27 空を舞う翼
片腕を捥ぎ取られ、足場を踏み外し、空へと投げ出されたノアはそれでもまだ冷静だった。
(海面までの高さは五階建ての建造物くらいかな? この身体ならたぶん大きな怪我を負うこともないだろうけど)
自身の身体の耐久度というのを正確には把握していない。
限界を知るために狂気に満ちた自傷行為を繰り返して調べる必要性も感じていないからだ。
それでもこの程度の高さから地面に叩きつけられたくらいで命を失うことはないと断言できる程度には今の肉体は常軌を逸していることを理解している。
もしかすれば戦闘義体の状態ならそういう物理的な衝撃では死なない可能性もあるとすら思っていた。
試すつもりはサラサラなかったのだが。
下が海だろうが氷の足場だろうが落下時の衝撃は同じくらいだろうと考えながらノアは身を固くした。
空中で何らかの攻撃を受けた場合も基本的には耐えるしかない。
現在のノアの能力構成は記憶にある限り防御技能が存在しないし、足場のない空中で自由自在に回避するための能力も持ち合わせが思いつかなかった。
リスクを承知で挑んだのだから現状は当然の結果のひとつ―――簡単に予想できた事態でもあったのだから今更になって慌てる事でもない。
(まぁ、一度だけなら『空中跳躍』で回避もできるし、勢いを殺すこともできる。後は下に辿り着いてからアルナ達と再合流するまで生き残れば―――)
そんな風に思っていたが落下先が見えた瞬間に一時的に思考が停止した。
彼女の思考から完全に抜けていた存在―――アグリッシュと呼ばれる半魚人の敵が槍を構えて待ち受けて居る様を目視したことでノアは小さく息を呑む。
彼らの攻撃は巨人の胴体の上まで届かないし、巨人自体が暴れ回ったので巻き添えを危惧して距離を取ると思っていたこともあって完全に頭の中から追い出していた。
だが、水中を自在に泳ぐ彼らにとって数百メートル、もしかしたらキロ単位でのヒット&アウェイにも似た移動なんてさして問題にならないのかもしれない。
(―――っ!? マズい。単純な物理的衝撃はともかく『攻撃』と判定されると普通にやられる・・・!)
ゲームだった時には敵味方を問わず戦闘に参加可能なキャラに実装されていた障壁装甲というのは『この世界』ではかなり凶悪な能力だ。
相手がただの人間ならあっさりと命を奪ってしまうであろう投擲攻撃を防がれた記憶はノアの中ではまだ新しい。
その経験から単純な物理現象や衝撃はほとんど無効化できると踏んでいたが、この港での一件で散々敵を切り伏せたことで近接物理攻撃には意味がないことを十分に理解させられた。
もちろん、それ以前に街道での『狩り』でも確認はしていたのだが。
(ゲームの時のステータスを考えれば何発かは耐えられるかもしれない。けど―――)
一閃で首を落とした数だけは多い敵の姿が脳裏を過る。
そもそも、仮の肉体とはいえ頭や心臓を貫かれて生きている光景を想像できない。
「か、かい、ひ―――」
加速した思考は一秒にも満たない時間で絶望的な状況という結論を出したが、一度空を蹴る程度の技能ではどうすることもできそうになかった。
震える唇ではまともな言葉にもならず、すでに指示を出した頼れる三姉妹は一時的にノアを意識から外している。
イリスの奏でる壮大な演奏が風音の合間を縫って耳に届き、なんとなく葬送曲という言葉が思い浮かんだ。
(・・・判断を、誤った・・・?)
せめて、フィルのように自由に空中を―――
―――翼があったら飛べたのだろうか。
それを考えたのは何時の出来事だっただろう。
妖精である三姉妹の末娘は普段は存在しない幻想の翅を広げて自由に宙を舞う。
あの時、ノアは翼があったらと考え、ゲーム時には画面の中の視野を広げるために消してしまったからと結論付けた。
けれども同じ理由で普段は消しているフィルは自分の意思で空を飛ぶための力を発現させ自在に操っている。
それに気が付いて彼女は大きく目を見開き、小さく息を呑んだ。
ノアの設定種族は天翼。
天を自由に行き交う『天使』の血に連なるという設定が成された存在だ。
(人間サイズの生物が空を飛ぶのに鳥類と同様の翼だと筋力が足りないって聞いたことがあるけど・・・いや、そもそもフィルなんて実体の無い翅で飛んでいるのだし今更か)
物理と常識で全ての説明が付くのなら、そもそもこんな場所で死にそうになってはいない。
そう割り切って背中に生えているはずの『翼』へ意識を向けてみるが―――。
(そもそも普通の人間に無い器官の感覚ってどういう? というか、実際に無いのだし無意味? イメージすれば、とかそういう類の話か?)
