今の私にできる精一杯の誠実さだった。
倉庫の外は暗くなっていた。潮の匂いと、薬草の匂いと、今日蒸留したラベンダーの残り香が混じっている。
遠く、王都の方角から、風が吹いていた。
その風に乗って、侯爵家の誰かが辺境の薬草利権を調べ始めたという報せが、まだ届いていないだけだった。




