86 寒気と貴き姫に
この世界は、戦いのあるファンタジーな世界での生活を描いたSSOというゲームが元になっているとノアは考えている。
基本的な技術レベルはよくある中世くらいのものではあるが、術理や『錬金術』という魔法と何が違うのか、と思うような技術が存在するのもあって場合によって現代よりも優れた面がある。
もっとも、そこについては今更の事なので特に感じ入る面は無いのだが、社会構造については義務教育で学んできた多くの事例と大幅に異なっている。
まぁ、人間同士で争う以前に怪物、魔獣、魔物などの細かな分類が良くわからない上に対話による和解が不可能な敵性存在の方が勢力的に強いとなれば致し方ないのかもしれない。
それが何だと言われれば、言葉の意味合いが微妙に異なる存在が出てくるという問題が発生するのである。
例えば『貴族』―――この世界における政治家についてが現実世界とは様々な意味で違いがあった。
というより、一般的に言われる領地を持つ貴族、というより、現代社会の政治家の方が立場としては近い。
彼らはのほとんどは領地を持たず、戦闘以外の様々な面において知恵を絞って人類の生活圏を維持するために日々を過ごしている。
「本当にありがとうございます、ノア様」
目の前で丁寧にカーテシーなる西洋的な礼を取る貴婦人にノアは苦笑と共に軽く頭を下げて礼を返す。
メリエラ・エルジェニドという二十代前半ほどの女性はエルジェニド侯爵家の次女であり、次期当主でもある。
貴族は完全な世襲制ではないのだが、大半の場合は血縁が役割を引き継ぐ。
これは単純に次世代を育成する環境を最も整えているのが前任の貴族だからであり、後継者は物心ついた頃から英才教育を受けられるからだ。
当然だが勉学に励むには結構な余裕と資金が必要である。
単純に教科書となる書物が高価なのもあるし、紙や筆などの勉強道具もまたこの世界では高価だ。
それらを潤沢に用意できて、専門の家庭教師も付けられる貴族の子供たちは一般市民とは比較にならない基礎教養を身に着けている。
しかも前任の担当者から専門分野の手解きも直接に受けることが出来るのだから、後継者になり易いのは当然の話。
そうは言っても全員が全員、貴族の席に座れるわけではないので子供の中で最も適性のある人物がその席に着く事になる。
よくある男尊女卑のような思想は無く、継承に男女の差はないが、二人の兄と長姉を差し置いて『エルジェニド侯爵』の座に着こうというのが、このメリエラ嬢である。
しかし、これは彼女の才が飛び抜けているというわけではなく、長兄が商人に、次男が騎士団に、長姉が王都の貴族へ嫁入りが決まり、と別の道に進むことを決めたからだ。
幸いなことに、メリエラ嬢は政治的―――というよりは、資金管理と運用の才覚があるため大きな問題にはならないようだが。
("あの一件"が無ければ、わりと順風満帆な歩みだったのだろうけど)
エルジェニド侯爵家は先日、『勇者御一行』の屋敷への侵入を許し機密書類を持ち出されるという大失態を演じてしまった。
さすがに書類の内容をノアは把握していないが、それが現状を生み出す一因になっており、今も侯爵は肩身が狭いらしい。
メリエラ嬢にしても、本来の公職からは外され面倒な雑事へと駆り出されているわけだ。
「いえ、こちらは必要だと思った事に手を貸しているに過ぎません。一時の気まぐれでしかありませんよ」
「それでも、貴女様の優しさには感謝を。これほどの援助は中々にありませんから」
それはそうかもしれない。
ヒサナと打ち合わせをしてからすでに十日、つまりは騎士団の出陣から十三日の時間が経っている。
この間、事態は特に好転することも無く続いており、それに伴っていくつかの問題が街のあちこちで持ち上がっていた。
そのひとつが、メリエラ嬢が管理を任されることになったという国営の孤児院についてだ。
