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婚約破棄された令嬢ですが、三百年前の借金を取り立てに来た男の本当の目的を私は知っています  作者: 月雅


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第10話「月下の約束」

月が出ていた。


辺境の夜空は、王都とは比べものにならないほど広い。雲のない空に月がひとつ。その光が港町の屋根を白く染め、工房の壁に影を落としている。


私は工房の屋根の上に座っていた。


梯子を使って上がるこの場所は、いつの間にか私の定位置になっていた。クロードが最初に見つけた場所だ。あの夜、借用書を仮受領した日の晩に、この男が一人で星を見上げていた場所。


今夜は、二人で座っている。


隣にクロードがいる。膝を立てて腕を乗せ、月を見ている。左手の薬指に銀の指輪が光っている。


私の左手にも、同じ指輪がある。


利権移転の却下通知が届いたのは、三日前だった。法務機関からの正式な書面。旧法の条文に基づき、辺境居住の血族であるイレーネの同意が得られないため、ヘルダーリン侯爵家による管理権移転の申請を却下する——その一文を読んだとき、手が震えた。


勝った。


自分で見つけた法律で。自分で起草した異議申し立てで。自分で選んだ契約結婚で。


工房は守られた。仕入れルートは維持される。「ルーナ」の王都展開も続けられる。


嵐が過ぎた。


今夜は、その後の静けさの中にいる。


遠くで波の音がする。潮風が屋根の上を吹き抜ける。薬草の残り香と、塩の匂いと、夜の冷たさが混じった空気。


「クロード」


「ん」


「ありがとう」


言った。初めてではない。何度か言った。だが、今夜の「ありがとう」は、これまでとは重さが違った。


「荷物持ちとして雇ったあの日から。倉庫を直してくれたこと。仕入れ先を紹介してくれたこと。輸送ルートを作ってくれたこと。査察のときに警告してくれたこと。契約結婚を受けてくれたこと。全部」


クロードは月を見たまま、黙っていた。


「あなたがいなかったら、この工房はなかった」


「借金の取り立てだ」


いつもの言葉だった。低い声。軽い口調。借用書を盾にした、三百年分の言い訳。


「嘘ね」


私は言った。


クロードの肩が、ほんのわずかに動いた。


「嘘じゃない。借金は本物だ。借用書もある。俺はお前に金を貸した人間だ。それだけの——」


「嘘ね」


もう一度言った。今度は、クロードの方を見て。


月明かりの下で、クロードの横顔が見えた。二十代半ばの顔。けれど、目の奥にあるものは、二十代半ばの人間のものではない。三百年分の時間と、三百年分の孤独と、三百年分の——何かが、あの瞳の奥に沈んでいる。


「全部が取り立てのためだったなら、あの香油を嗅いで顔を背ける必要はなかった。契約結婚を受けるとき、声が裏返る必要もなかった。指輪を撫でる必要もなかった」


クロードが月から視線を外した。初めて、私の顔を見た。


「見てたのか」


「見てました」


沈黙。


風が吹いた。屋根の上の冷たい風。クロードの黒い外套の裾が揺れた。


「……俺は」


クロードが口を開きかけた。そして、閉じた。


もう一度、開いた。


「俺は、借金を取り立てに来た。それは本当だ。だが——」


言葉が途切れた。


この男は、「借金の取り立て」以外の言葉で自分の行動を説明できない。三百年間、「理由」がなければ誰かのそばにいることを自分に許さなかった。借用書がなければ近づけない。取り立てでなければ隣に立てない。


