歌う囚人
1888 年 1 月 20 日
レッドバターという芸名で知られる事になった男が、
アメリカ、ルイジアナ州ムーリングス・ポートの
農場で生まれた。
1903年に両親のように農場労働者として生きる事から
逃れたいと考えて家を出たレッドバターは
少しの間、路上演奏をしながら流浪生活をして
自分が生きていける世界を探した
12弦ギターで演奏するギタリストであり
後にカントリー・ブルースと呼ばれるジャンルで
多く使われたボーカル・トリックを発明した歌手として
大道芸人のように毎日を過ごした。
ルイジアナ州にある1番大きな街と、2番目に大きな街で
短い時間を過ごしたが、上品で保守的な人々のいる街は
彼にとって居場所の良い場所とは言えず。
どんな移民でも田舎者でも受け入れているため、
保守的かつ排他的で上品な普通の街では暮らせない人間でも
受け入れている同じ州内にある3番目に大きな街
シュリーブポートへ住みついて
そこに住むガラの悪い聴衆の前で
毎晩、演奏するようになった。
そのシュリーブポートは
アメリカ国内の最小の町から非常に大きな都市まで、
あらゆる規模のすべてのコミュニティと比較しても、
アメリカで最も犯罪率が高い都市の1つで
暴力犯罪または財産犯罪の被害者になる確率は 15 分の 1
総犯罪率は全米平均と比べて 243.92%、
暴力犯罪率は全国平均と比べて 238.01%
という悪名高い地域だった。
そのシュリーブポートにある歓楽街である
セント ポールズ ボトムズの店での演奏が
レッドバターの屋根のある場所での初演奏だった
毎晩のように店で繰り広げられる客同士の喧嘩
殴り合いは日常茶飯事、
ヒートアップしてのナイフでの勝負、ガンファイト
暴力が日常にあふれている世界の中で
BGMのように流れる激情の叫びに馴染んでいった。
その頃のパフォーマンスを体験した
店のオーナーは語った。
「その日、おそらく奴については
誰もも期待していなかった
有名ブルースマンの2つのセットの間に挟んで
もし下手で客にうけなくても
客同志で雑談する休憩時間にでも
すればいいくらいのつもりだった
奴は、金が無いとはいえ
情けなく汚らしい服を着た田舎者だった。
ボロボロの古いアコースティック ギター
それには12本の弦と手作りアタッチメントがついていて
首の周りにはブルースハープをつけたカズー
出てきた瞬間、客は大きな失望を感じたように視えた
”ああ、また、どこかから短い間でいなくなる変なのが
迷い込んだのか”
悲しげに場違いなデルタブルースマンを見て
そんな言葉を口に出していた
奴は政治家や冒険家、発明家などの
ニュースに登場する人々についての歌詞を
ゴスペル調でアドリブのように世間話をするかのように
数曲、10分ほど演奏しているのを聴いて
店のマネージャーもしているアナウンサーが
PAの所へと行って、聴衆に語りかけた。
”ご列席の皆様、大きな拍手を差し伸べましょう。
どうも、ありがとう”とね
しかし奴は、演奏を終わらせなかった。
聴衆に歌いかける事をやめず、
マネージャーを無視してセットを続けた
各曲の後にマネージャーがPAの所へと行って
丁寧にステージから降ろそうとした。
けれど、奴は居座って
12弦アコースティックとカズーでセットを続けた。
20分ほどが経過したあたりで、奴の喉ならしは終わり
ブルースと、フォークが混ざったような
カントリーブルースと呼ばれた曲調の曲が
不思議なグルーヴ感を表現しだした
スライド ギターのリフ、力強く唸る声、
ギターと、さまざまな付属品によるパーカッション
それは叫びに近い激しい感情を表現し始めた。
暴力と犯罪が日常に転がる街での
女遊び、酒、刑務所生活、人種差別、
カウボーイ、仕事、船員、牛の放牧、ダンスなど、
さまざまなトピックについての歌詞を
ブルーノートに載せて叫ぶダミ声が
同じ空間で過ごす店にいる人々の心に
不思議な感触を与えながら染み渡り
セットの終わりには聴衆を立ち上がらせ
大声の歓声と拍手が送られた
第一印象で皆が感じた憐れみと同情は
