36 落ちる影の気配に
埃とカビの饐えた香りが鼻につく。
清掃が行き届いているとは思っていなかったが、独特の臭気にノアは眉を顰めた。
古代遺跡は地上部分が3階層設定されていたが、都全体が建造物のようになっており屋外というわけではない。
そのため、入り組んだ通路は全てが光の加減で金にも見えるレンガのような石材で構築されていた。
等間隔で床に角灯のような光源が設置されているので完全な闇が広がっているということもない。
けれど、十分な光源というわけではないので薄暗く、屋内ということもあって見通しが利き辛い。
落とし穴や釣り天井といった古風だが効果的な罠も、この環境では肉眼で発見するのが難しいだろう。
「・・・見え方は違うけど罠発見の能力はちゃんと効果があるみたいだね」
そんな薄い闇の中に浮かび上がるように、赤と緑の線でワイヤーフレームモデリングのように罠が視界に映る。
視界の中にある赤はこの迷宮の中で最も数の多い落とし穴と、緑は通過しようとするとレーザーで切断されるレーザートラップ。
このダンジョンにはゲームの時の情報が正しいのなら、という前提ではあるが、視界内に無い罠は他に2種類。
釣り天井やせり出す壁の圧殺系トラップと場合によっては部屋ごと爆砕される広範囲攻撃の地雷系トラップがある。
どの罠にせよ、今のように自動的に視認できるのなら、極端に恐れる必要性は少ないように思う。
ただ、ゲーム時には『!』マークだけで表示されていて、それをアクションコマンドで調べるだけで罠を解除できていた。
そういった変化がある以上、油断していいわけがないのは確実だ。
「常時発動な能力は確認しづらいのよねぇ。大半が耐性や基礎能力の向上だもの」
「それに、絶対の信頼を置いて良いかどうかはわからない。二重三重の確認をするくらいでちょうどいいかな」
ゲーム上では罠の発見率100%まで向上させた能力ではあるが、見落としがありました、では済まされない。
だからといって罠を見つける能力や知識を素で身に着けているわけではないので、結局はアルナ達―――パートナーNPCに頼ることになる。
「お任せください、マスター」
「手早く済ませてしまいますね」
視線を向けるとアルナが素早く駆け出し、周囲の安全を確認し、その間にイリスが床や壁に手を当てて何かを弄る。
ノア自身も罠の解除スキルは持っているはずなので、この迷宮を彷徨う中で余裕を作って指南を受けておくべきことだろう。
(壁登りは見ただけで学び取れたんだけどなぁ・・・)
身体操作と術理の技術は半ば肉体が覚えているからか、物覚えが早くモノによっては見ただけで十分に扱える。
三姉妹ができることは本来のノアならほぼ扱うことが可能な技術なのだから当然ではある。
武術や武器に関してもスパルタとはいえ僅かな期間の訓練だけで、異常な速度で達人級かそれ以上で扱えるようになったのにはそういった面があった。
しかし、罠の解除のようにそれなりに知識と技術の必要な―――身体が勝手に動く以外の―――能力に関しては『見る』だけでなく学習と経験が必要だ。
それでも0からの習得以上に早く身に着けられるのだから、積極的に学んでおくに越したことは無いだろう。
(ちょっとずつでも、自分のできる事とできない事を正確に線引きしていかないと、な)
出来る事を増やす以上に、出来ないことを正確に把握するのが難しい。
自身の経験に基づいた技能でないせいで『出来る』と自信を以て言い切れないことが原因だろう。
ゲーム画面の中での経験を自分の体験として昇華することは今のところ出来ていない。
しかし、見て、試して、失敗と成功を繰り返して技術として使用可能になることがそれに当たるのかもしれない。
そうであるのなら、やはり『ノア』というキャラクターが持っていた能力や技能は多少コツを掴めばすぐに使えるようになるだろう。
問題は、ゲームのキャラの能力を事細かに記憶していたわけではない、という事と、時間が掛かりそうだというところか。