この世界では命のやり取りがすぐ傍に転がっており、様々な理由で両親を失うことも多々ある。
そして、子供―――将来の労働力を無為に失うことは、人類勢力が劣勢とも言える状況の現在では中々に難しい。
これが人間同士の戦争が主体であるなら、敵国を占拠し奴隷として使役すれば良い場合も多いのでその辺りが違う。
残念なことに怪物たちを手懐ける手段は限定的で、戦力どころか労働力にすることも困難という有様だ。
機械化の進んでいないこの世界では何をするにも人手が必要になる。
最たるものは農業や林業などの一次産業やら開墾だが、物資の運搬や様々な物の研究などと幅広い分野で人手は多い方が発展の助けになる。
そんなわけで孤児院は重要な施設ではあるが、金食い虫であり利益を捻出するのが難しいというのは厳然たる事実だ。
必要性を合理的に説くことは可能でも、だからといって万年赤字の設備を抱えたいという人物は多くない。
今回の一件でメリエラ嬢―――というより、エルジェニド侯爵家に押し付けられたのは妥当な罰則なのだろう。
「・・・終わった」
「ありがとう、フィル」
不意にふわりと背中に張り付く妖精にノアは苦笑を浮かべた。
一応は目上の貴族の前であるが、配下でもある三姉妹は完全にいつも通りである。
けれど、フィル以外の二人と、ついでにアコルとカザジマは孤児院の中だ。
「凄まじいですね。フィル様の操る術理は・・・」
「やっていることはただの雑用ですけどね」
「ん」
どこか得意げな声音が耳元を擽り、ノアの笑みが深まった。
フィルがやったのは『除雪』である。特に深い意味も別の意図がある訳でもない。
十メートル近く積もった豪雪を熱風と流水操作でごっそり除去できる術者は多くないので、フィルが胸を張るのは当然だろう。
もっとも、ノア達は四人とも十全に可能だが。
この十日で戦況には結構な変化があった。
結果から言えば劣勢に陥り、前線を大きく後退させられたのだ。
出陣初期では徒歩だと街から七日程度かかる位置が防衛線だったのだが、現在はおよそ二日の距離まで下がっている。
その影響からか街内の気温はさらに下がり、ノアたちがレーロイドに到着した頃には肌寒い程度で済んでいたのが、今はガッチガチに防寒した上で暖房が必須になるという状況。降雪量もかなりのモノだ。
(ほんと、もうちょっと色々と考えて欲しいものだよ。まったく・・・)
それほどまでに戦況が悪化した原因は冒険者のほとんどが撤収したせいである。
ヒサナと話をした日からさらに三日くらい経った時だったか、騎士たちの頭を抑えるようなやり方に冒険者たちの怒りが爆発した結果だ。
詳細については聞くまでもない事だったので無視したが、こんな状況ですら寄り添う姿勢を見せられないのなら致し方ないことだろう。
ノアにはほぼ毎日、協力要請が来たのだが出て行ったところで事態を好転させることはできないので丁重にお断りした。
騎士団の面目を完膚なきまでに叩き潰していいなら話は違ったかもしれないが。
それはそれとして、戦線が下がるごとに気温の低下と降雪量の増加が確認されたのは因果関係を結びつけるのは必然。
事実なのだろうが本質的な原因は解っていないが、とにもかくにも一時的に吹雪すらも発生するほどの豪雪を街が襲っている。
そして、実はレーロイドという街は降雪対策が成されていない。今まで、必要が無かったのだ。
これがゲームの中の街だったからなのかどうかはともかく、少なくとも確認できるだけの記録では積もるほどの雪が降ったことは今までに無かったようである。
「もう少し、これくらいの除雪作業ができる人材が居てくれると楽なんですけどね」
「それは難しいかと思われますよ? フィル様ほど素晴らしい制御能力を持つ方は稀有ですから」
