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婚約破棄された令嬢ですが、三百年前の借金を取り立てに来た男の本当の目的を私は知っています  作者: 月雅


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3/10

第3話「破棄の代償」

「——ヘルダーリン侯爵子息が、聖女マリエル嬢との婚約を発表したそうよ」


オルガの店の帳場に出入りする商人の女が、乾燥ローズマリーの束を選びながら言った。


私は作業台の上で精油の瓶を磨いていた。手は止めなかった。止めてはいけないと思った。


「早いものねえ。前の婚約者を切ったのが、つい半月前でしょう」


「侯爵家ですもの。体面が第一。空白を作らないのが上の世界のやり方よ」


商人の女はローズマリーの束を二つ選び、銅貨を帳場に置いて出て行った。


手が止まっていた。


止めてはいけないと思ったのに、止まっていた。瓶を握る指に力が入りすぎている。このまま力を込めたら割れる。


指を緩めた。瓶を作業台に置いた。


二週間。


婚約破棄からたった二週間で、新しい婚約者を発表した。通告書は三行だった。理由は一つだけだった。そして二週間後には、もう次の女が隣にいる。


私の代わりは、二週間で見つかるものだったのだ。


「もう関係ない」と、声に出さずに呟いた。唇だけが動いた。


関係ない。あの人が誰と婚約しようと、私の仕事には関係ない。


瓶を持ち直した。磨く。手を動かす。手を動かしていれば、余計なことを考えずに済む。


倉庫の作業台に戻り、蒸留の仕込みを始めた。


ラベンダーの花穂を選別する。茎を除き、開花の度合いで三段階に分ける。この工程は手が覚えている。考えなくても指が動く。


だが、頭の別の場所で、違うことを考えていた。


原材料の仕入れだ。


オルガ商会から薬草を仕入れているが、オルガの仕入れ元をたどると、山岳部の薬草農家の一部は伯爵家——私の実家——が持つ薬草利権の範囲にある。父が直接管理しているわけではないが、利権の名義は伯爵家のままだ。


婚約破棄の前は、それで問題なかった。伯爵家の令嬢が伯爵家の利権の恩恵を受ける。当然のことだった。


今は違う。


勘当同然で家を出た身が、実家の利権に依存している。それは危うい。いつ止められてもおかしくない。ルーカスが——侯爵家が——伯爵家に圧力をかければ、薬草の流れはすぐに止まる。


独立した仕入れルートが要る。


伯爵家を経由しない、自分だけの供給源が。


蒸留器に火を入れた。銅の器が温まり、薬草の湿った香りが立ち上る。


一人で全部やるしかない。仕入れ先を探し、交渉し、契約を結ぶ。私にはオルガ商会以外の繋がりがない。辺境に来てまだ半月。土地の人間関係も商慣習もわからない。


一人で。


全部。


「あんた一人で全部やる気?」


声がした。振り返ると、倉庫の入口にオルガが立っていた。腰に手を当て、私を見ている。


「その顔、何か考え込んでるときの顔だよ。朝からずっとそうだ」


「……仕入れのことを考えていました」


「仕入れがどうした」


「独自のルートを確保したいんです。オルガさんの仕入れ元に頼りきりでは——」


「それで一人で抱え込んでるのかい」


オルガは倉庫に入ってきた。作業台の横に腰を下ろし、腕を組んだ。


「あんたの腕はいい。この半月で認めた。だけどね、商売は腕だけじゃ回らない。仕入れも、物流も、客との繋がりも、全部一人でやるのは無理だ。それは貴族の悪い癖だよ」


「貴族の……」


「何でも自分の責任、自分の力でやらなきゃいけないと思い込む。頼るのは恥だって顔してる。違うかい」


図星だった。


言い返せなかった。


「人に頼るのも技術のうちだよ。誰に何を頼むか、それを見極めるのが商売人の力だ」


オルガは立ち上がり、帳場へ戻っていった。


私は蒸留器の火を見つめた。


頼る。


誰に。


答えは、すでに近くにあった。


夕方。蒸留の作業が終わり、道具を片づけていると、クロードが倉庫に戻ってきた。今日はオルガの指示で薬草の荷下ろしを手伝っていたらしい。袖をまくったままの腕に、乾いた草の屑がついている。


「あなた、商人のつてはあるの?」


自分でも驚くほど自然に、その言葉が出た。


クロードは動きを止めた。私を見た。


「つて?」


「薬草の仕入れ先です。伯爵家の利権に依存しない、独立した農家か卸問屋。辺境の近く、できれば山岳部に」


クロードは荷物を棚に置き、壁に背をもたせた。


「なぜ俺に訊く」


「あなたは旅の商人だと言いました。辺境までの道も宿も知っていた。この町の地理にも詳しい。商人なら仕入れ先の一つや二つ、心当たりがあるのではないかと思いました」


合理的な理由を並べた。事実、そうだ。


だが、本当の理由は別にある。


オルガに言われたからだ。人に頼るのも技術のうちだと。


クロードの目が少し細くなった。何かを計るような、確かめるような表情。


「……ある」


「あるの」


「山岳部の旧い薬草農家を知っている。代々自生のラベンダーとタイムを扱ってる。伯爵家の利権とは無関係だ。高齢の夫婦が二人でやっていて、卸先を探している」


詳しすぎる。


旅の商人が、辺境の山岳部の個人農家の事情をなぜそこまで知っている。


「……随分詳しいのね」


「昔の知り合いだ」


昔。


この男の「昔」は、いつもどこか底が見えない。野営の手際も、大工仕事の腕も、「長いこと歩いてきた」で片づけるには説明がつかない。そして今度は、辺境の農家の家族構成まで知っている。


