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婚約破棄された令嬢ですが、三百年前の借金を取り立てに来た男の本当の目的を私は知っています  作者: 月雅


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第1話「借用書」

イレーネは革鞄の留め金を閉じた。


中身は替えの下着が二組、母の形見の銀の櫛、それと昨夜のうちに厨房から持ち出した干し肉と固パン。伯爵令嬢の荷物にしては貧しい。けれど、これが私の全部だ。


寝台の上に脱ぎ置いた夜着を畳む。指先が布を整えるたびに、妙な既視感が走った。


こうやって畳むのは、前にもやったことがある。


いつ、どこで、誰として——それは思い出せない。ただ、手が覚えている。布の端を揃え、角を合わせ、最小の面積にまとめるこの動き。それから、小瓶の蓋を開けて中身を嗅ぎ分けるときの、指の添え方。


調香の仕事をしていた、と思う。


それだけが確かで、あとは霧の中だった。名前も、顔も、暮らしていた場所も、何ひとつ形にならない。なのに手だけが、妙に正確に動く。


前世の技能の残滓を持って生まれる者がごく稀にいる、という話を本で読んだことがある。魂の記憶とも、魔力の痕跡とも言われている。真偽はわからない。だが、この手の動きを説明できるのは、今のところそれだけだった。


窓の外が白み始めていた。


今日のうちに屋敷を出る。父の手配で辺境の遠縁に身を寄せることになっている。「療養」——それが父の選んだ言葉だった。娘に非があったから遠ざける、とは言わない。言わないけれど、屋敷中の使用人がそう理解している。


婚約破棄の通告書は昨日の朝に届いた。


ヘルダーリン侯爵家の紋章入りの封蝋。中身は三行。「聖女の推薦による義務変更に伴い、婚約の解消を通告する」。理由はそれだけ。違約金の条項には触れていない。


父は通告書を読み終えると、私の顔を一度も見ずに書斎へ戻った。


異議は申し立てないのですか、と訊いた。侯爵家に盾突くわけにはいかん、と父は言った。それからこう続けた。


「しばらく辺境で静かにしていなさい。お前のためだ」


私のためではなく、伯爵家の体面のためだ。


わかっている。わかっているから、荷物をまとめた。


革鞄を肩にかけ、部屋を出た。


廊下は静かだった。使用人たちは朝の仕事を始めているはずだが、誰も姿を見せない。見送る者はいないということだ。


階段を降り、玄関の広間に出た。


外套を羽織り、扉に手をかけたとき——外から、叩く音がした。


こんこん、と二回。丁寧だが遠慮のない音。


使用人が出る気配はなかった。私は自分で扉を開けた。


黒い外套の男が立っていた。


背が高い。フードは下ろしており、短い黒髪と、妙に落ち着いた目が見えた。年の頃は二十代半ば。旅装だが、靴の泥は乾いている。昨夜のうちに町に着いていたということだ。


「イレーネ・ヴァルトシュタインか」


敬称がなかった。伯爵令嬢に対して、名前を呼び捨てにする口調。


「……どなたですか」


「取り立てに来た」


男はそう言って、外套の内側から一枚の紙を取り出した。


古い。端が茶色く変色している。折り目は何度も開閉された跡があるのに、紙そのものは破れていない。


借用書、だと思った。


「三百年前の借金だ。利子はつけてないから安心しろ」


男が紙を差し出す。私は受け取らず、その場で目を走らせた。


日付は三百年以上前。金額は金貨五十枚。貸主の欄には「クロード」とだけ。借主の欄には——


イレーネ。


筆跡は私のものではない。だが名前は同じだった。


指先が震えた。紙の端に触れると、微かに温かい。魔力が残っている。この書面は契約魔法で作成されている。


「契約魔法の書面……」


「ああ。双方の意志と魔力の定着で成立した、正式な借用契約だ」


男——クロードは、腕を組んだ。


「で、返済の方法なんだが」


「待ってください」


私は鞄を下ろし、借用書をもう一度見た。


契約魔法の書面なら検証できる。魔力の定着は紙に残る。日付の真偽も、署名者の意志の有無も、専門家が見れば判別可能だ。三百年前の日付は常識外だが、契約魔法の書面である以上、まずは検証すべきだ。