「知っています。大半の子は石畳を焦がしてしまいますので」
術理で雪を溶かして除去するのは難しい。
炎を以て氷を解かすのは可能だが、温度が高すぎれば周囲の物を焼くだけでなく、場合によっては水蒸気爆発を起こして甚大な被害を及ぼす。
また単純に溶かして水に戻すだけだと、路面を濡らす水はすぐに凍り付きスケートリンクもかくやという氷面を生み出すことになる。
その上、排水溝もまた凍り付いてしまっているので水として処理する事もままならない。
そうなると最も確実なのは適切な温度を一定時間保って蒸発させ、蒸気の状態で街の外へ押し流すことである。
或いは完全に氷の塊に作り替えて投棄できる場所へ運ぶなども考えられるが、どちらにせよ路面や排水溝に水分を残すと後で処理が出来なくなったり事故の原因になるので注意が必要だ。
(まぁ、こんなに降るとは思っていなかったし、降雪を予想できたとしてもその危険性に気がつける人物がどれだけ居たことやら)
雪。
これを危険だと判断できる人間は豪雪地帯での生活を経験した人たちくらいかもしれない。
しかし、現代ですら数メートルも積もればドアは開かないし、自動車なんて動かなければ徒歩で移動するのは困難どころか無謀となるのだ。
何より雪は重い。背丈以上に積もってしまうと近代の除雪道具―――というより、除雪車などの重機―――があれば少しはマシだが、手作業で除去するのは尋常でない体力と労力が必要になる。
また対策していない家屋など積雪だけで容易に押し潰す。レンガ造りの建造物ですら重量に耐え切れず屋根が割れ、壁が崩れ、柱は折れる事態が発生していた。
そんな雪の被害を受けているのは街全体なのだが、その中でも特に厳しいのが貧民層、それも除雪を自力で行う事ができない肉体労働が厳しい子供や女性ばかりが居る場所だ。
筆頭に挙げられるようなものが『孤児院』であり、ノアは即座に支援を決めて行動することにした。もちろん、単純な義侠心などではない。
今回の場合は公共施設の手伝いと支援の名目で戦場行きを回避するための策の一環であり、子供たちを助けるのはついでだ。
隙間風吹き込む施設を立て直す勢いで修理し、安価な燃料で稼働するように改造した炬燵を提供し、寝具に防寒具に湯たんぽにと、色々と差し入れたりもしているけれども。
「・・・やはり、戦場には出られないのですか?」
「今のところ予定はないですね。冒険者は持久戦には向かないので」
「すでに何人もの方が撤退していると聞こえてきますものね・・・」
彼らの退避の理由は強靭さなどの問題ではないのだが、そんなことは傍からはわからない。
騎士団も冒険者互助組織もこの醜聞が広まると困るので可能な限りの隠蔽はしているし、人の行き交いも減っているので噂の拡散は抑えられている。
そうは言っても討伐に参加して戻って来た冒険者自身は愚痴を零すし、噂にもなっているくらいなのでメリエラ嬢が把握していないということは無いだろう。
単に誰が聞いているかもわからない屋外で詳細を口にするのを避けたに過ぎないが、それはノアも同様である。
なので、揃って深々と嘆息吐いた。
「お互い、色々と気苦労がありそうですね」
「ノア様ほどではないかと思いますよ? 騎士団の方々から危険な場所に出向くようにせっつかれるわけではありませんもの」
困ったように笑うメリエラ嬢だが、様々な意味で苦悩を抱え込んでいるのは間違いない。
ノアと直接のやり取りの大半を担当する事になったのも、押し付けられたからだ。
絶賛、騎士団と微妙な関係となっている人物との窓口となるのは実に厄介だろう。
気まぐれに色々な事に手を出しているせいで範囲が広すぎるのも頭が痛い問題だ。
それでいて能力は高く、多大な利益と公共貢献を成しているせいで無碍な扱いはできず、逆に頼みたいことは多岐に渡る。
