彼氏を無視する私は酷い女でしょうか
「ねぇ今日も無視すんの」
「早くこっち見てよ」
「お願い…好きだから、お願い」
今日も彼氏の声が聴こえる。
それを只管無視する私は嫌味な女なのだろうか。
覗き込もうとしてくるひょろりとした長身から顔ごと背け、彼の目を視界に入れない。
「許してよ、謝ったでしょ?」
「そうやって謝ったから全部チャラみたいな思考が嫌いなの」なんて悪態は、いつもの痴話喧嘩に反して言ってあげなかった。
________もう話し合った所で、意味ないから
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…あれはまだ、彼に怒鳴られる3日程前だっただろうか。
酷く遠い記憶に感じる。
「ちょっと、あれどうにかなんないの?」
「ん〜?…あぁ、ほっとけば良いんじゃね」
「えぇ…はぁ…」
そんな適当な事言わないでよ、泥棒猫って罵られるのは私なんだから。
恨めしい視線を快遊に向けた所で、所詮ココアブラウンの彼の瞳に私は映らないのだろう。
いっそゴツく凄んでみればこちらを向いてくれるかななんて考えてみたけれど、そんな勇気もさらさらなくて。
「…部活行くね」
「ん、行ってらぁ」
スマホに釘付けな彼を諦めて声を掛けると、ちゃんと返事だけは返ってくる。
間延びした声に淡い溜め息を零して立ち上がれば、微かな呟きが耳に届いた。
「俺は瞳が好きだよ」
「…」
それだけで気分が浮ついてしまう私もちょろいのだろう。
緩んでしまった口元を捉えたのか、快遊の頬の輪郭も丸くなっている。
バッグを肩に掛けて、しゃんと胸を張って、教室の扉にへばり付いて私を睨め付ける"あれ"の横を通ろうとした。
「…泥棒猫」
「ふっ、」
思わず通り過ぎざまに吹き出してしまうと、あの子は山姥みたいに頭を振り乱して見開いた目をこちらに向ける。
若干血走った白目のせいで束感睫毛も台無し。
彼女を眇めた視線で束の間捉え、もう一度鼻で笑って部活へ向かった。
「そもそも泥棒猫なんて古めかしい罵倒で、ダメージなんか喰らうわけ無いでしょ」
「〜〜〜ッ!」
金切り声とも付かない子どもの癇癪じみた奇声をBGMに、薄ら笑いを浮かべてみせた。
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「…今日も来てる」
「あれほぼストーカーだよなぁ。どうしよ」
「いや、快遊が雑にフッたからでしょ?中学から3年も付き合ったらしいじゃん」
私達は付き合ってまだ1ヶ月な上に、教室の端で睨まれながらこそこそ話す事しか出来ないのに。
…でもそんな不平不満を垂れ流したところで、解決になんてならないのは解ってる。
「まぁ…付き合った年数長いだけだし」
「それでも公認カップルとして持て囃されてたんだよ?それをいきなり私に乗り換えて、略奪って言われても仕方が無いって…」
「…」
「…そういえば今日、雨止まないね。午後は晴れるって話だったのに」
快遊が嫌な顔をしたから咄嗟に止めた。
でも私だって、快遊が好きだから告白を受け入れたんだよ。
ずっとあの子ばっかり隣に居て、羨ましいな、私も中学から出逢えてたら変わったかな、なんて考える日々はもう沢山だったの。
でもそんな私の心情など知る由もなく、漸くスマホから離れて私を捉えた視線は鋭かった。
「…お前、俺が簡単に乗り換えたと思ってんの。ただ好きなだけじゃ不満なわけ」
「…ッ!…いや、そんな事ない」
束の間のピリリとした空気すら怖くて即答する。
"好き"という甘やかな筈の2文字が、何故こんなにも硬く聴こえるのだろう。
「…ごめんね。ありがとう、快遊。ちょっと冷静になる」
「ん、」
いつもより無愛想な返事に、2人して机に視線を落とした。
咄嗟に引いてしまったから場が収まったものの、目を合わせたらまた話を切り出してしまいそうで息を胃の腑へ押し込んだ。
…だって、私はもっとデートに行きたいよ。
2人で並んで歩いていると、廊下でコソコソ言われてるの気付いてる?