この人は何者なのか。


その疑問が、初めてはっきりとした形を取った。


けれど、今は追及しない。私が今必要としているのは、クロードの正体ではなく、仕入れルートだ。


「紹介してもらえますか」


「ああ。明日、山に上がろう。半日で着く」


「ありがとう」


言ってから気づいた。この男に「ありがとう」と言ったのは初めてだった。


三日後。


山岳部の農家との交渉は、驚くほどあっさりまとまった。


高齢の夫婦は、クロードの顔を見た瞬間に表情が和らいだ。「ああ、あんたか」と、まるで古い友人に会ったような反応だった。クロードが私を「腕のいい調香師だ」と紹介すると、夫婦は私の手を見て、それからオルガの蒸留器で作った精油のサンプルを嗅いで、頷いた。


「このラベンダー油は筋がいい。うちの花穂を使えば、もっと良くなる」


契約はその場で成立した。支払いは月末締めの出来高払い。最初の納品は一週間後。


帰り道、私は何度も振り返って山を見た。あの農家の畑には、野生に近い状態のラベンダーが斜面いっぱいに咲いていた。香りの密度が違う。あの素材があれば、今の三倍の品質が出せる。


伯爵家の利権に頼らない、自分だけの仕入れルート。


それが、手に入った。


クロードは半歩後ろを歩いていた。何も言わない。いつも通りだ。


ただ、あの農家の夫婦がクロードを「古い友人」のように扱ったことが、頭から離れなかった。辺境の山奥の老夫婦と、旅の商人。どこで、いつ、知り合ったのか。


「昔の知り合い」。その一言の裏に、どれだけの時間が折り畳まれているのか。


まだわからない。だが、知りたいと思い始めている自分がいた。


その翌日、私は工房の看板を作った。


板はオルガが余り物をくれた。文字は私が書いた。塗料がなかったので、精油の搾りかすを煮詰めて作った即席の墨で。


「月下草」


ムーンリーフ。


看板を倉庫の入口に掛けた。紐で吊るしただけの粗末なものだ。文字も歪んでいる。


けれど、これは私の店だ。


私の手で作った商品を、私の名前で売る場所。


看板を掛け終えて振り返ると、クロードが倉庫の奥で薬草の束を棚に上げていた。


ふと、その手が止まった。


背中を向けている。表情は見えない。


けれど、肩が少しだけ揺れた気がした。息を吸い込むように。あるいは、何かを堪えるように。


一瞬のことだった。すぐにまた手が動き出し、薬草の束を淡々と棚に並べていく。


私は気のせいだと思い、最初の商品——安眠用の香油——の瓶を作業台に並べ始めた。


六本。


山岳部のラベンダーと、港から入った南方の白檀系樹脂を合わせた調合。眠りの深い部分に届く配合。前世のどこかで、同じ処方を何度も作った。指が迷わないのが、その証拠だ。


蓋を開けて、香りを確かめた。


これでいい。


これが、私の最初の商品だ。


夕暮れ。


オルガが倉庫に来て、安眠香油の瓶を一本手に取った。蓋を開け、手首に一滴落とし、しばらく黙って嗅いでいた。


「……悪くないね」


オルガの「悪くない」は、かなりの褒め言葉だと、この半月でわかっていた。


「明日から店頭に置いていいかい。うちの商品と並べる形で」


「お願いします」


頭を下げた。


オルガは帳場に戻りかけて、足を止めた。


「あんた、あの男に仕入れ先を紹介してもらったんだろう」


「はい」


「頼れたじゃないか」


それだけ言って、オルガは帳場に消えた。


私は倉庫に一人残った。


看板を見上げた。「月下草」の文字が、夕日に照らされて赤く染まっている。


自分の店。自分の商品。自分で見つけた仕入れ先。そして、自分で頼ると決めた相手。


指が震えた。


嬉しいのか、怖いのか。たぶん両方だ。


この半月で、私は王都にいた頃より多くのことを自分で決めた。もう誰かの婚約者ではない。誰かの娘でもない。ただの調香師だ。名前だけの、小さな工房の。


それが、今の私の全部だった。


倉庫の奥で、クロードが道具をまとめていた。


今日も一日、力仕事を黙ってこなしていた。薬草を運び、棚を整え、壊れた蒸留器の足を直した。頼んでもいないのに。


「……あなたは」


声をかけた。クロードが振り返る。


「なぜそこまでするの。銅貨三枚の荷物持ちに、ここまでの仕事は含まれていないでしょう」


クロードは一瞬、黙った。


それから、いつもの軽い口調で答えた。


「借金の取り立ては、債務者が稼いでくれないと成り立たないからな」


その言葉を、額面通りに受け取ることはもうできなかった。


けれど、それ以上を問い詰める言葉を、私はまだ持っていなかった。


ただ、この人がいることで、私の工房が少しずつ形になっていることは事実だった。


それを認めることが、今の私にできる精一杯の誠実さだった。


倉庫の外は暗くなっていた。潮の匂いと、薬草の匂いと、今日蒸留したラベンダーの残り香が混じっている。


遠く、王都の方角から、風が吹いていた。


その風に乗って、侯爵家の誰かが辺境の薬草利権を調べ始めたという報せが、まだ届いていないだけだった。

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