その為に顔色を窺いながら行動を誘導―――できないにしても、国益に反しないように釘を刺し、可能なら動かしていく。
ちなみに、最初の担当官は見目麗しい美形男子であったが、無駄に距離が近かったせいでアルナたちを怒らせて酷い事になった。
ノア自身も言い寄られても気色が悪く感じてしまったので有難かったのやら、可哀そうなのやら、なんとも。
しかし、女性向けの色仕掛けなんてされても困るというのがノアの本心である。
結果として、交渉役のような立ち位置に白羽の矢が立ったのが女性であり断ることが出来ないメリエラ嬢というわけだ。
「とはいえ、こちらはこちらで好きにやるだけですけどね。冒険者というのはそういう奴らのことです」
「致し方のない事です。貴女方の自由を保証する代わりに、国民としての庇護を放棄しているのですから」
それは事実であるが、全てではない。
むしろ、それだけだったら制度として回るはずがないのだ。
しかしながら、今は無関係なのでノアは苦笑と共に頷きを返すに留める。
「くちゅんっ!」
「「・・・」」
意外と可愛らしいクシャミに思わずノアとフィルが視線を投げると、メリエラ嬢は耳まで真っ赤にして俯いてしまう。
やはり貴族というよりはちょっと裕福な家のお嬢さんといった風情で可愛らしい。
「す、すみません・・・お見苦しいところを・・・」
「いえいえ、冷え込んでいますからお気になさらずに」
思わず笑みが零れてしまい、それを非難するような視線が飛んでくる。
さすがに小馬鹿にされたような状況は許容しがたいということらしい。
しかし、実年齢よりも幼く可愛らしい態度には笑みを深めざるを得ず、咎めるような、拗ねるような表情を浮かべる彼女のご機嫌を取るために一計を案じる。
といっても特別な事をするわけではない。首に巻いているマフラーを引っこ抜いて彼女の首に巻き付けてやるだけだ。
「あ・・・」
「習作で申し訳ないけれど、多少は温かくなるかな?」
「え、あ、しゅ、習作―――ノア様の手作りなのですか・・・っ!?」
驚愕に目を見開くものの、ゆっくりと嬉しそうに頬を緩めて白灰色の柔らかなマフラーにそっと顔を埋める。
大型のシルバーファングの尻尾を丸々ひとつ加工して作った一品は習作であるために多少不格好ではあるが、店で買おうとすると中級貴族であっても半年くらいは倹約に努める必要があるくらいには高価だ。
シルバーファングの尾の中には骨が通っており、毛も素材そのままでは縫い針のように肌を鋭く刺すような代物で、色合いも薄汚れた灰色である。
これを素材加工の練習として骨抜きに体毛の軟化と繕いに染色と複数の工程を行って、綿を詰め縫い合わせる事で大きく形を変えずに作れるマフラーにしてみたという物。
しかし、作ってみたは良いものの冒険者の肉体というのは戦闘中でなくとも十分すぎるくらいに頑強だ。
アコルが露出の多い衣装で防寒らしい防寒をせずとも割と平気そうにしているのと同様に、ノアも特に必要のない代物である。
せっかくの雪模様なので身に着けていたが、持て余してしまうくらいなら適度な理由を付けて手放す事に何の問題もない。
「差し上げます。しばらくは凍える気温が続くと思いますから」
「え? え!? よ、よろしいのですか!? こんな、高価な―――」
「問題ありません。これでも寒さに強い冒険者なので」
微笑みかけるとメリエラ嬢の頬が朱に染まる。
その様子が可愛かったのかフィルが彼女の頭をポンポンと叩いているが、気にした様子もない。
一般的には高価な贈り物なので袖の下になるかもしれないと怯えているのかもしれない、などとノアは考えつつ彼女の手を取る。
「あまり外に居て体を冷やしても仕方が無いので、行きましょうか」
「・・・は、はい・・・」
メリエラはホンの少しだけ胸を高鳴らせ、身体を強張らせたまま重ねた手のひらにエスコートされて歩き出した。