驚くべきパフォーマーに対する敬意に変わった
奴は同じ空間にいる人々の心に何かを感じさせる
不思議な表現力というか何かを持っていたんだと想う
数年して録音したレコードを聴いたけれど
あの時、生演奏で感じた不思議なグルーヴ感の
半分も録音されてなかった。
というか、当時の録音技術じゃ無理だったんだろう
でも、録音されていた枯れた渋い味のあるフォーク曲も
あれは、あれで良いという人がいるんだろうが
でも、心の中で眠っていた何かを呼び起こすような
原始的とも言える迫力ある叫びの
激しい曲の凄さというか迫力は
あの頃、若い奴の声を生で聴いた俺らしか
体感できなかったものなんだろうな」
1915 年から 1939 年にかけて、そんな街の住人として生活する内
レッドバターは何度か刑務所に服役した。
1915 年にピストル不法所持で有罪判決を受け、
懲役刑を宣告され投獄、2年ほど服役して出所。
1918年1月、女性をめぐる争いで知人を殺害したとして
有罪判決を受けた後、テキサス州シュガーランドの
インペリアル・ファーム監獄に投獄された。
2回目の刑期中、レッドバターは刑務所内の乱闘で
別の受刑者に首を刺され、自分のナイフで相手の男を殺した
その事件については正当防衛となり刑期が伸びる事は無かった。
1925年、テキサス州知事パット・モリス・ネフに
自由を求めての歌を書いた後、赦免され、釈放された
書かれた歌詞は、警備員や仲間の囚人を楽しませるなど、
良い行動をとる模範囚だったと信じさせ
ネフの宗教的信念での慈悲へ訴えかける言葉だった
(当時のアメリカ南部の司法制度では
刑務所からの仮釈放を承認するための規定は無く
恩赦は知事による裁定だけであった。)
1930年、レッドバターはケンカで男性を刺した殺人未遂の略式裁判後、
ルイジアナ州立刑務所、通称「アンゴラ」に収監された。
そこで彼は 1930 年代に民俗学者の ジョン・ロマンデウスと
息子のアラン ロマンデウスが刑務所を訪れたときに
”天才的な歌う囚人”として発見された。
親子は米国議会図書館のために伝統音楽保存プロジェクトとして、
アメリカ南部音楽を録音している途中だった。
レッドバターの活気に満ちたテノールと
幅広いレパートリーに深く感銘を受けたロマンデウスは、
1933 年にポータブル録音機器で彼を演奏を録音。
1934 年 7 月に、より良い新機材を持ってきて、
再び、彼の何百もの曲を録音した。
その中には伝統的な刑務所の歌を最初に演奏、録音した
「ミッドナイトスペシャル」も含まれ。
このバージョンは有名になった。
1934 年 8 月 1 日、レッドバターは、最低刑期を務めた後、釈放。
これはロマンデウス親子が、ルイジアナ州知事へ
釈放を求める記録と嘆願書を取り緊急要請した成果であった。
大恐慌さなかに出所したバターは不景気を実感した。
9月、仮釈放を満たすために定期的な仕事が必要だったため、
ジョン・ロマンデウスに有給の運転手として雇ってくれるように頼み
3か月間、67歳の男が南部でフォーク音楽を収集するのを手伝った
1934 年 12 月、ペンシルベニア州のブリンマー カレッジで開催された
現代語学協会の会議でグループ シンギングに参加。
彼は刑務所から抜け出す方法を歌えた囚人として地方新聞に書かれた。
1935 年の元日、2人はニューヨーク市に到着し、
そこで ロマンデウスは出版社とフォークの
新コレクションについて話し合う予定だったが
出版社は「歌う囚人」について書きたがって
その関連会社は彼に関する最初のニュース映画の 1 つを作成。
レッドバターは名声を獲得したが、
その名声は幸せな日常を連れてきてはくれなかった。
1935 年 3 月、レッドバターはジョン・ロマンデウスの
大学での2週間に及ぶ講義ツアーに同行したが、
共同作業中の軋轢はハーバード大学で最高潮に達した。
その月末に、ジョン・ロマンデウスは、
レッドバターとの仕事は不可能と判断して
レッドバター夫婦にバスでルイジアナに戻るのに十分なお金を与え