後は耐性などの単純に検証するのが難しかったり、自身の危険が大きい類が多いということもある。
「ノア様。完了いたしましたわ」
「・・・うん、ありがとう。イリス」
少々考え事に浸っている間に罠の解除が完了したらしい。
見れば赤かった罠の表示が緑色に変わっている。
落とし穴なのでアルナが『蓋』の真上で軽く飛び跳ねて完全に解除できたのかを身体で確認していた。
普通に考えれば危険極まりないが、アルナの場合は『幻影』で穴を塞ぐように板でも出せば落下しないので問題はないだろう。
「問題なさそうだね」
「はい。アルナ姉さんやフィルも解除の技能は扱えそうです」
「自分でできそうにないのが面目ないところだね・・・」
ノアが苦笑を浮かべると、柔らかな微笑みが返ってきた。
技能に不安があるからとあまり頼りすぎるのも情けない話ではあるが、まだしばらくはどうにもできそうにない。
「お姉ちゃん」
「そっちはどう?」
「ん。大丈夫そう・・・」
ふわりと輝く翅を揺らしながら飛び込んでくるフィルを抱き留めながら問うと、彼女は胸に顔を埋めるように小さく頷いた。
クッションの様に扱われているが、もう慣れたものでリアクションとしても少女の頭を撫でて小さく呆れの溜息を吐く程度で留まる。
基がゲームのキャラクターだからなのかノアや他のメンバーの体臭はさほど強くなく、蒸れる位置ではあるが彼女が嫌な顔をしたことは無い。
それでいて香水は一般的にも普及しているというのも不思議な感覚ではあるのだが。
「何を調べてもらったの?」
ホンの少しだけ羨ましそうにフィルを見ながら、カザジマが訊いてきた。
上裸の男(中身中学生女子)が眉目秀麗な女性(中身大学生男子)に抱き着いている姿は流石に不味いと感じているようで、流石に自重してくれている。
そもそも身内でもない年頃の異性に遠慮なく抱き着く行為は男女どちらにしても結構に問題があるだろう。
いや、壮年男性が明らかに年下の女性の胸に顔を埋める構図は単純にヤバい絵面だし、抱き着かれる側として生理的にも受け付けないのだけれども。
「・・・空気の流れがあるか調べてもらったんだよ。遺跡って設定ではあるけど、単純な石造りってわけじゃないし」
「そんなの気にする必要あるの?」
「そりゃあ、まぁ」
戦闘に入れば魔法のような力とはいえ火や雷を乱発する。
機械に分類される敵も多く、場合によっては爆発が起こることも考えられるだろう。
密閉空間で空気を過剰に消費すればどうなるかなんて、少し考えればわかる話だった。
「それに、中で夜を過ごすことになれば火を起こす必要があるかもしれないし」
「あ~、二酸化炭素中毒とか!」
「そうそう。まぁ、素人考えすぎて対策になるかも不明だけど」
カザジマが『聞いたことある!』って顔で大きく頷くので、調子を合わせておく。
この遺跡は、良くある設定の古代文明―――今とは違う技術体系が成長していたころの建造物。
それを考えれば密閉空間の危険は知っていただろうし、空気穴や換気システムが存在していても不思議はない。
どちらにせよ、火に分類される技能や能力は使用を控えるのが良さそうだ。
「空気の流れがあるということは出口も複数ありそうね~」
「そう言われるとそうかも・・・」
アコルが何気なくそんな言葉を口にしたので気になってしまった。
ゲーム時は中身の構造がどれほど変化しても入り口と出口は一つだったが、今はそうとは限らない。
そうなると、ゲーム脳的には未知のエリアに珍しいお宝アイテムがあるのかも・・・なんて考えてしまう。
残念なことに、余計な探索をするほどの余裕はなさそうなのだけれど。
「これ以上は入って確かめるしかないか。足踏みばかりしていてもね」
「そうですね・・・」
イリスの声音に不安が混ざったのを確認して、軽く頭を撫でる。
敗退の記憶は彼女たちにとって今のノアたちよりもよほど鮮明で生々しい。
復活できないかもしれない―――その不安が大きく出てしまうのも仕方のない事だった。
下手をすれば。否、確実に元プレイヤーよりも余程『死』の経験があるのだから。