咄嗟に回す思考が纏まるはずもなく、困惑と焦燥で幾つもの言葉が次々に浮かび上がっては消えていく。
重力加速度が地球と同じなら、それこそ数秒間だったはずだが彼女の意識と思考は何時間も経っているかのような体感時間を過ごしている。
本人も自覚しないまま、時間を引き延ばすような思考時間の中で何故かイリスの奏でる音楽を感じ取る。
一秒間に奏でられる音の数は限られているし、音と音の連なりが『音楽』である以上、それはあり得ないことだ。
けれど、その音に包まれる感覚に不思議な高揚感と温かさを感じて異常なことだとはまるで考えなかった。
(―――いきなり『翼』で空を自由に動けるなんて考えない方がいい。自分はもちろん、ゲーム時の『ノア』ですらできなかった事が土壇場でできるはずがない)
その演奏に包まれていると冷静さが多少なりとも戻ってくる。
能力強化の効果もあるのか、千切れた腕の痛みもずいぶんと引いて全身に力が漲った。
(だからといって攻撃を掻い潜って海中へ逃れるのは下策だと思う。血は出ていないけど、この傷で海水に浸かるのも危なそうだ)
氷の上に逃げるのが妥当に思えるが、周囲の氷は巨人が腕を振り下ろした際に破砕されて一度跳ぶだけでは届きそうにない。
上下左右、360°全てから攻撃を受ける水中で防御に徹するのも良い案とは思えず、結局は距離を取るという考えに戻ってくる。
(あれ? 一時的に逃れるだけなら――― 要は空中を移動できればいいだけなら、別に天使の翼なんて必要ないのでは?)
思い浮かんだのは、別になんてことのない一つの光景。
それはこの世界では珍しいかもしれないが、ノアの中の人物は良く知っているもの。
最後に作ったのは中学生くらいだった気もするが、休み時間に暇つぶしに何とはなく作って飛ばした―――紙飛行機。
(人が乗るなら滑空機の方が妥当だろうか? フィルのように自由に移動できなくとも足場のある場所へ向けて移動するくらいなら、可能、だろうか?)
存在しない翼で真っ直ぐに滑空する。
すでに常識離れしたゲームの世界を体験してきた彼女には、別段それが不可能だとは思えなかった。
(それ以前に、自傷覚悟なら空中で爆発でも突風でも起こして強引に移動することだってやろうと思えばできるんだし)
動転して考え付かなかった方法がパッと思い浮かんで苦笑が漏れる。
それと同時に白い輝きが体を包み、背中で弾けた。
幻想が力を持ち、光に形を与えて彼女の背後で風を掴む。
「うぇっ!?」
がくんっ、と体に衝撃が走り首根っこを掴まれて服で首が絞まったかのような感覚に呻きが漏れる。
何もない空中に水や氷を創り出す事は術理の基礎として特訓してきた。
その経験を活かし、自分の背中に『何か』の力で翼を創り出していく。
ハングライダーの経験はなかったが、写真や映像で見た記憶を頼りにイメージして。
(自由に動かせる必要なんてない。滑空するための翼に必要なのは―――なんだろう?)
詳しくもないグライダーの知識などそんなものである。
しかし、それでも最低限、自分の身体よりも大きく風を捉え穴が開いていない翼をイメージできた。
ノアの背に広がる白い輝きの翼は傍目には完全に天使の翼だったが、彼女の頭の中では三角形の凧のようなモノだ。
白い光と不可視の力場で作られた簡易的な翼は、それ故に―――
「うっ、わっ!? ちょっ、えぇ~~~っ!?」
―――全く制御が効かなかった。
巨人が暴れ、周囲の気温が急激に変動し、様々な攻撃が飛び交うせいで気流が複雑になっていたことも理由なのかもしれない。
乱れ舞う風に翻弄されてノアの肉体はキリモミしながら落ちていく。
自分の意図しない方向に無理やり振り回されているような感覚に三半規管が悲鳴を上げた。
「ぐっ、げっ、う゛っ、がっ・・・!?」
ガクンガクンと不規則に空をふらつく度に全身を衝撃が襲ってくる。
しかし、その予測の付かない動きのおかげで水中の敵は狙いが定まらず、結果としてほとんど被弾することはなかった。
半ば墜落にも似た角度ではあったものの、気流の向きが良かったのか巨躯から離れる軌道で海水の上を通り過ぎ、一度の空を踏む跳躍を挟んで氷の足場へと辿り着く。
それでも肩から叩きつけられるような無様な格好でようやく、といった形だったが。
「くっ・・・っ・・・!」
ホッと一息つく余裕すらもない。
着陸とほぼ同時に彼女を追ってアグリッシュが水中から飛び出してくる
慌ててノアは装備を変更し、腰元へと手を伸ばそうとした。
「!」
が、咄嗟に伸ばそうとした利き腕を失っていることを今更ながら思い出す。
左腰に佩いた日本刀を左手で抜こうとしたのだができなかったからだ。
小太刀ならまだしも、日本刀の場合は鯉口―――刀の鞘の口から引き抜く刃の長さが、伸ばしきった腕の長さよりも長いのが普通である。
抜くには相応の訓練と特別な体の使い方が必要となる特殊な技能。
そのことに思い至り彼女は僅かな硬直の後、抜刀を諦めてその失態を取り返す様に華麗なステップを踏みながら半魚人の繰り出す槍を回避してみせた。
(下手に抜刀いていたら無駄に隙を作っていた・・・けど、どうする?)
