第3話 起床
女が俺を見下ろしていた。
目に飛び込んできたその女の顔に
俺は驚いて飛び起きた。
一瞬で目が覚めた。
そこに立っていた女は
紛れもなく記憶の中の母だった。
しかし。
そんなはずはない。
両親は俺が20歳のときに死んでいるのだ。
「・・か、かあさん?」
それでも俺は無意識に
目の前の女を母と呼んでいた。
母にそっくりな女は怪訝な表情を浮かべた。
「何をそんなに驚いてるの?
早く顔を洗ってご飯を食べなさい。
お父さんはもう出かけたわよ」
女はそう言うと部屋から出ていった。
どうやら俺はまだ夢をミているようだ。
ベッドから降りると
体に重力を感じてふらついた。
夢にしてはリアルだった。
そして俺はようやく部屋の異変に気付いた。
ここは俺の家ではない。
しかし俺はこの部屋に見覚えがあった。
この部屋は・・。
昔住んでいた稲置市の家の部屋だった。
小学6年生の新学期が始まる前に
引っ越してきて、
それから中学を卒業するまでの
4年間を俺はこの部屋で過ごした。
勉強机、それにベッドや本棚。
何もかもが当時のままだった。
しかし。
思い出に耽っている場合ではなかった。
徐々に頭がはっきりとしていく中で、
俺は今のこの状況が夢ではないことを
理解しつつあった。
俺は混乱したままドアを開けた。
そして恐る恐る廊下に出た。
そこも記憶の中の景色と同じだった。
やはり。
ここは紛れもなく
昔俺が住んでいた稲置市の家だ。
俺は足音を立てないように
そうっと足を踏み出した。
階段の手前にある洗面所の前で、
鏡に映った自分の顔を見て俺は固まった。
毎朝見ている自分の顔が、
今はまったく違っていた。
鏡に映った顔は・・幼かった。
俺の頭は完全に混乱した。
「あっくん、
お母さんも今朝は早く出かけるから
急いでご飯を食べなさい」
その時。
階下から声がした。
俺は階段を駆け下りた。
ダイニングルームには
先ほどの母にそっくりな女がいて、
テーブルには1人分の朝食が用意されていた。
「か、かあさん・・」
俺は震える声で呼びかけた。
「やっと起きたのね」
「・・か、かあさん?」
俺はもう一度呼びかけた。
「どうしたの?
今朝のあっくんは何か変ね。
具合でも悪いのかしら」
たしかに爽快な目覚めとはいかなかったが
決して具合が悪いわけではない。
しかし頭はおかしくなったようだ。
これは現実なのか。
夢ではないことだけは理解している。
しかし、
だからといって
この状況を受け入れることは
俺の理性が許さなかった。
「新しい学校にまだ馴染めてないのかしら?
転入してもう1週間になるのよ。
そろそろお友達も出来たでしょう?」
「あ、ああ・・」
俺はあいまいに返事をした。
信じ難いが
目の前にいる母にそっくりなこの女は
紛れもなく母のようだ。
そして母の言葉からすると
今は1989年(平成元年)ということになる。
そこで俺は先ほどの鏡に映った自分の顔に
合点がいった。
俺はこの春、
稲置市立中之島小学校
6年3組に転入したのだった。
しかし。
なぜ、こんなことになっているのか。
俺の頭はより一層混乱した。
昨夜俺は何をしていただろう。
必死に思い出そうとしたが、
不思議なことに
昨夜のことが何も思い出せなかった。
さらにここ最近の記憶が曖昧だった。
しかし。
自分に関することなら覚えている。
年齢。趣味。貯金額。仕事。
歳は今年で35歳。
当然ながら独身。
特筆すべき趣味はない。
強いて言えば酒を飲むことか。
貯金に関しては両親の遺産が少々。
仕事について。
これを一言で説明するのは難しい。
何でも屋。便利屋。掃除屋。
どれもしっくりとこない。
探偵。
強いて言えばそれが一番近いだろう。
「ぼーっとしてないで早く食べなさい」
母の声で俺は我に返った。
トーストに目玉焼き、サラダ。そして牛乳。
絵に描いたような朝食が目の前に並んでいた。
俺はトーストを一口かじった。
バターの香りが鼻腔を抜けて
香ばしいパンの塩気が口の中に広がった。
それらはこれが夢でないことを
改めて俺にはっきりと告げていた。