これなら私もイケるかもとか、快遊が軽く見られてるの嫌だよ。
周りの目なんか気にしなければ良いと思うかもしれないけれど、それだけじゃ幸せはいつか擦り減ってしまう。
_________お似合いだねって、思われる恋人で居たいんだよ
そのためには、彼の過去の遺恨を絶たなければならない。
私達が大手を振って過ごすためには、必ず、かの未練たらたらな元カノを除かなければならぬと決意した。
なんて覚えのある小説に重ねても、笑ってくれる人など此処には居ない。
一番笑ってほしい人には、口に出してさえ言えなかった。
…いや、あの時勇気を出して駄目だったら、雨音が掻き消してくれたのだろうかと今でも思う。
~~~~~~~
「…ねぇ、美木さん。一度話さない?私達だけで」
姿勢を正し、後ろで手を組む彼女の名前はなんと言っただろうか。いつも快遊ばかり見ていたから分からない。
すんと澄ましたような表情さえ気に入らなかった。
普段あれだけ険しい顔で睨め付けてくる癖に、周りの目がある時ばっかり良い子で。
「今?」
「今すぐ来てよ、今日はお昼1人なんでしょ?」
快遊が委員会に行ったの知ってるよ。
だってまだ連絡取ってるもん。
お弁当の匂いに紛れて漂うスキャンダルの芳香に、ざわりと教室が色めき立つ。
私には効果が無い事も知らず小さな鼻がふんと不遜な笑いを奏でたのが気に食わなくて、にこりと笑って声を張ってみせた。
「L!MEブロックされて可哀想だったねぇ」
「っ、」
「DM制限したりブロ解したら、快遊のアカウント内通するって脅した甲斐があったって感じ?あ、でも委員会の日取りは下級生にアイス奢ってあげてたんだっけ。快遊遊びに行った写真とか授業の愚痴しか載せないもんね」
…あぁ、貴女の愚痴は私が聴いてあげてるよ?
にこにこと人好きのする笑みを意識して、両頬を持ち上げるように頬杖をついてみせる。
一瞬で白けた場は、私がどうこうすべき物ではない。
けれど首から額まで真っ赤に染め上げて動かなくなってしまった彼女では話を進められないようで。
ゎ…私の方が、ずっと傍にいたのに
横取りされたのは私の方なのに
絶対何か吹き込んだんでしょ
耳を澄ませなければ言葉とも取れないような不明瞭な声で、ぶつぶつと呟き続ける姿は何処か異常だ。
いっそ黒いナニカを背負っているように禍々しい彼女が気持ち悪くて、咄嗟に目を逸らした。
そうやって物みたいに扱ってるから愛想尽かされたんじゃない?と思いつつ、教室全体に聴こえるよう溜め息を吐きながら立ち上がる。
連れ立って教室を出ようとした途端、蛍光灯に照らされている筈の目の前が陰った。
「…何やってんの?」
「ぁ…かいゆう、」
「この子に呼ばれたの。いい加減疲れたから、ちょっと話しに「バカ!!!」
瞬間、らしくない大声がビリビリと廊下の窓枠を揺らした。
普段の粗雑ながらもゆるゆるとした口調とは似ても似つかない、ハッキリとした罵倒。
「こいつに関わっちゃダメだろ!ほんとバカ」
「ぇっ、」
純粋に響く「バカ」と共に私達の間へ割って入った快遊は背を向けて。
…歯噛みをしてこちらを睨む視線から、すっぽりと私を覆い隠した。
「…瞳に直接話し掛けるなって言ったよね」
「…」
「何で黙ってんの」
ポタポタと、蛇口の先に溜まった水が落ちて波紋を呼ぶように、静かな声が降り注ぐ。
脳天からそれを浴びている彼女の顔は見えないけれど、周囲の緊張感で察した。
「はぁ…結局直接話さないとダメなのかよ…。屋上のドアの前で放課後、それで最後ね」
「…わかった」
面倒くさそうに茶髪を掻く快遊に気圧されたのか、否定の言葉は聴こえない。
ただ明らかに不服だと分かるようなもごつく返事を残してパタパタと足音が遠ざかる。
快遊の背から微かにチラついた黒い艶のある長髪は、焦ったように揺れていて。
「…会いに行くの?」
「うん、ごめんね。今回だけだから」
「私も行くよ」
「ダーメ。あいつ瞳見るとムキになるし、何するか分かんないから」
「でも…心配だよ」
屋上はいつも開放されていない。
他の教室も施錠されているか人目があるかの両極端で、大抵の"内緒話"とやらは屋上に続く扉の前の薄暗い階段で繰り広げられていた。
…そんな場所に2人だけだなんて。
「大丈夫。俺男だよ?一応」
あの子が快遊に危害を加えないとも限らない。
そんな不安を余す所なく、的確に受け止めてくれた彼は茶化すように笑う。
「元々さ、他の子に攻撃しそうな時は俺が止めてて。これじゃただの猛獣使いじゃんって嫌になってたんだよね」
「猛獣使いって…」
「慣れてるからさ、明日からは大丈夫。辟易して後回しにしてたのは俺だし?」
そう振り返る快遊には、先程までの威圧するような影や不安もない。
彼らしい緩やかな、目尻をたらんと下げた笑顔に安堵して。
「…じゃあ、気を付けてね」
「ん、帰ったら電話する」
初めて好奇の目や陰口に晒されなかった私達は、気兼ねなく恋人として小指を絡めた。
_________そうして、快遊は殺された
後から知った。
