第2話「辺境の匂い」
五日間の旅路の果てに、潮の匂いがした。
丘を越えた瞬間、視界が開けた。灰色の海と、石造りの港。岸壁に沿って並ぶ倉庫の屋根は塩で白く曇り、その隙間から立ち上る煙に、薬草を煮出す甘い匂いが混じっている。
潮と薬草。
私の手が反応した。
指先が無意識に動く。この湿度、この温度帯なら、ラベンダー系の精油は劣化が早い。だが樹脂系の香料なら保存が利く。港町ということは交易品も入る。素材の幅は広いはずだ。
頭で考えたのではない。手が、鼻が、勝手にこの町の可能性を嗅ぎ取っている。
五日間の野営で身体は重かった。足の裏に豆ができていて、外套の裾は泥で汚れている。革鞄の中身は干し肉の残りと、母の銀の櫛だけ。
隣を歩くクロードは涼しい顔をしていた。五日間同じ道を歩いたのに、疲労の色がまるでない。靴底の減り具合だけが、この男が確かに歩いたことを証明している。五日間の野営中、食事は自分で用意するという条件の通り、クロードは自前の干し肉と水筒で済ませていた。手際の良さは火起こしと同じだった。
遠縁の家は、港から坂を上った丘の中腹にあった。
子爵家に連なる分家筋。父が手紙で手配した受け入れ先だ。門は小さいが手入れは行き届いており、使用人が一人、玄関先に立っていた。
「ヴァルトシュタイン伯爵家からの……」
「イレーネです。お世話になります」
私は頭を下げた。使用人は目を合わせず、奥へ通した。
応接間で待つこと半刻。現れたのは遠縁の当主の妻だった。四十代の痩せた女性。口元は笑っているが、目は笑っていない。
「部屋は用意してあります。ただ——」
女性は私の背後に目をやった。玄関の外で待っているクロードの姿が、窓越しに見えたのだろう。
「長居はしないでくださいね。うちも立場がありますので」
丁寧な言葉だった。だが意味は明確だ。
侯爵家に婚約を破棄された元伯爵令嬢を匿えば、この家にも類が及ぶ。辺境の小さな家にとって、侯爵家の不興は致命的だ。
「承知しました」
私はもう一度頭を下げた。
部屋に案内された。狭い。窓からは港が見える。寝台と小さな机。壁に染みがある。
これが、私の居場所。
いや。
ここは居場所ではない。猶予期間だ。この家が私を追い出す前に、自分の足で立つ場所を見つけなければならない。
クロードには遠縁の家に泊まる場所はない。港の安宿を勧めたが、「金がもったいない」と言って、倉庫街の軒下で寝ると言い張った。銅貨三枚の日当で宿代は出ない。それもそうだ。野営の五日間を見ていれば、この男が屋根のない場所で眠ることに何の不便も感じていないのは明らかだった。
翌朝、私は港の薬草市場に出た。
クロードは半歩後ろをついてくる。荷物持ちとして雇っているのだから当然だが、市場を歩くこの男の目つきが妙に鋭いことに気づいた。商品の並びを見ている。値札を見ている。売り手の手つきを見ている。
薬草の質は高かった。
山岳部から下ろされてくるラベンダー、ローズマリー、タイム。海沿いの塩性植物。交易船で入ってくる南方の樹脂。素材は豊富だ。
だが、加工が粗い。
乾燥が不十分な薬草がそのまま束で売られている。精油の蒸留をしている店は見当たらない。この町には素材があるのに、技術が追いついていない。
手が疼いた。
私なら、できる。
市場の中ほどに、ひときわ大きな店構えの薬草問屋があった。看板には「オルガ商会」。入口の脇に積まれた薬草の束は、他の店よりも明らかに品質が良い。選別が丁寧だ。
店の奥から声がした。
「あんた、さっきからうちの薬草をじろじろ見てるね」
太い声。腰に手を当てた大柄な女が、帳場から出てきた。日に焼けた顔。四十代半ば。目が鋭いが、口元には笑い皺がある。
「すみません。品質が良いので、つい」
「見る目はあるみたいだね。で、何の用だい。買うのかい、売るのかい」
私は一瞬だけ迷った。
そして、言った。
「薬草の加工を手伝わせてください。精油の蒸留ができます」
オルガ——女将は目を細めた。
「蒸留。あんた、どこで覚えたんだい」
答えられない。前世で、とは言えない。
「……独学です」
「独学ね」
信じていない目だった。当然だ。この町に流れ着いた身元不明の若い女が、精油の蒸留ができると言い出したのだ。
