第九話
千疋狼とは日本全国の比較的広範囲に伝わる妖怪の名前だ。名の通り夥しい数の狼が現れるという怪奇で個体を示す名称ではない。この妖怪の別称に『鍛冶が嬶』というものがあるが、こちらの場合になって初めて一個体を表すようになる。
もっとも有名なのは高知県に伝わる伝承であろう。
とある身重の女が里帰りの為、夜中に山道を歩いていた。すると運悪く狼に襲われそうになる。それでも不幸中の幸いとばかりに通りかかった一人の飛脚に助けられ、高い木の上に逃げて狼をやり過ごそうとする。そうしたところ、狼は仲間を呼び木の下には千疋を数える様な狼の群れが集まる。狼たちは幾重にも重なり合い、梯子のようになって枝の上にいた二人に襲い掛かるが、飛脚の守り刀で次々に切り伏せられる。痺れを切らした狼たちは口々に、「佐喜浜の鍛冶が嬶を呼べ」と囁くとしばらくして一回りも二回りも大きい狼が現れた。白毛に覆われたその大狼は器用に頭に鉄鍋を被り、狼梯子を登ってくる。刀が鍋に弾かれ苦戦を強いられる飛脚だったが、偶然にも鍋を払いのけ鍛冶が嬶の額を切り裂くことが叶ったのだ。すると途端に人間のような叫び声が森にこだまして、狼たちは皆一様にどこかに消え失せてしまった。
明くる朝、飛脚は女を通りすがりの旅人に任せると、鍋を持ち、狼たちの言っていた佐喜浜を目指して走り始めた。そこには鍛冶が嬶のものと思われる血痕が転々としており、それはとある鍛冶屋にまで続いていた。飛脚がそこを尋ねると鍛冶屋の婆様が頭に傷を負い、あまつさえ大事な鍋が無くなって朝からてんやわんやしているという話を聞いた。
飛脚は鍋を家の者に見せ、昨晩の事を言って聞かせる。そして寝込んでいる婆様に詰め寄ると狼の正体を現したので、一刀のもとに切り伏せた。婆様の寝ていた床下を覗いてみると、夥しい数の人骨が転がっており、その中には本物の婆様の骨もあったという。
例によって俺は、この千疋狼の話をヱデンキア人に差し障りのないように改変してから伝える。
「――っていうウィアードなんだ。だから人狼や他の狼に関わっている誰かが、別の目的で狼の行列を作っている、とかだったら一安心なんだけど」
「・・・少なくとも、ウチの知っている限りじゃ、そんな事をする狼や人狼はいないわね」
「そっか。じゃあやっぱり調査の必要があるな」
アルルの話を聞く限りでは、知り合いの人狼や『アネルマ連』が関わっている可能性は限りなく低い。これなら仮に全員で実地調査を行ったとしても、ギルド同士の抗争になることはないだろう…多分。
夢中になって千疋狼の事を語った喉の渇きを紅茶で満たすと、改めて紅茶の美味しさを実感できた。
「さっきから思ってたけど、すごい良い香り」
「でしょ? 『アネルマ連』の新商品だから」
「へえ・・・ならウィアードについては確認取れたし、『アネルマ連』について教えてくれよ」
「うん! どんなこと聞きたい?」
ギルドの話になった途端、アルルは今日一番の笑顔になった。ラトネッカリの時もそうだが、やはりギルド員というのは他人が自分のギルドに興味を持ってくれるのがとても喜ばしいらしい。さっき俺が千疋狼の話をしている時はこんな顔だったんだろう。
「俺の勉強してきたこととズレがないかなんだけど」
「何でも聞いて」
「・・・うん」
「そもそもヲルカくんって『アネルマ連』にどんなイメージ持ってる?」
ラトネッカリも聞いてきたが、やっぱり俺の持っている知識とか偏見とかが気になるのだろうか。一瞬、取り繕った方がいいかとも思ったが、それは返って失礼かと思って普段から思っている事をそのまんま口にした。
「身勝手な耕地開拓、やり過ぎの自然崇拝、理想だらけの共産主義的価値観、そしてそれの無理矢理な押し付け」
「もういいよ、ヲルカ君。ちょっと厳し過ぎない?」
若干涙目になったアルルに止められてしまった。
「そ、そう? ヱデンキア人の平均的な意見だと思ってたんだけど」
「ちょっとどころじゃない誤解と偏見があるようね…よし!」