「大丈夫ですよ、マスター。貴女も、妹たちも私が守りますから」
「・・・はぁ」
自信満々に胸を張るアルナの頭に軽くチョップをくれてやる。
あぅっ!と気の抜けた声が彼女の口から漏れるのを半眼で眺めるが、アルナは不思議そうに小首を傾げた。
「勘違いしているみたいだけど」
行く手を遮る巨大な関門。
ゲームとはいえ、多くの人を殺し、拒んできた強大な迷宮。
その姿を見据えてノアは口を開いた。
「誰かが誰かを護るんじゃなく、全員で協力して先に進むんだ。決して誰か一人だけが何かをするわけじゃない」
「え、あ・・・それは、そうですけど・・・」
「全員が全員を活かす。パーティープレイの基本だろう?」
人数制限のあるゲームやスポーツで良く使われる言葉だ。
パーティメンバーの能力が被らないようにするのは様々な状況に対応するため。
それと同時に役割を分散することで負担を平均化するためでもある。
ゲームデザインとしても協力するタイプのモノではやることがないプレイヤーが発生しないようにするのは基本だろう。
何より、下手に肯定的なことを言ってしまうとアルナ達は頑張りすぎてしまう。
多少、屁理屈じみた言葉を使ってでも抑制しておく必要がある。
「チームスポーツと一緒で、エースは居ても不要なメンバーは居ない。自己犠牲は無し。いいね?」
「それは、そうなのですが・・・」
「あの夜にやらかしちゃったからね。誰かが死にかける前に誰かが助ける、というのを全員で心掛ける。いいね?」
ボロボロになったノア自身はもちろん、アルナ達も神妙に頷きを返す。
彼女たちにとっては主たるノアが一番ではあるが、それでも誰かが『脱落』することなど考えたくない。
「それに、アルナに護ってもらうばかりではないよ。イリスもフィルも、もちろん残りもね」
「すっごい雑に扱われてる~!」
カザジマが不満の声を漏らすが、偽らざる本心だった。
三姉妹は全員が全員頼りになるし、ここまでの道中でアコルやカザジマも多少は慣れてきて任せられることも増えてきている。
何よりも、突発的で、一時的とはいえ戦力の分散が必要だった街での戦闘とは状況が大きく異なる。
事前に連携の確認や物資の準備はもちろん、今回は最初から全員が一緒だ。
「ともかく、張り切り過ぎないこと。アルナは特に、ね?」
「・・・はい」
不承不承と言った様子で、アルナが頷くのを見て内心で嘆息吐く。
パーティの盾役を任せている彼女はどうにもあの夜以来、気負い過ぎている気がする。
ノアが大きなダメージを受けたのは自身の判断ミスの面が強いのだが、自分が引き受けるべきだったとアルナは思っているようだ。
だが、今は誰が攻撃を受けるか、ではなく、如何に怪我を負わないようにするべきかを考えるべきだろう。
ヒットポイントを数字で確認できるわけではないし、ゲームの時と違って痛みを感じながら常に万全のパフォーマンスを保つのも不可能だ。
(盾を装備しているからって、全部の攻撃をアルナが受け止めるのは不可能だし、負担が大きすぎる)
強く言ってでもアルナが自分の身を盾にしようなどと馬鹿なことをしないように釘を刺しておく必要があるとノアは感じていた。
自分が感情的に行動してしまう事もあるので心苦しいのだけれど、自分が傷を負うより彼女たちが血を流す方が耐え難い。
アルナたちが同じように感じているとしても、これについてノアは自分の我儘を押し通すつもりだった。
「ちゃんと全員が無事に抜けられるように考える事。いいね、アルナ?」
「・・・了解、です。確かに肩に力が入っていました」
完全に納得している様子ではなかったが、言葉の意図は通じたようだ。
ここで刺した釘がどれほどに意味を成すかは不明だが、意味はあると思いたいのがノアの心情であった。
目の前でアルナが倒れたら平静を保っていることができそうにない。
「できるだけ平常心でいこう」
「ただでさえ、不安は尽きないものねぇ~」
苦笑しながら言ったアコルの言葉に、ノアは薄暗く黴臭い通路の奥に蔓延る闇を見据え同意するように小さく頷きを返した。