「え〜該当の女子生徒は、家庭科で使う裁ち鋏を持って廊下を歩いていたそうです。制服は胸元辺りに血液が飛び散ったような跡があったとの事で、他に目撃や少しでも被害に遭った生徒がいれば教員まで相談してくださいね」
事件の翌日、他のクラスメイトと一緒に無機質に並ぶ教室の椅子に腰掛けて話を聞いていた。
出来ることなら耳になんて入れたくなかった。
脅すような声色の噂話も、先生の淡白な報告も。
「アイツらが話す場所聴いてたからさ、覗き見に行ったんだよ!そしたら上からなんか垂れてきて…」
傍に快遊の彼女だった私が居るのにお構いなしな生徒達は騒ぎ立て、嫌でも耳を澄ましてしまう。
階段の下で血を流して倒れていた彼は、待ち合わせ場所に辿り着く前に腹部を刺されたのだろう。
端から画面の割れた点きっぱなしのスマホには、〈彼女 誕プレ〉という検索欄が表示されていたという。
「…最近ずっとスマホいじってたのはそれかぁ」
湿った声と共に突っ伏せば、何故か机の色が濃くなっていて。
誰にも声を掛けられないのを良い事に、不規則な呼吸で肩を揺らした。
~~~~~~~
「おはよ」
「…え?」
灰色の視界だった筈なのだ。
快遊が居なくなってから2週間、あの数日を反芻しない日は無かった。
…スラックスに包まれた細い足が、下駄箱で私を待ち構えているまでは。
「…かい、ゆう…?」
「全く酷いなぁ、見舞いにも来てくんないんだもん」
俺から来ちゃった、とこちらへ迫る上履きの足取りは揺らいでいない。
鳩尾辺りだったという痛みも、まるで感じていないようで。
「…」
「…ぇっ、なんで通り過ぎんの。ちょっと!」
慌てて顔を伏せて、人影の横を通り過ぎた。
私を呼び止める声は、冷たく無機質な壁に反響しない。
…いつも鼻を擽っていた柔軟剤の香りが、全くしなかった。
*******
「ねぇ今日も無視すんの」
「早くこっち見てよ」
「お願い…好きだから、お願い」
私も好きだよ。大好き。
「許してよ、謝ったでしょ?」
そうやって許しを催促するの良くないよって、友達の頃から教えてあげてたのに…。
「…またデート行きたいからさ、お願い。もう他の子と2人で会ったりしないよ」
…私も、もっとデートしたかったよ。
今日も今日とて私の机にしがみ付いてご機嫌取りに勤しむ快遊を、私は無視し続ける。
その様子を訝しむ生徒は誰もいない。
快遊の存在に騒ぐどころか…気付く生徒も、誰もいない。
だから、ごめんね?
高2とはいえ喧騒に包まれる教室の中でも、脳内で呟いた謝罪はわんわんと反響する。
…この快遊は、私の生み出した幻覚なのかもしれない。
だから彼の話も聴こえないフリ。
彼の姿も見えないフリ。
鬱々とした心地のまま、只管に普通の人を演じ続ける。
_________だってそうじゃないと、快遊に会いたくなってしまうから
「おーい瞳?次移動だってよ」
「え、嘘」
「ホント。授業明日と入れ替わってんじゃん」
「あ、そっか!先行ってて!すぐ追い掛ける」
「マジか、ヤバ。俺教科書持ってきたっけな…」
泥濘へ沈む思考をクラスメイトが引き上げてくれて、やっと座面に張り付いたお尻を剥がすことが出来た。
誰もいなくなっていた教室に薄っすらと冷や汗をかいて扉から飛び出すと、頭1つ分程小さな女の子にぶつかりそうになる。
「っうわ、」
「え、瞳大丈夫?」
蹈鞴を踏んだせいで教科書に押し潰された胸元がぐっと息を詰まらせる。
後ろで快遊の焦る声が聴こえ、咄嗟に踵に力を入れて踏ん張った。
「ぁ…すみません、瞳さんですか」
「えっ?」
一瞬こんな小さなクラスメイトいただろうかと逡巡した、視界の端に捉えた丸い頭。
視線を下ろす毎に艶のある黒髪とポニーテール、黒縁眼鏡が現れていく。
「姉が大変ご迷惑をお掛けしました。…妹の、琴葉と申します」
ぺこりと下げられて垂れ下がった黒い尻尾が目の前に振られる。
…その揺れる毛先が、何かを想起させた。
「姉…?」
「…ぁ、もしかして、あいつの」
「えっ?あいつって」
「っ!…やはりですか」
快遊が呟いた瞬間、ぴくりと琴葉さんの華奢な肩が動いた。
でも何かを呟く彼女よりも、後ろの囁きの方が大きく聴こえてしまって。
"あいつ"
彼が名前すら呼ばない人間は1人しか居ない。
嫌な汗が背中に流れる中、震える吐息を吐き出した。
「ねぇ、まさか貴女って、」
「…姉が、お2人に大変ご迷惑をお掛けいたしました」
「…!」
お2人、と言った?今この子は。
誰も触れなかった快遊の存在に対して反応した、頭を下げたままの得体の知れない少女がすっと顔を上げる。
だって快遊は私の妄想な筈で、
でもあの人の妹が会いに来て、
この子には彼が見えていて…
混乱する私のわなわなと震える唇を見て取ったのか、切なそうに眉を寄せる琴葉と名乗ったその子は、私の耳元に合わせ少し背伸びをした。
快遊には聴こえない程の、小さな、小さな、甘く高い囁き声。
_________瞳さん、憑かれてますよ