夫婦に夫が3か月の演奏ツアーで稼いだお金を分割払いで渡した。
その一方的な宣言にレッドバターは
収益の全額と管理契約の解除の両方を求めて
ロマンデウスを訴えて勝訴した。
喧嘩は苦々しく、双方につらい思いがあった。法的な論争のさなか、
レッドバターはロマンデウスに再びチームを組むことを
提案する手紙を書いたが実現しなかった。
1936 年 1 月、レッドバターはロマンデウスなしで
単独でニューヨークに戻り、カムバックを試みた。
イースター シーズン中、ハーレムのアポロ シアターで
1日2回公演をしたが、
48歳になった彼の枯れたカントリーブルースは
ハーレムの聴衆の心に全く響かなかった。
1938 年から 1948 年にかけてワシントン DCの
ナショナル プレス クラブでレッドバターは演奏
この時期の演奏活動は成功を収め、
フォーク音楽愛好家の聴衆から高い評価を得るようになった。
ジョン・ロマンデウスとの大学ツアーへの参加から学んだのは
南部の黒人文化の文脈で自分のレパートリーを歌い、
説明する独自のスタイル。
特に子供向け遊び歌のレパートリーは
ワシントンの聴衆にうけた
(ルイジアナ州で若い頃、彼が黒人コミュニティの
子供たちの誕生日パーティーで定期的に歌っていたレパートリー)
また階級社会を意識した反人種差別的な歌詞を持つ曲なども書いた。
1939 年、レッドバターは全国放送ラジオ番組にレギュラー出演。
ニューヨークのナイトクラブでも演奏し、
ニューヨークで流行したフォーク・ミュージック・シーンの常連となり、
仲間となったフォーク・パフォーマー達と交流を深めた。
1940 年に当時最大のレコード会社の 1 つとレコーディング契約を締結。
カリフォルニアでのこれらのセッションは 6 月 15 日と 17 日に開催、
レコーディングの結果、製作されたアルバムは
当時のレコード会社広報により、こう語られた、
「このアルバムは、レッドバターの音楽の最も優れた
公開プレゼンテーションの 1 つです。
斬新な録音、心に刺さる曲調、刺激的な歌詞で
フォーク ミュージックが表現され
彼はアフリカ系アメリカ人の音楽家の
ランドマークとしても世間に評価されており
このアルバムはカントリー・ブルースという
魅惑的な音楽ジャンルを
世に知らしめるための作品とも言えます」
1941年、レッドバターは共通の友人からモーシュを紹介された。
モーシュはレコーディング スタジオと
小さなレコード レーベルを所有しており、
主に地元のニューヨーク市場向けに
フォーク レコードをリリースしていた。
1941 年から 1944 年の間に、
レッドバターはモーシュのレーベルから
3枚のアルバムをリリースした。
1944 年に彼はカリフォルニア、ローレル キャニオンの
メリーウッド ドライブへ行き、
そこのスタジオ・プレイヤーとの
スタジオ・ライブ・セッションを録音しリリース。
1949年、フランスから最初のヨーロッパツアーを開始
レッドバターは、ヨーロッパで成功を収めた最初の
カントリー・ブルース・ミュージシャンとなった。
しかし、そのツアー中に病気になり入院、
筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断された。
彼の生涯最後の演奏はテキサス大学オースティン校でのもの
前年に亡くなった昔の仲間であり、和解していた
ジョン・ロマンデウスに敬意を表して行われた
レッドバターは、その年の年末に
ニューヨークの病院にて61歳で亡くなった。
多くのパフォーマーと同様に、レッドバターが生前に稼いだ収入は、
アルバムの売り上げではなく、ツアーでの集客によるものだったが
様々なカバー曲やトリビュートなどによるリバイバルなどで
死後40年ほどが経過した1988年にロックの殿堂入り
普通の人が手に入らない名誉をレッドバターの親族は手に入れた。
悲しい末路を辿るブルースマンが多い中
レッドバターは幸せな人生を送れたと言えるのだろう。