もう一つ、気にかかることがあった。三百年前の借金を今になって取り立てるということは、債務が世代を超えて——あるいは来世を越えて——存続していることになる。契約魔法の中には、債務の履行を来世に委ねる形式が存在すると聞いたことがある。極めて稀で、成立には特殊な条件が必要とされるが、禁じられてはいない。


「これが本物かどうか、今の私には判断できません。ですが、契約魔法の書面であることは認めます」


「素直だな」


「素直なのではなく、合理的に対処しているだけです」


クロードの口元がわずかに動いた。笑ったのか、それとも別の何かだったのか。


「返済の方法を提案していいか」


「どうぞ」


「契約結婚だ。俺と婚姻契約を結べば、お前の生活基盤が安定する。そこから生まれた利益で借金を返す。合理的だろう」


私は一拍置いて、答えた。


「お断りします」


「理由は」


「婚約を破棄されたその翌日に、見ず知らずの男と契約結婚する女がいると思いますか」


クロードは黙った。


私は革鞄を拾い上げ、肩にかけ直した。


「辺境に行きます。あなたがこの借用書の件でついてくるというなら、荷物持ちとして雇います。日当は銅貨三枚。食事は自分で用意してください。それが条件です」


「荷物持ち」


「ええ。日雇いの。嫌なら断ってください。借用書の件は辺境に着いてから改めて検証します」


クロードは私を見た。


長い沈黙だった。この男の目には、奇妙な奥行きがある。二十代半ばの顔をしているのに、目だけがずっと遠くを見ているような——


「いいだろう」


クロードは借用書を外套の内側に戻した。


「銅貨三枚と自前の飯な。了解した」


その声に、かすかな安堵が混じっていたことを、私はまだ知らない。


伯爵邸の門を出た。


振り返らなかった。振り返れば何かが揺らぐ気がした。


門の前の石畳を歩き出す。隣にクロードがいる。半歩後ろ。私の革鞄を片手で持ち、もう片方の手は外套のポケットに突っ込んでいる。


荷物持ちにしては態度が大きい。


けれど、足音は静かだった。私の歩幅に合わせて歩いている。意識して合わせているのではなく、長い旅に慣れた人間の自然な歩き方だった。


「辺境までどのくらいかかりますか」


「馬車を使わないなら五日。街道沿いに宿は三つある」


「詳しいのですね」


「まあ、長いこと歩いてきたからな」


長いこと。


その言葉の奥にあるものに、私はまだ気づかない。


王都の朝の空気は冷たかった。通りにはまだ人影がまばらで、遠くで鐘が一つ鳴った。


私は自分で決めた。


この足で歩くと。この手で稼ぐと。誰かに決められた道ではなく、自分が選んだ方向に進むと。


それがどこに繋がるのかは、まだわからない。


ただ、隣を歩く男の足音が、不思議と耳障りではなかった。


日が落ちる頃、最初の野営地に着いた。


街道を外れた小さな川のそば。クロードは鞄を下ろすと、迷いのない手つきで枯れ枝を集め始めた。


火の起こし方が異常に手際いい。


薪の組み方、風向きの読み方、火口への息の吹きかけ方。どれも無駄がない。旅慣れている、というより、数え切れないほどの夜を野外で過ごしてきた人間の動きだった。


「旅慣れているのね」


言ってから、敬語を崩したことに気づいた。疲れている。


クロードは火を見つめたまま答えた。


「まあ、長いこと歩いてきたからな」


さっきと同じ言葉。


けれど今度は、一瞬だけ遠い目をした。火の光が瞳に映って、そこに何か——とても古い、とても長い時間の影のようなものが揺れた気がした。


「長いこと」の意味を、私はまだ知らない。


火の音だけが、暗い川辺に響いていた。

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