明智光秀天海説
突然だがみんなの明智光秀の印象はなんだろう?歴史をあまり詳しくない方はこう言うだろう。本能寺の変で信長を殺した男だー!!と。まぁ世間での印象はそうだが明智光秀は実はある人物と作戦をたてて本能寺の変を起こしたという。それは誰なのだろうか。これは明智光秀が本能寺の変を起こした直後からの話である。
それは1582年六月豊臣秀吉は破竹の勢いで明智光秀を倒しにくる。山崎の合戦だ。これは織田信長の敵討ちにやったと言われているが、自らが天下人になるためにやったんじゃないかと言われている。山崎の合戦はみんなが知っているとおり明智光秀は負ける。細川藤孝、筒井順慶ら光秀の有力な武将たちはそろって味方しなかった。さぁここからが本題だ。もし僕がただ単に光秀の物語を書きたいんだと思っていたらこの物語はもう終わっている。
明智光秀は山崎の合戦で敗北後京都宇治の専修院と神明神社に匿われていた説がある。ここから光秀天海説は始まる。
和泉伝承誌には山崎の合戦後京の妙覚寺に姿を現して光秀は和泉に向かったと書かれている。和泉とは大阪府ノ南部である。その後明智光秀は本徳寺に行ったとされる。本徳寺には明智光秀が潜伏されていたんじゃないかとされている。光秀が亡くなっているはずなのに1582年山崎の合戦後比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っているのだ。岐阜県山県市には明智光秀が落ち延び荒深小五郎と名乗ったとされ関ヶ原の戦いごろまで生き延びたとされる。
これらが天海説の主な根拠だ。ここからは関ヶ原の直前からやっていく仮に荒深小五郎から始まったとしよう。みんながあれ?って思ったのがおそらく前の文をもう一度振り返ってみてみよう。大事なのは関ヶ原の合戦まで生き延びたとされるということだ。関ヶ原の合戦の時で死んじゃってるなら天海説じゃないじゃん、って思うだろう。いや違う、天海説はこれからだ!!荒深小五郎が亡くなったのは関ヶ原の合戦の前、天海が出てきたとされるのは、関ヶ原の合戦からだとされる。明智光秀は荒深小五郎と名乗る。そのあと家康がそろそろ参謀として出てきてほしい、と頼むと光秀はこれを承諾。荒深小五郎は亡くなってしまったこととなる。だが実はあえて亡くなった事にして天海となる。関ヶ原の合戦から参戦。これで辻褄が合う。問題はどうして徳川家康が光秀に頼めたかとなる。それは過去に戻る必要がある。
本能寺の変直前明智光秀は徳川家康と会っていた。その内容は!「家康殿この頃の信長様はいかがお思いですか?」「近頃の信長様は少しやりすぎかと思いまする。」「わたくしは本能寺にて信長様を討つ覚悟でございます。」「光秀殿それは…」「このままでは世が平らかになりますまい。このような世を私は変えたいのでございます。」「家康殿ならこの世を変えることができる。わたくしはそう思うだから後は頼みますぞ。」「光秀殿わたくしはまだまだ光秀殿の力を借りたい。だからわたくしが本当に光秀殿が必要だと思った時、名前を変えて出てきてください。秀吉殿などが攻めてきた場合はわたくしの忍者隊を使いなんとか生き延びてください。」「そのように思っていただき幸いです。家康殿が本当に困った時はわたくしをどうぞお使いください。」「またいつか会いましょう!」
このような感じで密談をしていたと私は考える。このような感じだと天海説ということになる。他にも有名な天海説の理由があり、それは徳川二代将軍は秀忠、三代将軍家光、家光の光と秀忠の秀を合わせると光秀になるとか。僕は秀は秀吉の秀だと思ったが。他にも四代目将軍が家綱五代将軍が綱吉四代目将軍と五代目将軍の名前で共通してるのがこの綱の字。綱の字は明智光秀の父の名前が光綱だと言われている。これは少し信憑性がある。他の説でもっとも信憑性があると思ったのが日光東照宮の明智平だこの明智平、実は天海が名前をつけたんじゃないかと言われている。そしたら明智光秀本人、もしくは明智家にゆかりのある人物なんじゃないかと思う。ここで天海の正体がだいぶ絞れてくる。しかも日光東照宮には徳川家康を祀る場所なのに桔梗紋が沢山ある。桔梗紋は明智家の家紋だ。これも天海なんじゃないかと思う。やはり天海は明智家にゆかりのある人物なのであろうか。その後天海は大坂冬の陣、夏の陣も参戦し活躍。その後も家康•秀忠•家光の側近として仕え、107歳で死亡した、すごく長く生きた人物だ。僕は天海説を信じる。みんなも一つの説として受け入れるだけでいいからこの文章をみて覚えてほしい。いつかまた時間がたって天海説のなにかをみた時にこういう話があったなぁと思ってくれたらすごく嬉しい。
これはみんなに歴史の中にもいろんな説があるよってことを知ってほしかったから書いたのだ!