喧騒の底
…………
遠くで、街が生きている音がする。
車のクラクションが苛立たしげに鳴り響き、それを掻き消すように救急車のサイレンが甲高く夜を切り裂いていく。
巨大なビルボードから流れる軽薄なメロディと、酔客たちの野太い笑い声が混じり合い、一つの巨大な生き物の呼吸のように、絶えず空気を震わせていた。
飽和した光と音が渦巻く、眠らない街。
その喧騒が、まるで分厚いガラスを一枚隔てた向こう側の出来事のように、ぼんやりと鼓膜を揺らしていた。
コンクリートの冷たさが、背中からじわりと体温を奪っていく。
アスファルトにこすれた頬がひりひりと痛むはずなのに、その感覚さえも次第に輪郭を失い、ただの記号になっていく。
指先はとうの昔に感覚を失い、それがまだ自分の身体の一部であるのかどうかさえ、定かではなかった。
ああ、これはきっと、沈んでいく感覚なのだ。
深く、暗く、どこまでも冷たい海の底へ。
光の届かない、音もない水圧の世界へ。
かつて確かにあったはずの痛みも、苦しみも、後悔も、全てが等しく海水に溶けて薄まっていく。
手足の自由はとうに奪われ、ただ世界の中心に引かれるまま、ゆっくりと、どこまでも落ちていく。
…………
水面はもう、はるか頭上だ。
繁華街の喧騒は、水面に反射して乱れる光の残滓のように、微かにちらつくだけ。
誰の声も届かない。
誰の助けも及ばない。
それでいいと、心の底から思っていた。
手を伸ばすことをやめ、目を閉じることを受け入れた者にだけ訪れる、穏やかで、完全な孤独。
身体の内側から、何かが静かに消えていく。
それは熱だったかもしれないし、あるいは、魂と呼ばれるものの欠片だったのかもしれない。
記憶の泡が、いくつも浮かび上がっては弾けた。
忘れていたはずの幼い日の風景。
誰かと交わした、どうでもいい会話。
傷つけた誰かの泣き顔。
その全てが、水圧に潰されて意味を失い、ただの気泡となって闇に消える。
(これで、ようやく……)
諦めにも似た安堵が、鉛のように重い身体を満たしていく。
もう何も考えなくていい。
何も感じなくていい。
ただ、このまま沈んでいけば。
その、時だった。
あまりにも場違いなほど、澄んだ何かが、沈みゆく意識の淵に触れた。
それは音ではなかった。
言葉でもなかった。
古い教会の鐘の響きのようでもあり、薄いガラスが擦れる不快な音のようでもあった。
けれど、それは確かに呼びかけていた。
意味を持つ以前の純粋な響きが、底なしの闇から私を引き留めようとするかのように、魂を直接揺さぶる。
「―――」
優しい呼び声だった。
お前はもう十分に苦しんだと、その労をねぎらうような温かさがあった。
「―――」
冷たい命令だった。
お前はまだ死ぬことを許されないと、その存在を断罪するような厳しさがあった。
(誰だ……?)
抗う気力など、残っているはずもなかった。
思考することさえ放棄したはずだった。
それなのに、その声は、深海の底に沈んだはずの私を、無理やりに浮上させようとする。
抗いがたい力で、水面へと引き上げていく。
やめろ、と叫びたかった。
もう放っておいてくれと、懇願したかった。
だが、唇は凍りつき、声を発することは叶わない。
鉛のように重い瞼が、意思とは無関係に、わずかに震えた。
ほんの数ミリ、闇に亀裂が入る。
その隙間から、信じられないほどの光が差し込んできた。
そして、私は目を開けた。
瞬間、視界を純白の暴力が焼き尽くした。
それは、祝福だった。
生まれたばかりの赤子が初めて目にする、世界の始まりを告げる光。
長い旅路の果てにたどり着いた巡礼者を迎える、荘厳な聖地の輝き。
あらゆる罪を浄化し、全ての穢れを洗い流す、絶対的な肯定の光。
光の粒子が肌に降り注ぎ、冷え切った身体の芯まで温めていくような錯覚。
ああ、私は、許されるのだ。
このまま、この光に溶けて、生まれ変われるのだ。
それは、絶望だった。
闇に慣れきった目に突き刺さる、容赦のない無慈悲な刃。
隠してきた全ての傷口を、弱さを、醜さを、何一つ見逃すことなく白日の下に晒し上げる、残酷なまでの暴露。
逃れることは許されない。
目を閉じることさえも。
お前はここで、自分の愚かさの全てを見届けろと、光そのものが命じているようだった。
眩しさのあまり、涙が溢れた。
それが歓喜の涙なのか、それとも悔恨の涙なのか、自分でもわからなかった。
逆光の中に、誰かの影が立っているのが見えた。
男か、女か。
若いのか、老いているのか。
それさえも判然としない、ただの黒い人影。
その影が、ゆっくりとこちらへ手を差し伸べているようにも見えたし、あるいは、私を突き放すように掌を向けているようにも見えた。
影の唇が、かすかに動いた気がした。
何かを告げている。祝福の言葉か、呪いの言葉か。
けれど、その意味を鼓膜が捉える前に、ぷつりと、糸が切れた。
今度こそ、本当に意識が途切れる。
海の底へ沈むような緩やかな落下ではない。
まるで、立っていたはずの足場が突然崩れ落ちたかのような、唐突で、どうしようもないほどの喪失。
祝福と絶望が溶け合う光の奔流の中で、私の意識は、静かに手放されていった。