「口だけなら誰でも言える。見せてもらおうか」
オルガは店の奥を顎でしゃくった。
薬草倉庫だった。乾燥棚に並ぶラベンダーの束。隅に錆びた蒸留器が一台。長いこと使われていない。
私は袖をまくった。
蒸留器の状態を確認する。銅製。接合部に緩みがあるが使える。水を張り、火を入れる手順を頭の中で組み立て——いや、違う。頭ではない。手が勝手に動いている。
ラベンダーの束を手に取り、茎の硬さを指で確かめた。乾燥は七割。このまま蒸留すると青臭さが出る。花穂だけを摘み、茎は除く。蒸留温度は低めに。時間は長めに。
手が覚えている。
三十分後、蒸留器の先端から最初の一滴が落ちた。
オルガが指先にそれを取り、鼻に近づけた。
沈黙が長かった。
「……あんた、何者だい」
「イレーネです。それだけです」
「名前は聞いてない。この腕をどこで——」
「独学です」
繰り返した。オルガは私の目をじっと見た。
「元は貴族だろう。その言葉遣い、その手の白さ。隠したって無駄だよ」
心臓が跳ねた。
辺境では、元伯爵令嬢の肩書きは信用にならない。むしろ警戒の対象だ。なぜこんな場所にいるのか。何から逃げてきたのか。面倒ごとを持ち込まれるのではないか。
オルガの目がそう言っていた。
「……事情は訊きません。ただ、私はこの腕で働きたいだけです」
「事情は訊かないよ。あたしが気にするのは腕と筋だけだ」
オルガは蒸留器の雫をもう一度嗅いだ。
「試用期間一ヶ月。成果が出なきゃ終わり。給金は出来高。住み込みは許さないけど、倉庫の一角は使っていい。それでいいかい」
「はい」
即答した。声が震えそうになるのを、唇を噛んで堪えた。
倉庫の一角。
蒸留器と、薬草の乾燥棚と、小さな作業台。それが私の仕事場になった。
クロードは何も言わずに倉庫の修繕を始めた。雨漏りのする天井板を外し、新しい板を打ちつけている。釘の打ち方に迷いがない。大工仕事もできるのか。
「あなた、何でもできるのね」
「まあ、色々やってきたからな」
色々。長いこと。この男の口から出る言葉は、いつも曖昧で、いつもどこか遠い。
ただ、この五日間でひとつだけわかったことがある。この男は役に立つ。感情ではなく、事実としてそう判断した。火を起こす手際、道の選び方、水場の見つけ方。どれも正確で、どれも無駄がない。
信用しているわけではない。素性も目的もわからない。
けれど、能力は認めている。
クロードが天井板を打ち終え、倉庫の隅に道具をまとめた。そのまま力仕事の延長で薬草の束を棚に運び始める。自然に、当たり前のように、私の仕事場に居場所を作っていく。
私はそれを止めなかった。
その日の夕方。
私が蒸留した精油の小瓶を、オルガが帳場で確認していた。
瓶を光にかざし、色を見る。蓋を開けて香りを嗅ぐ。もう一度、嗅ぐ。
長い沈黙。
オルガは瓶を帳場の台に置いた。腕を組み、私の顔を見た。
「……この香り、王都で売れるよ」
その一言が、胸の奥に火を灯した。
王都で売れる。
商売になる。
私の手が作ったものが、誰かに届く。誰かが選ぶ。誰かの生活に入っていく。
伯爵令嬢としてではなく。誰かの婚約者としてではなく。
私の手で。私の技術で。
オルガは帳場の帳簿を開き、何かを書き込み始めた。口元が少しだけ緩んでいる。厳しい女将が、初めて見せた表情だった。
王都とは違う。ここでは、肩書きではなく腕が問われる。名前ではなく結果が信頼になる。
その厳しさが、今はありがたかった。
夜。
遠縁の家に戻る道すがら、クロードが半歩後ろを歩いていた。
「あの女将、なかなか厳しいな」
「ええ。でも正当な厳しさです」
「そうだな」
短い会話。それだけ。
遠縁の家の門が見えた。明かりは最低限しか灯っていない。歓迎されていないことが、光の量でわかる。
けれど、今日の私は昨日より少しだけ背筋が伸びていた。
自分の手で仕事を掴んだ。まだ試用期間の一日目に過ぎない。けれど、あの蒸留器から落ちた一滴は、確かに私の技術が生み出したものだ。
オルガの「王都で売れるよ」が、まだ耳に残っている。
商売。
その言葉が、胸の中で小さな光になって灯っていた。