距離を取ろうとナイフを投擲して牽制する。
しかし、半魚人の戦士はその攻撃をあっさりと弾き飛ばして空いた距離を埋めるように詰めてきた。
それは目の前の相手だけでなく、次々に水中から顔を出す他の相手も、だ。
日本刀は使えない、と判断して二刀の装備にさらに変更する。
腰を引くように捻りつつ振り抜くように左手を突き出してギリギリのタイミングではあったが脇差の刃を抜く。
抜刀と共に勢いよく振るった刃が槍の穂先とぶつかり合って火花が散った。
武器を手放した状態で装備を変更すれば手元に戻ってくるのはありがたい仕様としか言いようがない。
けれど、銀の槍を弾くことは何とかできたのだが反撃に回ることができずに防戦を強いられることになった。
利き手で投げれば術理と合わせて使用することで障壁装甲を貫通する攻撃も可能だが左腕一本では威力に欠ける。
ましてやその左手は脇差を振るって相手の攻撃を反らし、迎撃防御のために使うので精いっぱいで反撃の隙を作ることすらできていなかった。
「くっ!」
(このままだと数で押し切られる。退路を維持し続けるのも限界があるし)
氷の足場はさほど広くない。
後退を繰り返すことで包囲されるのを避けているがすぐに限界が来るのは目に見えている。
限界まで追い詰められるよりも早くにノアは決断を下し、突き出される槍へと向かって飛び込んだ。
「ヴァ!?」
最も特出していた一体の顔面を踏み台に宙を舞う。
宙へ向けて放たれる水流の攻撃を障壁盾―――障壁装甲を扱える全員が使用できる簡易の防御術でいなしながら再度翼を羽ばたかせた。
正確には凧のように維持している背中の力場に上昇気流となるように風を操って吹き当てたのだ。
(翼の感覚なんてわからない。けど、術理で風を操れれば・・・!)
優雅に空を行く、なんてことにはならない。
多少の訓練をしてはみたものの、風を操るというのが感覚的過ぎて繊細な操作など望むべくもない。
また、どういう風がどのように翼に当たればうまく飛べるかなど理解していないし、ノアが周囲の風を操れるといっても限定的なモノだ。
特定の方向に突風を吹かせる程度でしかないが、それでも時間を稼ぐだけの意味はあった。
くるくると無様に回りながらもかなりの高速で海上を移動し、敵の集団の頭上を通過する。
「うっ、ぐ・・・」
突風を自分に叩きつけたからか呼吸が苦しく、上下の区別もなく回転したせいで軽く吐き気を覚える。
それでも小さな氷を蹴って体勢を整え、装備を変更して刀を落とすようにしながら空中で日本刀を抜く。
片腕しか使えないのなら多少なりとも間合いを伸ばした方がいいと考えてのことだ。
今のノアには右腕だろうが左腕だろうが小枝のように刃を振るうだけの筋力もある。
もちろん利き手の方が力強く器用には扱えるが。
「って・・・へ!?」
何とか迎撃の体勢を整えつつ氷の大地に着地したと思うと、天空に巨大な『剣』が出現していた。
しかし、問題はそこではなかった。
必死だったせいでノアが気付いた時には輝く刃が巨躯を粉砕しながら海へと突き立った直後だったからだ。
すでに巨大な水柱が立ち上り、それを呼び水に巨大な高波を発生させて全てを呑み込む勢いで迫りつつあった。
流石に巨人の頭までとは言わないまでも胸くらいの高さまで迫る巨大な水の壁に頬が引き攣る。
すでにその水流に巻き込まれたのか多くの半魚人や武器に、港を襲っていた触手頭の岩人形のような影が水の壁の中に垣間見えた。
「馬っ・・・おまっ・・・こんなの―――」
背中に翼を作った時と同じように不可視の力場で足場を創りつつ強く踏み込む。
無意識に周囲の全てを完全に制御しつつ、空を踏みしめた足を軸にしてその場で回転。
翼を構築していた『力』を刀身に込め直し、その刃が真白の輝きを得て遠心力と共に横薙ぎに振り抜く。
「・・・ふっ!!!」
高波を一文字に切り裂き、剣風のように放たれた風の術理が水の勢いを大きく低減させる。
けれども、質量を持つ水の方が強かったのか完全には相殺できずに体ごと攫われそうになる水流を全身に浴びながらも何とか空中に踏み止まった。
洗い流そうとする水の圧力に打ち勝ち、呼吸ができなかったためか荒い吐息を漏らしながら、小さく肩を震わせる。
全身がびしょ濡れで右腕の付け根が鈍く痛み、服がベタベタと全身に張り付く感触が気色悪く、彼女の長い髪がべっちょりと顔に掛かった。。
だが、それでも。そんなことよりも―――
「―――殺す気かぁぁああ・・・っ!?」
俯き気味だった顔を上げて、思わず心の底から溢れ出た怒声が、夜の海に響き渡った。