「理由がなければいられないの?」


以前にも訊いた。あのときクロードは黙った。


今夜も、黙った。


だが、沈黙の質が違っていた。あのときの沈黙は壁だった。今夜の沈黙は、壁に入った亀裂の音だった。


「……わからない」


クロードが言った。


「理由がなくても、ここにいていいのか。それが、わからない」


三百年間の問いだった。


三百年間、誰にも訊けなかった問い。


私は答えなかった。答える代わりに、別のことを言った。


「いつか、王都に堂々と自分の名前で店を出す」


クロードが顔を上げた。


「ルーナは匿名のブランドです。今はそれでいい。でも、いつかは自分の名前で。イレーネの名前で。元伯爵令嬢でも、婚約破棄された女でもなく、調香師イレーネとして」


月が明るかった。屋根の上の二人の影が、白い光の中に並んでいる。


「その時も俺は荷物持ちか?」


クロードの声に、かすかな笑みが混じっていた。


「荷物持ちではありません」


私は少し考えた。


「共同経営者でしょう。契約結婚の夫なんだから」


契約。


その言葉が、二人の間で、初めて皮肉ではない響きを持った。


契約魔法で結ばれた婚姻。形式婚。法的手続きのための手段。


そのはずだった。


だが、「契約結婚の夫」と口にしたとき、その言葉は手段の名前ではなく、もっと別の——温かい何かの名前に聞こえた。


クロードは黙っていた。


月を見ていた。左手の指輪が光っていた。


その目の奥に、三百年ぶりの何かが灯っているように見えた。「共同経営者」と呼ばれたことを、噛みしめているように見えた。


波の音が遠くで鳴っている。


私はこの人がいなくなったら嫌だ、と思った。


恋愛感情とは呼べない。まだ、そういう名前はつけられない。


ただ、この人がいない明日は想像したくない。


荷物持ちとして雇ったあの日から、この人はずっと半歩後ろを歩いていた。私の歩幅に合わせて。倉庫を直し、薬草を運び、木箱を組み、看板が掛かる瞬間を背中で見つめ、最初の客が来た瞬間を影から見守り、三百年前の匂いの瓶を胸ポケットに入れ、声を裏返らせながら契約結婚を受けた。


その全部が、「借金の取り立て」のわけがない。


わかっている。


わかっているけれど、この人が自分でそれを認められるまで、待つ。


待てる。


それだけの信頼が、もうここにある。


「クロード」


「何だ」


「お金の話をしていいですか」


「急だな」


「借金の返済計画です。ルーナの売上から月々の返済額を算出して、金貨五十枚を分割で返します。利子なしでしたよね」


「ああ。利子はつけてない」


「では、月々の返済額を提示します。工房の利益が安定しているうちに、計画を立てておきたいので」


クロードの口元が動いた。笑っていた。月明かりの中で、はっきりと笑っていた。


「お前、こういうところは本当に——」


「本当に何ですか」


「いや。何でもない」


笑ったまま、月に視線を戻した。


私は返済計画の話を続けた。月々の売上見込み。経費の内訳。返済に充てられる金額。金貨五十枚を現在の銅貨換算にした場合の返済期間。


実務的な話だ。数字の話だ。


だが、この実務的な会話が、二人の間では別の意味を持っていた。


返済する、ということは、借金がある限りこの関係が続く、ということだ。


返済計画を立てる、ということは、この先も一緒にいることを前提にしている、ということだ。


それを、クロードもわかっているのだろう。


だから、笑ったのだろう。


夜が更けていた。


月が少しだけ傾いた。


屋根の上の空気が冷えてきた。そろそろ下りなければならない。


立ち上がりかけたとき、遠くから音が聞こえた。


車輪の音。


馬車の車輪が、石畳を踏む音。夜の静けさの中で、それは遠くからでもはっきり聞こえた。


王都の方角。街道を辺境に向かって走ってくる馬車。


夜に馬車で辺境に向かう人間は多くない。急ぎの用があるか、人目を避けたいか。どちらにしても、穏やかな理由ではない。


クロードが立ち上がった。


目を細めて、街道の方角を見ている。


「見えるの?」


「馬車が一台。紋章がある」


「紋章?」


クロードは答えなかった。だが、その横顔が、一瞬だけ硬くなった。


私にはまだ見えない。月明かりの下、街道の遠くに馬車の影がかすかに揺れているだけだ。


だが、クロードの目には見えている。三百年分の夜を歩いてきた目には。


「下りよう。明日は早い」


クロードはそう言って、梯子に手をかけた。


紋章の話は、それ以上しなかった。


私は月を一度だけ見上げた。


明るい月だった。工房の看板「月下草」の「月」と同じ光。ルーナの名前の由来になった光。


この月の下で、私は自分の足で立っている。


自分の手で稼ぎ、自分の法律で守り、自分の意志で契約結婚を選んだ。


次は、自分の名前で王都に店を出す。


その隣に、この男がいる。


理由があるから、ではなく——


いや。まだ、その先は言わない。


梯子を下りた。クロードが先に下りて、梯子の下で待っていた。私が最後の段を踏み外さないように、手を添える位置に立っていた。


手は触れなかった。半歩の距離。いつもの距離。


「おやすみなさい」


「ああ。おやすみ」


短い言葉。それだけ。


倉庫の角を曲がったとき、もう一度、車輪の音が聞こえた。


さっきより近い。


馬車は確実に、この町に向かっている。


紋章が何であったか、クロードは言わなかった。


だが、私の中で、一つの名前が浮かんでいた。


風が吹いた。潮の匂いと、月の光と、遠い車輪の音。


嵐が過ぎた夜の、最後の静けさだった。


(完)


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