アルルは何かを決意したかのような意気込みを持って立ち上がると、座っている俺の目の前にやってきた。そして人差し指を立てると、
「お姉さんがキチンと『アネルマ連』の事を教えてあ・げ・る」
と、いかにも可愛らしいポーズと共に言った。
けれども、かなり無理しているのが丸わかりだった。見る見るうちにメッキがはがれ、顔は赤くなり、こっちも恥ずかしくなってきた。
「ごめん。忘れて」
そう言ってアルルは一度洗面所の方へ消えて行った。去り際に白い髪が揺れ、赤くなった耳とのコントラスができていて、そんなとろこにときめいてしまった。
◇
五分ほどして戻ってきたアルルは、何事もなかったかのような顔をしている。触れてくれるなと物言わずして語っていたので、俺もさっきのことはなかったことにした。
そしてコホンっと一つ咳払いをしてから講釈を始めた。
「まず知っての通り、ヱデンキアでの食料供給のほとんどを担っている。それどころか鉄工業を除いての産業は全部ウチら『アネルマ連』の管轄だからね。今着ているその服も、普段食べているモノも、なんならこの中立の家だって元を辿れば『アネルマ連』の職工たちが建築したって記録に残ってるくらいなんだから」
「へえ」
それは知らなかった。
「それにヱデンキアの人口ってちょっとずつ増えてきているのは知っているでしょ? おまけにみんな贅沢になって平気でご飯を残したり、ちょっと破れた、壊れたくらいで新しい物を欲しがってさ…耕地の開拓は求められている需要に応える為には必要なのは分かるでしょ?」
「まあ、畑や牧場がなかったら物が作れないし」
「そう。だから傍から見れば『アネルマ連』が強引に領地を浸食して土臭い畑や牧場を作ってるって勘違いされて…それの歯止めになればって今ある物を大切に使いましょう、ご飯を残すのを極力止めましょう、農作物や食卓に上がるお肉やお魚とそれを用意してくれた人たちに感謝しましょう、みたいなキャンペーン始めたら今度は過激な自然主義だって罵られるし。おかしいと思わない?」
「衣食住あってこその文化文明だからね」
俺が一つ共感した事を言うと、ぎらりと目が光ったのが分かった。正しく狼の面目躍如と言った具合の鋭さだ。
「! 嬉しい…そこを分かってくれるなんて。『アネルマ連』は今、ヲルカ君が言ってくれたようにヱデンキアの衣食住を支えているギルド。そりゃ、ちょっとは過激な人達もいるのは認めるけど。でもウチらの根底にあるのは、安全な暮らしをみんなで作って、みんなで分かち合おうっているところなの。ヱデンキアが全て文明に覆われた今だって、生き物はご飯を食べなきゃ死んじゃうんだから」
言葉に力が入り、徐々にこっちに近づいてきたアルルは眼前でようやく止まった。
「ごめん。張り切り過ぎちゃった」
「いや、やっぱりギルド員から直接話が聞けてよかったよ」
「うん。衣食住の大切さを理解している人が新しいギルドマスターで良かった。『アネルマ連』はいつでも歓迎だからね」
「・・・少なくともこの紅茶は気に入ったよ」
「それは良かった…あ!」
「え? 何?」
アルルは俺が飲んでいるカップを指差して、そして変なはにかみを見せながら囁くように言う。
「それ、ウチのカップじゃない?」
「アレ?」
「・・・しちゃったね、間接キス」
そう改めて言われると、俺も気恥ずかしい。そもそもこの人俺より年上なのに、なんでこんなに可愛らしいの?
箱入り娘というか、男に慣れていない感じの人って初めてだから…いや、俺も女に慣れてはいないんだけどさ。ヤーリンみたいな活発な女の子も魅力を感じるし、他のみんなのような大人びた雰囲気とはまた違うギャップがヤバい。多分、これが天然という奴だろう。
「それじゃ…また今度」
これ以上部屋にいたら引っ込みがつかない様な気がして、部屋を後にした。アルルも昼食の支度があるというので丁度いい。
部屋に戻るついでに、何気なく食堂の前を通る。すると何やら賑やかな気配が伝わってきた。
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